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第38話 リル

灰色の道は『道具屋』の前に続いていた。

ギルバートが石畳へ一歩踏み出すと灰色道は彼の影に戻った。

人に非ざることだが、冥主が身体に入り込んでからこんな芸当ができてしまった。

ヴィーデルフェンでいう『魔法』とは違う。ギルバートの灰色の道は、冥主の闇の中を通り抜けるものだ。

道案内にアマクがいなければ、冥界から抜け出ることができない。

だが、その力はギルバートの体力を使うので、こういう後は左の腕輪がやたら痛み、疲労感がある。

(きつくなったな、そろそろ狩りにいかないと。)

ギルバートは、『道具屋』の扉を押し開けた。

扉の飾りが鳴って来客を知らせる。

『道具屋』に並ぶ品物がピリピリと緊張して震えた。

「…だから、先ぶれを頂戴って言ってるでしょ。」

奥からベアトリスが出てきた。

ラナが来るときは老婆の姿だが、ギルバートだけのときは、妖艶な美女の姿だ。

身体の線がくっきりとあらわになる白のドレス姿。

ギルバートが鬱陶しそうな顔をした。

「少しぐらい、嬉しそうな顔をしなさいよ!」

「興味がない。」

ベアトリスがあきれた顔をした。

「で、なんの用?」

「『みかわ糸』の布を。」

「何に使うの?」

「剣の鞘の覆いに使う。」

「…ちょっと待って。」

ベアトリスが棚の奥から虹色の細い帯状の布を出してきた。

「これぐらいかしら。」

台の上にひろげて見せた。

ギルバートがその上に銀剣を置く。

「懐かしいわね、」

ベアトリスが嬉しそうに銀剣を撫でた。

「…これを知っているのか。」

「もちろん。

私が研いだのよ。」

「…。」

「貴方には扱えないと思っていたけれど。」

「…。」

「『スティフドラク』を知っているか。」

ベアトリスが銀剣を『みかわ糸』で包んだ。淡い虹の色を放った布は鞘に吸い付くように纏わりついた。色も革のような茶色にかわる。

「…ギルバートを振った娘よ。」

「え?」

「貴方じゃないわよ。

先のギルバート。」

「ああ、先々先代のギルバートか。」

「彼女に挑んで返り討ちにあっていたわ。

それで、公爵家に婿入りしたのよ。」

「…。」

「どうかしたの?

