第40話 泥
ギルバートが見やったほうにいた見学者の生徒が二、三人、宙に跳ね上げられた。
子供の悲鳴が上がる。蜘蛛の子を散らすように人々が逃げ始め、その後から泥の塊が現れた。
乾いた土でも岩でもなくドロドロしている。人の姿のように見えるが、人の倍はあるかという大きさになっている。
「ルーエ、皆を避難させろ。」
ギルバートが命じる。
「はっ!
閣下は!」
「役目だからな。」
ギルバートが左手を振ると、腕輪が黒剣に変わった。
ドロドロの塊りが腕のようなもので自らの周りをなぎ倒した。逃げ損ねた生徒や中庭の木々、鍛錬用具の箱が倒される。
「生徒を守れ!」
上からジェイドの命が飛ぶ。
見学に来ていた『王立』の面々や教官たちが初年度生を学舎に避難させる。
頭から泥をかぶりながら、ルーエも子供らを抱え上げると塊から離れたところへ避難させた。
泥の塊は、ギルバートへ向かっていた。
彼は黒剣で切り裂くが地面に落ちるのは水びだしの泥土だ。
魔獣や水魔に見られる黒い塊は見えない。それをつぶさないと魔物は倒せない。
(核はどこだ!?)
何度も切り裂いたが見つからない。
泥の水分が飛び散り、ギルバートの顔にかかるとじゅっと音を立てて消えた。熱い痛みだけが顔に残る。
「閣下! 後ろ!」
ルーエが叫んだ。
ギルバートが切り捨てた泥が地面からせりあがっていた。
小さいが襲ってきた泥の塊と同じ形をしていて数も増えている。
「!」
「殿!
『ハブナ』です!」
別の男の声がした。
「『ハブナ』?」
「斬り裂いてはダメです!
頭部を地面に突き刺してください!」
男の声の通りにギルバートが泥の塊の頭頂部に黒剣を刺し、地面に押し付けた。
泥が飛び散ったあと、剣の先で黒い塊がうごめいたが吸い込まれて消えた。
「公爵様!」
銀色に光る『熔水剣』で泥を切り捨てたラナが駆けてきた。
水を断つ『熔水剣』なら泥の魔物も倒せるのだろう。
「それでは、役に立ちませんね!
私が!」
嬉しそうにそういうとラナがギルバートの前に出て泥の魔物を断ち切った。
青のスカートが翻る。
泥が飛散して黒い塊が地に落ちる。ギルバートの黒剣がそれを貫き、塊を吸い込んだ。
「なんだか数が増えてるわ!」
「私の切り刻んだものが、魔物になってしまった。」
「はあぁ!」
呆れとも溜息ともつかない息をついてラナが小さな泥魔物を切り裂いた。
『熔水剣』に斬られた泥は乾いた土に変わって地面に落ちた。
「まだ、大きいのがいる!」
『熔水剣』が一番大きい泥魔物に斬りかかった。
「無理をするな!」
ギルバートがラナを諌める。彼は黒剣を持ち直すと泥魔物を窺い、その頭部を狙う。
「足を払うので、公爵様はとどめを!」
ラナが泥魔物の足元を『熔水剣』で切り落とした。
大きな身体が傾いて地面に落ちた。
ギルバートの黒剣が泥魔物の頭部を貫いた。暴れる泥のしぶきがギルバートを汚した。その水分が彼を痛める。避けたつもりが顔にかかってしまい、痛みで片膝をついてしまった。
泥魔物はまだ絶命していない。
「ラナ! 君がとどめを!」
ギルバートの声にこたえたのはレイピアの剣だった。
針のような剣先が泥魔物を地面に突き刺した。
動きの鈍った泥魔物の黒い核を『熔水剣』が切り裂いた。水が蒸発し、土に還る。
それが消えると、周りにいた泥の塊りがべしゃりと地面に潰れた。
ラナが大きく息を吐くと振り返った。
「ギルバート様!」
ラナの声は心配そうだ。
「大丈夫ですか!」
ラナは、スカートの襞の間からハンカチを出すとギルバートに渡した。
「『みかわ糸』のハンカチです。泥を拭ってください。」
「ああ、」
ギルバートが受け取って、顔にかかった泥を拭った。少し痛みが和らぐ。
「君は?」
「私は大丈夫です!」
「ほかは?」
「怪我人がいるみたいですが、ルーエが非難させていました。」
「それより…」ラナが不安そうに泥でぬかるんだ地面を見た。
「なんだ?」
ギルバートが立ちあがった。黒剣は腕輪に戻り、拭われた火傷のあとは治りつつある。
「こんなの、初めてです。」
「泥の塊りだったな。」
「この泥は水が多すぎます!」
ラナが怒ったように言った。
(何に怒っているんだ?)ギルバートの方が不思議そうな顔をした。
「ギルバート、」
