第6話 深い森の泉
深い森にいた。
森の岩場の縁に腰掛け、背中を預けている。
今日だけで二頭の魔獣を仕留めていた。
そのせいか、小物の魔物たちは彼の近くに寄り付かない。
ギルバートは、王都からの手紙を読み終えると小さな焚火の中に放り込んだ。
宰相からの連絡文とランバート王からの「ダーナクレア辺境伯令嬢の身上書」だ。
ラナのことは、水魔を葬る力があるから、それだけだ。
他のことは知らなくても構わなかったのに。
ランバートはお節介だ。
(誕生日か…)
宙を仰ぐ。アミエリウスの二つの月が浮かんでいる。
「旦那様、」
焚火の向こうで、アマクが膝をついた。
「お言いつけの通り、『道具屋』へ運びました。」
「…何か言っていたか。」
「まだ、足りない、と。」アマクが薄く笑う。
「強欲だな。」
ギルバートが苦笑を浮かべる。
「ですが、旦那様も。
御身のために。
十日になります。」
「わかっている。」
左手首の腕輪を見る。
心なしかきつくなっている。
ギルバートの黒い腕輪は、十日に一度の割合で、魔物の血を欲する。
厄介な話だ。
そのため、どこかに落ち着くことはできない。
深い、魔獣の住む森に入って、それを狩り、生き延びている。
魔獣の血は腕輪の糧となり、肉や毛皮は『魔道具』の素となる。
ギルバートの手にかかった魔獣は、その魔力の量や大きさでは最上級のものだ。
それを「道具屋」は高値で引き取る。
ギルバートは金銭を受け取ることはなかったが、必要な『魔道具』と交換することはある。
ラナのための『みかわ糸』布や剣の代金の類いは、魔獣と引き換えだ。
今回は、それに唇を奪われるというおまけまでつけさせられた。
「フィイ達はどのあたりまで来た?」
「ここから少し先のダウリ村でございます。」
「思ったより早いな。」
アマクの口元が上がった。
「例のお嬢様がうまく立ち回っておられます。」
「?」
「儲けておられるようです。」
ギルバートが眉間に皺を寄せた。
◇◇◇
「さて、今日も一日、ご苦労さまでした。」
宿舎代わりにしている馬車の荷台で、ラナは、フィイとロシュに頭を下げた。馬車の薬材は少し減ったが、その分、金箱は少し重くなった。
「薬草もだけど、香草が売れたのは大きかったわね。」
「で、いくらになったの?」
楽しそうにロシュが尋ねた。
「これで、銅貨百八十四枚、増えました。」
「ふーん。」
「でも、明日、仕入れにも使うつもりだから、儲けはほんのちょっとよ。」
「それでも今晩は、飯屋で酒がつけられるな。」
ロシュが嬉しそうにいう。
「『今晩は』、じゃなくて、毎晩されていますよ、お師匠さま。」
フィイが呆れて言う。
ラナは、フィイに箱から小さな袋を渡した。
「ロシュ様とご飯に行ってらっしゃい。」
「ラナ様もご一緒に。」
「私はいいのよ。
飯屋に行っても食べるものないし。
ここの留守番もあるしね。」
「って、ラナ様はずっとそうですよ!」
「だからね、フィイ、ご飯食べられないんだって。」
ラナが苦笑する。
「好き嫌いが多いのはだめなんですよ!」
フィイが口をとがらせる。
「こら、フィイ、ラナ嬢を困らせないの!」
ロシュがフィイの頭をぐりぐりした。
ロシュは通行証を届けてくれたまま、二人の旅に同行している。
目的は何となくわかるが、面と向かっては尋ねない。
だが、彼がいるおかげで、子供の商売と足元を見られることはなくてすんでいる。
ロシュだけには、ラナは自分のことを少し話していた。
フィイが聞くと酷な話もある。
まさか、食事で顔が溶けるなんて見せることはできない。
誤魔かせそうにない時は、ロシュがうまく立ち回ってくれている。
「じゃ、フィイと飯、行ってくる。」
ロシュが子猫をぶら下げるようにフィイの襟をつかむと、馬車から彼を下した。
「大丈夫?」
降り際にロシュがラナに声をかけた。
「心配は、してないけどね。」
「行ってらっしゃい。」
ラナは微笑んで送り出した。