『スティフドラク』が天に消えて随分とたつわよ。もう、消えたのかも。」

「いや、

ラナがその姿になった。」

「!?」

ベアトリスの目が大きくなった。

「あの娘は、セイレンと人間の男との子でしょ。『変化』なんてしないわよ!」

「したんだ…。

曾祖父の絵と同じだった。

ダーナ・アビス様がその姿にして『火竜』と戦わせたんだ。」

「バカな!」

「私が役立たずだからだ。」

「…だから、『銀月刀(ぎんげつとう)』なの?」

「…。」

「どうするの? あの娘を退治するの?」

「…『変化』して、手に負えなくなったら。」

「…。」

「彼女に『退治てくれ』と頼まれた。」

ベアトリスがため息をついた。

「『銀月刀(ぎんげつとう)』にできるのかはわからないわね。」

「ベアトリス?」

「だって、ギルバートはあの銀龍にベタ惚れだったんだもの。

生涯の片思いって、笑えるじゃない。」

「…。」

「でも、『変化』しないことが大事よね。」

ベアトリスが考え込んだ。そして、微笑みを浮かべた。

「いいものがあったわ。」

ベアトリスが奥へ入っていった。

『道具』の震えるような緊張感が店を支配していた。

ギルバートの中の『冥主』の存在が『道具』に引導を渡し、塵にさせてしまうからだった。

何気なく手に取ったものが、あっという間に崩れて使い物にならなくなったことが何度もある。大損失だといって、ベアトリスに叱られてしまった。

この『道具屋』も不思議なところだ。

扱う品の見た目は、武具でも装飾品でも街中のそれと変わらないが、それぞれに意味合いのある魔力が込められている。

その『魔力』は、ギルバートの狩る魔獣やラナの退治する水魔に由来する。

それがどのような工程で『道具屋』の品にかわるのかは、知らされたことがない。

ベアトリスの秘密の工房で作られていると聞いているが、彼女の情人であるロシュにもその辺は明かしていないらしい。

強力な魔獣を持ち込めば、強力な魔力を宿す『道具』が生まれる。

『みかわ糸』の布もそうやって作られているものだ。

暫くして、ベアトリスが薄い宝飾箱を持って戻ってきた。

濃い紫の箱だ。

ベアトリスが台の上において、蓋を開けた。

人差し指一本分ぐらいはありそうな青の宝柱が一対。耳飾りになっている。

『道具屋』に差し込む陽光に青が透き通って光を放った。

「どう?」

「…。」

「ギルバートが銀龍に求婚するために作らせたのよ。」

ギルバートが眉間に深い皺を寄せる。

「貴方じゃないわよ、」ベアトリスがまた笑った。

「…これには、『銀龍を護りたい』っていう切なる想いがこもっているの。

こんなに光っているのは、今でもその想いが強いからかもね。

これなら、ラナを護れるわ。」

「…。」

ギルバートが耳飾りに手を伸ばした。触れる寸前で止める。

その距離からでも力強い魔力を感じる。

「…曾祖父と銀龍の話は知らない。」

「言えるわけないわ。

それは、『王家を滅ぼす』話だもの。

ギルバートは王弟で、ダーナ・アビスの銀龍と一緒になれば、彼が王家の本流になってしまう。

『勇者の直系末裔が王になる』という不文律がなくなるわけだから。

ダーナはまた世界を振り出しに戻してしまう。」

「?」

「せっかく『人』に時代を託そうというのに、不味いことをしたのよ。」

「…。」

「ラナが『スティフドラク』なら…。」

ベアトリスが言葉を切った。ギルバートが黙って続きを待った。

ベアトリスが笑みを浮かべた。

「貴方、頑張りなさいね。」

「?」

「で、どうするの、これ?