ジェイドが彼のもとに駆け寄ってきた。
「遅い!」
ラナは怒ったままで、ギルバートがため息をつく。ジェイドがその圧に押されて顔を歪めた。
「…だから、魔物は得手でないって。」
「被害は?」
「怪我した生徒が出ている。酷いのは救護馬車で運んだ。かすり傷程度のたいしたことないのは、救護室で診ている。」
「…死者は?」
「無いと言いたかったがな、一人出ている。」
「私のせいか…」
「それは違うな。」
「どこだ?」
ジェイドが目をやった先でルーエが泥の塊りを覗き込んでいた。
そちらに向かって二人が歩み寄る。ラナも後に続く。
ルーエが泥を掻き分けていた。
「足が見えたので、泥を掻き分けてみたんですが、」
泥に汚れた身体が見えた。
ルーエがジェイドに顔を向けた。
「『近衛』の隊服です。」
「顔は?」
「…ありません。」
「え?」
「首から上、ありません。」
「酷いな。」
「現場検証、始めます。」
手の空いた『王立』の隊士らが集まってきていた。ルーエの指示で動き始める。
「現場の見取り図の絵描きは?」
「今、呼びに行ってます。」
「なーんだ、じゃ、私が描こう。」
ジェイドが隊士から画板一式をとった。
「閣下?」
ルーエを無視してジェイドが泥の周りをグルグル回ってペンを走らせる。
暫くそうしてから、ジェイドが隊士に画板を渡した。
「す、すげえ。」
隊士たちが画板を覗き込んで驚いた。ルーエも覗き込む。
「上手いもんだ…。」
画板に描かれた絵は、寸分たがわない現場の素描だった。
「誰にでも取り得はある。」ギルバードが言った。
「…ジェイド様は、お上手ですよね。」ラナもいう。
「まあね。」ジェイドが得意げに答える。
「私達はどうすればいい?」ギルバートが訊ねる。「検証の役には立たん。」
「んー、悪いけど、どこかその辺で待っていて。」
「わかった。
ラナ、向こうへ行く。」
「は、はい。」
その場を離れるギルバートの後をラナも追いかけた。
「じゃ、法医を呼んで。」
「はい、」
ルーエが返事をしたところで、白い制服の人物が彼の前に立っていた。
「あ、」
「お義兄さま、」
「エリー、来てたの?」
「教えてくださったのは、お義兄さまですよ。」
「見てた?」
エリー医師が頷いた。
「怪我の生徒たちの手当は終わっています。
検視ですか?」
「頼める?」
「手伝いをお願いしても?」
エリーがルーエを見た。見つめられて思わずルーエが頷く。
「ルーエさん、服を脱がせてください。」
「え?」
「ご遺体のです。」
「あ、ああ。」
「ゆっくりとお願いします。」
ルーエがエリーに指示された通りに『近衛』の隊服を脱がせ始めた。
◇◇◇
少し前、リルは鼻が潰れそうになる酷い臭いに呻き声を上げた。
「どうした?」
『くさいの!
おはながこわれそう!』
「魔物が出るのか?」
『え、なに?』
「出なさい。」
クライブはリルを袖口から出した。
「どこか隅に隠れていなさい。」
『おじさん?』
「『フェリル』は、魔物の臭いを誰よりも早く感知する。それゆえ、魔物討伐に連れて行ったものだ。
誰に飼われているかわからないが、王都にいるということはその役目なのだな。」
『わかんないわ!』
リルが噛みつきそうな顔をした。
『でも、くさいの!
あっち!』
リルが鼻先を向けた。
クライブは、自分の杖の頭を捩じると上に引き抜いた。
レイピアの剣先が光った。
◇◇◇
「エル、皆は!?」
「学舎に入れた!」
くるくる巻き毛のエルがフィイに答えた。
「そっちは!」
「怪我人は、医務室に運んだ!」
「わかった!
フィイ、あの人!」
「旦那様だ、魔物を退治てくれる!」
「あの青い姐ちゃんは!」
「ラナ様だ!」
フィイに笑顔が浮かぶ。
「王国一の凄い方々だよ。
僕らは、逃げ遅れた人たちを助けるんだ!」
「おう!」
フィイとエルが鍛錬場の人々を誘導した。
◇◇◇
『おじさん!』
地面に飛び降りたリルはクライブを見上げた。
最初よりずっと怖い顔で前を見ている。ついていた杖が針のような剣に変わっている。
隠れろと言われたが場所を探すのも難しい。
(フィイのにおい!)
リルは、フィイのにおいのする方へ走り出した。
「おい! ここにも魔獣だ!」
リルの姿を見た『王立』の隊士が叫んだ。
(まじゅうじゃないもん!)