◇◇◇
アミエリウスの夜空には月が二つある。
『二つ月』と呼ばれ、月齢三十日で満ち欠けが一巡し、同時に上下の月が入れ替わる。
それが三回ごとに季節が変化し、四つの季節が一巡して一年と数えている。
互いに回り込み合う『二つ月』は、たがいの影で、満ち欠けを見せるが、数年に一度は、欠けのない望月の『二つ月』が一つに重なって見える夜がある。
その夜は、少し暗く感じるが、たいがいの晴れた『二つ月』の夜は月明かりに恵まれている。
ラナは、帳簿を革鞄にしまうと灯りを落とした。
馬車の窓から、『二つ月』を見上げる。
その明かりで、小さな赤い水筒から木彫りのコップに水を注いだ。
小さな赤い水筒と木のコップは出かけるときにエバンズ夫人に持たされたものだ。
この小さな水筒にラナの食事代わりの水を入れておくようにと固く約束させられていた。
さすがに水魔の水を食事代わりに、とは言えなかったのだろう。
ラナはコップの水を口に含み、ゆっくり飲み込んだ。
傍らの水筒が微かに震えた。
ラナは、水筒を肩にかけると馬車から出た。
馬車が影になり、辺りは暗い。
何となく暗く重い空気になっている。
通り過ぎたものの、残滓が漂っている。
彼女の馬車を害するものではなかったようだ。
「気のせいだったかな…」
馬を厩舎に預けたから、今夜は馬車を動かせない。
車輪周りを少し見回って馬車に戻ろうとしたラナの首筋に冷たいものが当たった。
背後から男の声がする。息を殺している気配もある。複数か。
「よう、ねえちゃん、」
どこにでもいそうな、ろくでもない奴。
「羽振りのよさそうな薬屋じゃないか。」
「たんまりあるんだろ?」
ふう、ラナが息をついた。
「ねえちゃんだけを置いて、出かけるなんざ、役に立たない男たちじゃないか。」
「俺たちは、勃つぜ。」
男の片手がラナを抱えようと伸びた。
「誰を相手にしているのか…」
呟きながら、ラナは水筒で男の腕を叩き落とした。
骨の折れる音がする。
男が呻くと同時にラナが男を蹴り飛ばす。
水色の髪が宙を舞う。
「このっ!」
倒れた男とは別の男がラナに剣を振りかざした。
それを水筒で受け、背中の剣を抜くと男の肘の内側を切りつけた。
痛みに男が怯む。
「命はとらない! 消えろ!」ラナが叫ぶ。
男がよろよろ立ち上がったが、彼の前を黒い獣が横切った。
「!?」
横切った後には、首のない胴体が残されていた。
「魔獣!?」
魔獣は、男の首を地面に吐き捨てると、胴体の肉に食らいついていた。
ひどく大きな狼の魔獣だ!
ラナは水筒を宙に放り投げ、『熔水剣』を手にした。
魔獣は数頭でやってきて、ラナを襲った男たちに食いついていた。
噛み裂く咀嚼音と血の匂いがする。
思わず、鼻を袖口で覆う。
(だから、地のものは嫌い…)
魔獣たちが何かを聞きつけたのか、耳を立てて顔を上げた。
月を背に一頭の赤い目の魔獣がラナの前に飛び降りた。
一番大きな狼だ。狼の魔獣。
魔狼は、眉間から右の前足にかけて、白い筋を持っていた。
黒の毛並みに一筋だけ色が違う。
『御前を穢して、申し訳ございませぬ、ダーナの姫君。』
男の声が頭の中に直接、響いた。
「え?」
赤い目の魔狼は、自分の群れに振り返ってひと鳴きした。
魔獣たちは、獲物を咥えると月の影を走り去った。
◇◇◇
『熔水剣』をしまってから、ラナは馬車の周りに、水筒の水を巻いた。
多少なりとも、血の匂いを消しておきたい。
「…さっきの、魔獣、何だったんだろう…」
(『ダーナの姫君』って…)
(そういえば、アマクって従者も私のことをそう呼んだっけ。)
(下僕ならわかるけど…)
「ただいま、ラナ。」
ご機嫌な顔でロシュ達が戻ってきた。
そんなに時間が経っていたのか。
ロシュが馬車の周りを気にした。
ラナの耳元で尋ねる。
「何かあったね?」
「血の匂いが残っている。」
ラナが苦笑する。
「これ… 魔獣?」
ラナが頷く。
「葬った?」