どこにでも着けていけるから、女の子の防具としては、最強の部類だけど。」

ベアトリスが満面の笑みで言う。

「…もらう。

ひい爺さんが注文したのだろう。ツケを私に払えということだな。」

「ご明答。」

「請求書は屋敷に。

他には?」

そういってギルバートが渋い顔をする。

「一晩、付き合えというのか。」

「…それもいいけど。ラナに悪いから。」

ベアトリスが真顔に戻ると店の奥に消えてしまった。

ギルバートは、耳飾りの箱の蓋を閉じるとマントの内側にしまった。


◇◇◇


「で、ラナ様はいつまで隠れているんですか?」

マリアンがちょっと笑いながら、掛布の中に隠れているラナを覗き込んだ。

お腹が痛いと言って帰ってきたが、その原因がわかって、手当が済んだ今は穴があったら入りたいと思うほど恥ずかしくて顔が見せられない。

「『月の障り』は仕方ないですよ。私も初めはひどくて、お父さんの煎じ薬で落ち着いたんですから。」

「だけど…。」

「お加減、良くなられたみたいですね。」

「うん、まあ。」

「お父さんのお薬が効いてよかったです。」

「…あとで、お礼を言わないと。」

「じゃ、出てきてください、ラナ様。

旦那様がお戻りですよ。」

「…。

顔出さなきゃダメ?」

「心配していらっしゃったんですから。

具合が良くなったのをお知らせした方がいいですよ。」

ラナがため息をついて掛布から顔を出した。

薄青のドレスを手にしたマリアンがにっこり笑っていた。


◇◇◇


ギルバートがため息をついた。

「旦那様?」

ギルバートの宝飾品を片付けていたユージンが彼を見た。

「また、『道具屋』から請求書が届く。」

「はい。」

「…かなりの額になる。」

「…。」

ギルバートは机の上に紫の箱を置いた。

「これをラナに。」

「はい?」

「耳飾りだ。防具になるそうだ。」

ユージンが少し笑みを見せる。

「旦那様がお渡しになるものだと存じますが。」

「…。」

ギルバートが困惑した顔をしたが、思い出したように言った。

「ラナは…、具合はどうなんだ? 酷く顔色が悪かった。」

「お戻りになられて、お部屋でお休みになっていらっしゃいます。」

「…何か病気なのか?」

「病気ではございません。」

ギルバートの顔はまだ心配そうだ。

「若いお嬢様にはときどき見られる症状でございますから、ご心配にはおよばないかと。」

「ユージン!」少し咎めるようにギルバートが呼んだ。

ユージンは少し困った顔を見せながら返事をする。

「ラナ様は『月の障り』でございました。」

「え?」

「もう『母』になれるということでございます。」

ギルバートが黙ってしまった。

「…ずっと、緊張することが続いておいででしたから、いつもより痛みがあったようです。」

「…。」

「煎じ薬で楽になられたようで、マリアンがおそばにおります。」

「酷くはないのだな。」

「はい。」ユージンが穏やかな笑顔で答え、ギルバートに安堵が浮かぶ。

ギルバートが、文机の書簡筒に手を伸ばした。

筒の蓋は『王立』の緑だ。

「『王立』からか? 珍しいな。」

中から丸められた書簡を取り出す。ため息をついた。

「旦那様?」ユージンが声をかける。

「『王立』が私に視察に来いと言ってきた。

ジェイドの署名がある。」

「いつでございますか?」

「明後日だ。」

「…特にご予定は入っておりません。」

「…出かけるつもりだったからな。」

ギルバートが書状を眺めていた。

部屋の扉が叩かれた。

ギルバートがユージンに目をやると、ユージンが扉に近寄った。

「はい?」

「失礼いたします、ラナです。

公爵様はお戻りでしょうか?」

ギルバートが顔を上げた。ユージンがゆっくりと扉を開ける。

向こうに少し緊張したラナが立っていた。薄青のドレスを着ている。

ユージンがギルバートを見る。彼の頷きで、ラナを部屋に通した。扉を閉めるとその前に立つ。

「なんだ?」

ギルバートがぶっきらぼうに言う。

「あ、あの、先程はすみませんでした!」

ラナが頭を下げた。いつになく緊張している。

「…具合が悪かったのだろう、謝ることじゃない。」

「…ご迷惑をおかけいたしました。」

いつもよりぎごちない会話だ。ユージンが苦笑を浮かべている。

「良くなったなら、それでいい。」

ラナの表情はぎごちないままだ。

「他に?」

「い、いえ。」

ギルバートが手の書状を置いた。

「ラナ、」

「はい。」

「明後日、空いているか?」

「え?」

「どこか出かける予定はあるのか?」

「い、いえ、ありません!」

「では、私についてきてくれ。」

「?」

「明後日、『王立』の『騎士見習』に視察に呼ばれた。」

「騎士見習…?」

ラナの表情が少し明るくなる。ギルバートはその意味が解っている。

「フィイがいるな。」

「ご一緒してもよろしいのですか!」

「そう言っている。」

「あ、ありがとうございます!

えっと、どんな格好をすれば? ドレスですか?」

「私の従者だ、それらしく動きやすいのがよかろう。」

「はい! 用意してきます!」

ラナが嬉しそうな顔をして部屋を出て行った。

「明後日だと言ったのだが。」

「嬉しそうでございましたね。」

「機嫌が直ったようだ、子供だな。」

ユージンには、ギルバートも少し嬉しそうに見えた。

「彼女はフィイと仲が良かったんだ。久しぶりに会えるからな。」

「フィイ殿は、ずっと、首席だと聞いております。」

「首席特権の『外出』もせず、だ。

それで、ジェイドが褒美に私を呼びつけた。」

そう言うとギルバートが小さく笑みを浮かべた。


◇◇◇


厩舎の赤騎の藁の中がリルのお気に入りだった。

この大きなお屋敷にフィイが連れてきてくれて、ラナやマリアンが優しくしてくれて、フィイがいなくなって寂しくなったら、クロルがかまってくれるようになった。

赤騎は優しいので厩舎にいるときは寂しくないのだけど。

「リル?」

リルは、ラナの呼ぶ声に藁の中から顔を出した。

『ラナ、よんだ?』

全身を覆う白毛に藁くずがいっぱいくっついている。

ラナがリルの藁くずを払いながら、抱き上げた。

フィイが見つけた子狼のリルは、しっぽが3本ある。

『フェネル』という魔獣種らしいのだが、悪さをするわけではない。だから、ギルバートも屋敷で好きにさせている。

リルの親代わりだった狼の魔獣は彼女を庇って命を落としている。ラナが『アルフ』と名付けたものだった。身体はなくなったが、心は『冥主』に拾われ、ギルバートの影の中で存在している。