リルを掴まえようとした手をかいくぐって、フィイの姿を見つけた。
『フィイ!』
リルが全力で飛び上がった。小さな爪を立ててフィイの上着にしがみつく。思わず抱き留めたフィイが大きく目を見開く。
「リル!」
『フィイ!』
「どうしてここへ!」
◇◇◇
ギルバートはジェイドたちと別れてから、学舎の方に顔を向けていた。
さっきの魔物にレイピアを投げた者を探すためだ。
あのレイピアには見覚えがある。
壁にもたれかかっている初老の男を見つけた。
男の元へゆっくりと近づく。
初老の男もギルバートを見た。
「申し訳ありません、殿。
このような姿で。」
「あのレイピアは貴方でしたか。」
「…お役に立っておりませんな。」
「いや、動きを封じてもらった。
礼を言う。」
初老の男の口元にかすかに笑みが浮かんだ。
「公爵様?」
ラナが不安げに声をかけた。
「お知り合いですか。」
「『騎士見習』の教官殿だ。
かつては先代公爵の騎士だった…。」
初老の男が頭を下げた。ラナも会釈をする。
「あ、あの…?」
「足が悪いのだ。
…私のせいだ。」
ラナが二人を見比べた。どちらも苦しい表情だ。
「クライブ先生!」
懐かしい声にラナが振り返った。リルを胸に抱いたフィイが立っていた。
「旦那様、ラナ様…」フィイの口が動いた。
ギルバートも振り返った。
「フィイ…」
フィイが片膝をついて二人に頭を下げた。
「フィイ、そういうことはしなくていい。
ここは身分を問わない『騎士見習』の学舎だ。」
「フィイ、立って。公爵様もおっしゃってるもの。
でも、どうしてリルがここにいるの?
お留守番って言ったはずだけど。」
ラナが笑いながらリルの頭を撫でた。
『…。』
リルが口を尖らせている。
「フィール、そのフェリルは君のか。」
「い、いえ、そういうのでは。」
ラナがフィイからリルを抱き上げた。
「フィイの大事なお友達なんです。フィイを心配してきちゃったみたいです。」
リルがラナの腕の中でしゅんとした。
クライブの身体が揺れた。
「クライブ卿、」
ギルバートが手を伸ばす。
「杖を投げてしまったので、上手く立てませぬ。」
クライブが苦笑を浮かべていた。かろうじて倒れずに立っている。
「フィイ、」
「はい、旦那様。」
フィイがクライブ教官の身体を支えた。
「先生、大丈夫ですか。
教務室へお連れします!
エル! 手を貸して!」
少し遅れてやってきたエルがフィイの反対側に回ってクライブの身体を支えた。
「君たちは?」ギルバートの問いに、「オレたちはクライブ師匠の弟子です!」エルが胸をはって答えた。
「閣下、よろしければ、私の部屋へ。」
「…。」
「検視には、時間がかかるでしょうから。」
ギルバートがその言葉に頷いた。
◇◇◇
「解剖は、グラハム先生がされると思いますので、現場ではここまでです。」
そう言って、エリーは戸板に乗せられた遺体に緑の布をかけると救護馬車に向かわせた。
遺体は、頭部が切り落とされた姿で、『近衛』の隊服には間違いはなかった。隊服の飾りから身元を調べるため、『近衛』に使いも送った。
ルーエは、エリー医師の側で彼女の言葉を書き留めていた。ジェイドも彼女の指示で、素描をしている。
「頭もだけど、心の臓も無いのはな…。」ジェイドが呟く。
「『王立』の範疇ではありませんよ。」ルーエがいう。
「ギルバートの範疇だよな…。」
ジェイドがため息をついた。
「じゃ、エリー、検視報告書を頼む。グラハム先生の解剖報告書と一緒にね。」
「はい。」
「ルーエは、鑑識結果と現場調書ね。」
「承知いたしました。」
「では、私は『治療院』に戻ります。」
エリーがジェイドとルーエに会釈してその場を離れた。
「閣下?」
「私は、ギルバートのところに行くよ。」
「?」
「さっき、クライブ卿といるところを見かけたから、彼の教務室だろう。」
「クライブ卿…、げっ、『魔物教官』!」思わずルーエの口から出た。
「ひどい言い方だねぇ。」
「魔物学の教官でした。満点でなきゃ、『可』をくれないんですよ!」
ふふとジェイドが笑う。
「ルーエ、泥を落としたら、顔を出してね。」
ルーエは、ジェイドに頭を下げると鍛錬場の端の井戸に向かった。
顔にもさっきの泥がついている。
井戸からくみ上げた水で顔を洗い、手ぬぐいで拭った。
「…汚れ仕事は、やっぱり『王立』だな。」
少し離れたところから笑い声が聞こえた。
よくある『王立』への揶揄だ。さっき見学に来ていた『近衛』たちか。
(肝心な時は、逃げてたくせに!)
「…泥のところにいた医師がいただろう、女の。」
「ああ、」
(センセイのこと?)
「アレ、官房長の不倫相手って噂の女医だ。」
嘲笑が続く。
「奥方を追い出そうってしてるって?」
(なんのことだ!?)
ルーエがその会話の方に顔を向けた。『近衛』の背中が遠ざかっていく。
(官房長の不倫相手!?)
呆然としたルーエの手から、手ぬぐいが滑り落ちた。