「私には、何もしなかった。
すぐに向こうが逃げたの。」
「そう、無事でよかった。
ごめんね、もっと早く帰ってくるべきだった。」
「フィイは?」
「あれ? 一緒だったよ。」
ロシュが辺りを見回す。
「痛いっ!」
フィイの声だった。馬車の下から聞こえた。
「どうした?」
「何かに噛まれた!?」
フィイの人差し指に血が滲んでいた。
「ひどいな。」
ロシュがフィイの指を押さえて止血した。
「ラナ、ヨモギの傷薬!」
ラナが馬車に戻って薬壺を取り出す。
「どうした?」
「馬車の下に犬か猫がいたみたいで。
危ないから、こっちに出そうと思ったら、噛まれた。」
「先に血を洗うわ。」
ラナが薬壺と一緒に持ち出した小さい水筒からフィイの傷に水をかけた。
傷がしみるのかフィイが涙目になる。
「どこにいっちゃったんだろう?」
フィイがまた馬車の下を覗き込む。
「こら、動くな。」
ロシュがフィイの手を掴む。
「あ、見つけた!」
フィイがケガしていないほうの手を伸ばした。
「おいで。
おいで、そこにいると危ないから。」
フィイがふかふかとしたものを掴んだ。
ゆっくりと手繰り寄せる。
『おくすり…』
『おくすりのにおいがする…』
小さな女の子の声がフィイに聞こえた。
「え?」
フィイが辺りを見回すが、女の子はいない。
ロシュとラナだけだ。
「フィイ?」
ラナが声を上げた。
「フィイ、この子、何?」
フィイは彼が掴んだのが小動物の尾だったのに気付いた。
白いふわふわの毛並みの白い狼だった。まだ子供の。
そして、その子狼には、白い尾が三つあった。
「えっと、」ロシュも言葉に困る。
「魔物にしちゃ、奇麗だな。いい毛並みだ。」
「この子もケガしてるわよ。」
子狼の前足に血がにじんでいる。きれいな赤だ。
今しがたケガしたばかりかもしれない。
「あなたもいらっしゃい。
手当、しましょうね。」
ラナが子狼を抱きかかえた。
『やだっ! はなして! にんげん、きらい!』
フィイの頭の中で声がした。女の子の声。
と、同時に子狼がラナの腕の中で暴れている。
フィイが子狼に手を伸ばした。頭をなでる。
「その人は怖くないよ。優しいよ」
「フィイ?」ラナが不思議そうにフィイを見た。
子狼がフィイの顔を見ておとなしくなった。
「ケガしたから、お薬が欲しかったの?」フィイが言う。
『こわいことしない?』女の子の声が言った。
「しないよ。」フィイが答える。
子狼がフィイの指先をなめた。
ロシュとラナが顔を見合わせる。
「フィイ、誰としゃべっているの?」
「この子…」
フィイが子狼に笑いかけた。
ラナの腕の中で子狼が小さくぐずった。
「手当を、かわいそうに血が出ています!」
ラナが子狼を膝の上に置いた。
血のにじんだ前足を水で洗って、薬を湿布してやる。
少し染みたのか子狼も涙目になっている。
フィイの傷は、ロシュが手当てしていた。
子狼もフィイも同じような場所に包帯を巻いてもらっていた。
「お揃いだね。」
フィイがラナから子狼を受け取り、胸に抱いた。
「フィイ、魔獣かもしれないよ。」ロシュが言う。
「大丈夫だと思います、お師匠さま。」
「本当に魔獣なら、こんなに白くて綺麗じゃないです。きっと!」
ロシュとラナが顔を見合わせる。
「私の水筒は、なんともないわ。
もし、魔獣なら、水魔でなくても教えてくれるから。」
ラナの水筒は無反応だ。
『にんげんはきらい。えりまきにするっていわれた。』
「人間に捕まったの?」
『おとうさんにしかられる。もりからでちゃった。』
子狼がしょげていた。
『おくすりがいるの。
おとうさん、おなかをけがしたから。
おくすりのにおいがしたからとりにきたの。』
「ケガ?」
『くろいのにおなかをかまれたの。
おとうさん、いたいってかおしたの。』
子狼はフィイの顔を見上げていた。
とても澄んだ青い瞳。
涙で潤んでいる。
「フィイ、その狼と話しているの?」
ロシュがフィイに尋ねた。
「え?