だが、魔物の彼は白いリルには触れられない。リルを汚してしまうといって出てこない。

「藁まみれじゃない。」

『だって、ラナもみんなも、おでかけしてたでしょ。さびしいからここにいたの。』

「ごめんね、」

ラナがリルをぎゅっとした。

「でもね、いいこともあったのよ。」

『なあに?』

「明後日、フィイの『騎士見習』のところに行くの。」

『フィイにあえるの?』

「少しは会えるみたい。」

『いっしょにいける?』

「うーん、それは公爵様に聞いてみないと。」

『あのくろいの、やさしくないわ!』

「…そんなことないわ。本当に優しくなかったら、リルも私もお屋敷においてもらえないわよ。」

『ラナ?』

「お願いしてみようか。

おとなしくしているって言ったらいっしょに行けるかもしれないわ。」

『わかった! いいこにしてる!』

リルがラナのほっぺをぺろりとなめた。


◇◇◇


ギルバートは黒の騎士服で、ラナもいつもの薄青のドレスだった。ラナは背中に水筒を担ぎ、ギルバートは茶色の鞘の剣を肩にかけている。

ラナはリルを連れていくことをギルバートに頼んだがあっさりと断られてしまった。

『騎士見習』のある『王立』は民の生活を守るところだから小さい魔物の退治も仕事になっている。ラナの水魔退治も『王立』の力を借りている。

そういうところへリルを連れて行くのは危険すぎるというのが理由だった。

確かに魔獣に間違われて退治されるようなことはだめだ。

リルにもそういって「ごめんなさい」をしたけれど怒ってしまって顔を見せてくれない。

(怒るのも仕方ないわよね。期待させて裏切ったのだから。)

迎えに来たのは『王立』の馬車で、ラナが一人で乗っている。今日は令嬢ではないので、マリアンのお付きは断ってきた。

ギルバートは、出かけた先から『王立』に向かうということだった。昨日から黒騎とともに出ている。いつもの魔物退治だと思う。十日に一度ぐらいの頻度で、黒の腕輪に魔物の血を与えないといけないらしい。だから、いつも屋敷にはいないのだが、ラナを預かってからは、屋敷にいることが増えたのだそうだ。

『王立』の馬車は、『騎士見習』の敷地に入り、正面玄関の車寄せに止まった。

馬車の扉が叩かれ、大きく開けられた。

「ようこそ、おいでくださいました。

ジョージズ公爵様。」

頭を下げたまま、出迎えの若い騎士がそう言った。

ラナがクスリと笑う。ギルバートは馬車にはいないのだ。

「お招きありがとうございます。」

少女の声に思わず騎士が顔を上げた。驚いて目を丸くする。

「公爵様従者のラナ=クレアと申します。

公爵様は、御用のため後ほどお見えになります。」

ラナは、長めのスカートの端を少し摘まんで、軽く会釈した。

困惑している騎士の後ろから、裾の長い緑のチュニックをまとった老年の男が現れた。髪は短く、白髪に灰色が少しだけ混じっている。

「『王立騎士養成学舎』校務長マーク・ストウと申します。」

「ラナ=クレアと申します。」

ラナがスカートの裾をつまんで会釈する。

「主、ジョージズ公爵は少し遅れるとのことです。」

ストウも困った顔をしたが、ラナには微笑みかけた。

「『王立』ジェイド・ヴェズレイ卿より、伺っております。こちらへどうぞ。」

ストウが背を向けるとラナの先に立って歩き出した。

ラナもその後を追う。

建物の外階段を上り、少し高いところのバルコニーへ案内された。

そこからは学舎の広い中庭が見渡せる。

いくつかあるテーブル席の一つから手を振られた。

ジェイド・ヴェズレイ卿だ。

長い赤毛の先を革紐で結んでいる。

その彼の後ろには、長身、白髪を高い位置で結んでいるルーエが立っている。褐色の肌が目立つ。

ストウは、ラナをジェイドのところに案内した。

「ごきげんよう、ラナ嬢。」

「ジェイド様も。」

ルーエがラナの椅子を引いて座らせる。

彼は傍らの茶器でお茶をいれ、そっとラナの前に置いた。

それを見届けるとストウが下がっていった。

「ギルは?」

「狩りに行ってらっしゃいます。」

「魔獣は、王都にはいないだろう?」

「少し遠くだそうです。」

「暇だよね。」

「それはかわいそうです。」

フフっとジェイドが笑った。後ろのルーエは知らん顔だ。

「今日は? 公爵様の視察って?」

「うん、ご褒美でね。」

「ご褒美?」

「フィイが入学以来、ずっと首席だ。」

「フィイ、ですもの。」ラナがにっこり笑う。

「首席だとご褒美の週末の外出とかいろいろ特典があるんだけど、彼、全然、使わなくてね。

公爵邸にも帰っていないんだろう?」

ラナが頷く。

「ギルもね、いろいろと探りを入れてくるから、面倒でさ。

なら、姿を見せたほうが早いでしょ。

で、呼んであげた。」

相変わらずジェイドは口が悪いが、ギルバートの気持ちは汲んでくれる。

「ラナ嬢も気にしてたでしょ。」

ラナが微笑む。

「昔はギルも『銀翼騎士団』を率いていてね、『騎士見習』からも団員を選んでいたんだよ。

だから、視察っていっても変に思われないからね。」

ジェイドがカップをカラにするとお茶を催促した。

ルーエが黙ってつぎ足す。

「ルーエの入れるお茶はおいしいよ。

お菓子は難しいかもしれないけど、お茶はどうぞ。」

「はい、ありがとうございます。」

手にしたカップからは甘く優しい匂いがした。


◇◇◇


ラナをおろした『王立』の馬車が動き出すとその底から何かがぽとりと落ちた。

白い尾っぽが三本ある。

『みつからなくてよかったわ。』

リルは、『騎士見習』の学舎に走り込んだ。

建物の隅を進む。人が多くてびっくりしたが、廊下の棚の影や椅子の足元に身を隠しながら奥へ向かった。床に鼻をくっつけて匂いを嗅いだ。

『フィイのにおい!』

奥へ進みながら、匂いと気配が強くなってきた。走るのも力強くなってくる。

大きな扉の前で立ち止まった。

『ここ?』

前足を扉にかけてガリガリと引っ掻いてみる。

扉はびくともしない。

「こら! どこから入った!」

大きな男の声がした。

リルの身体がびくっとして前足が扉から離れてしまった。

鼻先を床にぶつけてしまったが、急いで足音から逃れようと走り出した。

慌てるものだから、廊下の壁や置物の脚にぶつかって、あちこちが痛い。

『フィイ!』

心の中で叫んだが、フィイに聞こえるわけがない。

「見つけたぞ!」

足音がたくさん迫ってきた。

『ああ!』

ごつんと硬いものにあたってしまった。

リルの身体が仰向けにひっくり返ると見上げた先に灰色の短髪の男が見えた。

『あ、みつかっちゃった!』

彼の灰色の瞳がリルを見下ろしている。追いかけてきた足音が近くなってくる。

身体が固まって動けない。

『あー!』

リルがだめだと思った瞬間、ふわりと布が顔にかかった。周りが暗くなった。

暗さに慣れてきて見えたのは、足首まである革靴と木の棒。外が見えない。

(ぼう?)

「クライブ教官!」

リルを追いかけていた男の声だ。

「ここに猫が来ませんでしたか!」

(『ねこ! しつれいだわ!』)

「猫?」

「白いふわふわした感じの! どこかからか入り込んでしまって。」

「…。」

「見かけませんでしたか!」

「…見なかったな。」

「じゃ、どこへ行ったんだろう! 全く!

教官、もし見つけたら知らせてください!

では!」

足音が遠くなっていった。

布が持ち上げられた。

「出てきなさい。」

男の声にリルがそーっと出てきた。怯えたように男を見上げた。

『こわいかお!』

「そうか。」抑揚のない言葉が返された。

『へ、へんじした!』

リルが低く頭を下げて後ろに下がってしまう。足がぶるぶる震える。うまく歩けない。

男はユージンさんほどの年寄りに見えた。灰色髪と細く開いた瞳が三角に見えて怖い。男はさっきの棒の足の側に杖を突いていた。リルは彼の長い上着の裾に隠されていたらしい。

「『フェリル』だな?

王都にはいないはずなのに。

いったい、どこから入った?」

『…おこってる?』

「ここはお前のような『()()()()()()』のいる場所ではないはずだ。」

『わたしのこと、わかるの! おじさん!』

「…。」

クライブは、杖をリルの前についた。

「住処に帰してやろう。この杖を昇ってこれるか?」

リルが動かない。

「私はかがめない。お前を抱き上げてやれないから、これを昇りなさい。」

『つかまえるの?』

「住処に帰してやるといっただろう。」

『いや! フィイにあう!』

「フィイ?」

『フィイにあいにきたの!』

「そのフィイとやらはどこにいる?」

『なかにいる! におい、するもの!』

リルが立ち上がった。三本しっぽがふわりとした。

「中はわからないだろう。

私と一緒に来なさい。外へ出してやろう。」

リルが口を尖らせた。

「お前が『フェネル』なら、何が善きことかわかるはずだ。」

リルが前足を進めた。ゆっくりと杖を昇り始めた。クライブの手が届く場所まで来て止まる。

『まいごにならないためよ!』

クライブがリルを抱えると教官服の袖口に押し込んだ。

「袖口につかまっていなさい。」


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