ああ、頭の中に言葉が聞こえて。」
ロシュが困惑顔をする。
「じゃ、フィイ、何て言っているの?」ラナが尋ねる。
「えっと、この子のお父さんが黒いのにお腹を噛まれてケガしたって。」
「!?」
「それで、薬の匂いがしたから… ケガの薬が欲しいそうです!」
フィイがラナを見た。
「分けてあげられるでしょうか?」
「それは、かまわないけど。
でも、傷を見なきゃ、どれがいいか、わからないわよ。」
「あー。」
フィイがうなだれる。
「ラナ、だめだよ。」
先にロシュが牽制した。
「ケガしたやつのところに行こう、と思ってるだろう?」
「うっ!」当たりだ。
「黒いやつに腹を噛まれたなんて、魔獣の獲物になったに違いない。
それじゃ、普通の薬じゃ治らない。」
「魔獣に食われたら、死ぬか魔獣になるかしかないんだから。」
『おとうさん、どうなるの?』
子狼が心配そうにフィイをみた。フィイも返事に困る。
「でも、早くいかないと、手遅れになったら大変だわ。」
「それは却下!」
「お師匠さま!」
「却下!」
『このにんげん、きらい!』子狼が鳴く。
「それでも却下!」
◇◇◇
朝日が昇る。
馬車が街道を外れて、森への道に入った。
夜通し、子供らに粘られて、ロシュが陥落した。
あくびを、我慢もせず、保護者はゆっくりと手綱を操っていた。
魔獣がいるかもしれない森に馬車で入るなんて無謀すぎる。
しかし、子供らは譲らない。
妥協案として、夜明けを待つことにしたのだ。
「この道でいい?」
フィイは、膝に抱いた子狼に尋ねた。
ロシュの隣に座っている
『きがいっぱいあって…』
「うん、木がいっぱいあるよ。」
「そりゃ、ここは森だ。」
へそを曲げたロシュが言う。
『おおきないずみがあるの。
おいしいおみずなの。』
「泉があるそうです。」
「はいはい。
ラナ嬢、泉だって。わかる?」
「河じゃないから、自信ないけど。
確かに、水の匂いがする。」
ラナが窓から顔を出した。
「ロシュ様、停めて。」
「ん?」ロシュが馬車を停める。
「この先、馬車は危ない。」
ラナが馬車から降りた。
「水筒が鳴っている。」
ラナの肩の水筒がカタカタと震えていた。
「魔獣?」
「だと思う。
見てくるから、ここで待ってて。」
「ラナ様!?」
「フィイ、その子と待っててね。」
ラナが薄青のスカートを翻して走りだした。
◇◇◇
森が深くなり、朝日がさえぎられるとまだ夜明け前の闇と変わらない。
奥の水の匂いをたどって、ラナは走っていた。
手には『熔水剣』を握っている。
(泉!?)
水の匂いの向こうに水面が見えた。
小さな泉がいくつも点在している。
その泉のそばで、昨夜の狼に似た影が暴れていた。
どうやら、共食い状態のようだ。
ラナはその集団の中心に、一番大きな狼を見た。
眉間から白い筋が伸びている。昨夜の魔狼だ。
彼はひとり、黒い狼たち相手に防戦にまわっている。
赤目の魔狼の背後に泉がある。
少し差し込んだ朝日に水面がキラキラと輝いている。
美しい水。
魔狼はこの泉にほかの狼を入れないように防いでいるのか。
しかし、動きが悪い。
魔狼がラナを見つけた。
『姫!?』
『なぜ、ここに!』
狼が彼の背中に食いついた。振り払うがそれと同時に背中に傷を負う。
『来てはなりませぬ。』
「もう来ちゃったわよ!」
ラナは『熔水剣』で狼の首を落とした。
転がった首が別の泉に落ちる。
彼女に語りかけた赤目の魔狼に近づくため、襲ってくる狼の首を刎ねる。
しかし、首を刎ねられたはずの狼は、それでも彼女らに突進してくる。
『首がないこともわからぬのです。』
胴体だけの狼を食いちぎって、魔狼が言う。
『心臓を破るしか止められませぬ。』
「わかった!」
ラナは、『熔水剣』の刃を上に向けて持ち直すと胴体だけの狼の胸に突き上げた。
心臓を一突きされた狼が倒れる。
さすがに動かない。
だが、狼たちは次から次へと湧いて出るように彼女たちを襲ってくる。
「数が多すぎる!?」
『この森の狼たちが魔獣に変化したのです。』
「え!」
『森の泉が毒されております。
その水を口にして魔獣に。』
「貴方の後ろの泉は綺麗だわ。」
手を止めずにラナが言う。
『リル様のために守っておりました。』
「リル様?」
『姫!』
赤目の魔狼がラナの背中に飛びかかろうとした首無し狼を噛み伏せた。
ラナはその心臓に『熔水剣』を突き立てた。
「助かったわ。」
「でも、まだいる!?」
さすがに息が上がってきた。
『熔水剣』では地の魔獣を一撃で倒すのは難しい。
急所を外れると絶命しないのだ。
歯を食いしばって、狼たちを切り捨てるが埒が明かない。
ラナの隣で、赤目の魔狼が膝を折った。
「大丈夫!?」
『申し訳ない、姫。
私も魔毒に冒されております。』
「そんな!」
(あと、どのくらいいるのだろう?)
不安がよぎる。
彼女に飛びかかろうと狼が姿勢を低くした。
ラナは剣を両手で握り直した。
(まだやれるわよ、ラナ!)自分を鼓舞する。
が、狼は急に動きをとめた。少しずつ、後ずさりする。
「えっ?」
驚いたのはラナのほうだった。
狼たちは後ずさりをつづけ、少し離れたところにいたのは逃げ出している。
強い風切りの音が耳をかすめた。
ラナの髪が一筋、風で切れた。
彼女の背後から、鋭い黒剣が伸びて、前面の狼を串刺しにした。
知っている黒剣だ。
黒剣は突き刺した狼の血を吸い込んでいた。
ラナはゆっくり振り返った。
「なぜ、君がここにいる?」
ギルバートは目の前にいる水色の娘に詰問した。
「…。」ラナの方が答えに窮する。
ギルバートの出現で、狼たちは散り散りに姿を消した。
「助かった…。」小さい声で安堵する。
赤目の魔狼が横向きに倒れた。
「ちょっと!
しっかりしなさい!」
赤目の魔狼はギルバートを見上げた。
『冥主様… どうぞ、とどめをお刺し下さい。
魔毒に冒されおります。
じき、魔獣と化します。
徒なす前に、葬り下さい。』
「何を言ってるの!
まだ、魔獣じゃないわよ!
傷を見せて!」
ラナが赤目の魔狼の腹部を触った。
魔狼の腹部には歯型の残る傷があった。
「白い子供の狼に頼まれたのよ。
ケガをしているお父さんを助けてって!」
『リル様…』
ラナは剣から姿を戻した水筒の水を手に取ると狼の傷に染み込ませた。
「効くかわからないけど、ダーナの水には浄化の作用があるから。」
赤目の魔狼の呼吸が苦しそうに荒くなる。
「我慢してね、あの子のためよ。」
『リル様は、ご無事か。』
「リルって… ああ、私の友達が預かっているわ、大丈夫。」
魔狼の呼吸が少し穏やかになる。
「ラナ、そこをどけ。
それはもう魔獣だ。葬る。」
「まだ、魔獣じゃない!
魔獣じゃないわよ!」
赤目の魔狼を庇うようにラナがギルバートを見上げた。
『姫、良いのです。
冥主に葬られれば、また世に戻る機会を得られるのです。』
「え?」
『死をつかさどり、生へつなぐ。冥主のお役目です。』
「冥主?」
「私の中の魔物だ。」
ギルバートはそういって、黒剣を魔狼に向けた。
『生きるために、殺していただくのです。』
「そんな! あの子に助けて、って言われたのよ!」
「どけ!」
「いや!」
『リル様をお願いいたします。ダーナの姫君。』
赤目の魔狼の声は穏やかだった。
「どけ。」ギルバートは冷ややかだ。
ラナは、水筒を握りしめた。『熔水剣』に姿を変える。
彼女は剣をギルバートに向けた。
ゆっくりと立ち上がる。
「何の真似だ。」
ラナは、唇を噛み締めると肩からギルバートに体当たりした。
「!?」
ギルバートがよろける。
ギルバートの背後から、魔獣が現れ、ラナの右肩に喰らいついた。
「ラナ!」ギルバートが叫ぶ。
右肩を噛みちぎられる。
痛みで声も出ない。
『熔水剣』が腕ごと地面に落ちた。
ラナの身体は、魔獣とともに泉の上に飛んだ。
伸ばした左手の指先が誰かに掴まれたのに、するりと抜けた。
そのまま、水の中に落ちる。
大きな音がした。
冷たくて深い…
ラナは目の前が真っ暗になった。
ギルバートの右手は、ラナの左手を掴んだと思ったのに、空を握っていた。
そのままの姿で、ギルバートは固まってしまった。
そして、もう一つ、水音が森に響いた。