第36話 ふたたびの・・・
石造りの物見の塔の地下にバルタル侯爵家に伝わる『避竜の弓矢』が置かれていた。
ラスことダグラス・バルタルがこの鋼矢で『火竜』を射った。
ギルバートの『熔水剣』とともに『火竜』の逆鱗を貫いたがそれだけでは倒せなかった。
二矢目はギルバートが射ったが、『火竜』に命中したかどうかそこまでは確かめられなかった。
ラナが空から娘の姿で落ちてきたということは『火竜』は逃げたのかもしれない。
「閣下、こちらです。」
イ・ルがカンテラでギルバートの足元を照らした。もう少し下に降りなければいけなかった。
イ・ルの案内で地下の一室に通された。
その部屋は、四隅に大きな燭台が置かれ、火が灯されていた。
空気穴が設けられているのか灯りが微かに揺れていた。
イ・ルが自分のカンテラを消した。
そろったのは、ケネス伯、グレン、ギルバートと膝をついて頭を垂れたラス。
ギルバートが上着の内側から書簡筒を出すと机の上に置いた。
彼のは、銀色の筒に金の蓋がついていた。王家の紋章が入っている。
「ジョージズ公爵家の当主、ギルバート。
今回の事案に関し、ランバート国王陛下から白紙委任を受けている。」
グレンも懐から書簡筒を出して机上に置いた。
灰色の筒に空色の蓋がつき、そこには『左翼』の紋章がついていた。
「『左翼』遊撃大隊将軍、グレン・オスカーリッツだ。」
イ・ルが自分の懐から灰色の書簡筒を取り出し、中央に置かれた机の上にそっと置いた。
イ・ルの書簡筒の蓋には『宰相紋』がついていた。
「ローラン・ヴェズレイ宰相閣下の命により、『執行人』を拝命しております。『王立』のイ・ルーエ・ロダンと申します。」
イ・ルは頭を下げて、そう言うと入り口まで下がった。
この中では一番身分が低い。
「事の解決を図らねばならん。
ケネス伯、わかるな。」グレンが口を開いた。
いつも以上に青ざめた顔でカイデル・ケネスが頷いた。
「お前、大丈夫か?」
グレンがカイデルを窺う。
カイデルがもう一度頷いた。
「子息を亡くして大変なのはわかる。
だが、領主としての責務も果たせ。」
カイデルがもう一度頷いた。
「『左翼』がゼレニーで捕縛した叛乱分子は百三十八名。
うち十九名は二線傷持ちだ。この十九名は、即時斬首処分となる対象だが、まだ執行はされていない。」
グランが言葉を続けながら、ちらりとイ・ルを見た。イ・ルが肩を聳やかす。
「単純な犯罪処罰ではない。
政治的決着がいる。
どう着ける?
ダグラス・バルタル。」
「…首を差し出せということだな。」ラスことダグラス・バルタルが言った。
「…数の問題だ。」グレンが答える。
物騒な話にイ・ルはグレンとギルバートを見比べた。
双方とも動揺のない顔をしている。
(首の数って?)
「一か、十九か、」グレンが呟く。
「一だ。」
躊躇なく答えたのはダグラスだった。
「ダグラス・バルタルがすべての首謀者だ。
バルタル侯爵を名乗り、王家に刃向かった。
責めを問い、斬首しろ。」
ダグラスが顔を上げて、ギルバートを見た。
黄土色の髪に頬の二線傷が引きつった。
「代わりに、十九の斬首はやめてくれ。」
ギルバートは何も言わず立っている。
「…斬首の刑を受けるのは、私です。」
カイデル・ケネス伯が口を開いた。声が震えた。
「陛下から、ケネス領の開墾を命じられましたが、できていません。
その上、謀反の企みを見逃してしまいました。
罰を受けなければなりません。」
「カイデルは無関係だ! 何も知らないはずだ!」ダグラスが叫んだ。
「貴方様も何も知らなかったはずです。
アレクス様の事も。」カイデルがダグラスに答えた。
「お前なぞ、ただの従者じゃないか、カイデル!
貴族のふりをするな!」
ダグラスがカイデルをなじった。
カイデルの青い顔がもっと血の気の引いた顔になる。
(いくら何でも、酷い言い方をしやがる。)
イ・ルが眉間に皺を寄せた。余りにもカイデル・ケネスが気の毒だ。
「暴言を慎め、ダグラス。
ケネス伯爵は国王陛下より叙爵された。
今は、貴族位をはく奪されたお前より身分は上だ。」
グレンが叱責する。
「貴族に対する『侮辱罪』を追加だな。」
ダグラスが吐き捨てるように言った。
「重罪人だ。」
そう言ったダグラスの顔色も悪い。
「『公爵』、どっちの首にする?」グレンがギルバートを見た。
ギルバートは、カイデルとダグラスを交互に見た。
「真の首謀者は二人ではない。」ギルバートが言った。
グレンが答える。
「ああ。
二線傷で楽師だった男が一人消えている。子供を手なずけていた奴だ。
捕縛された連中は、先代侯爵の召使だった楽師に先導されたといった。」
「…兄のお気に入りの楽師だった。名はクラベルと言った。
子供たちは彼のギテルを好んでいた。」ダグラスがそう言った。
「子供を手なずけて何をしていたと思う?」
グレンが続ける。
ダグラスが目を見開いた。
「子供、
時々、いなくなっていなかったか?」
「…親が迎えに来たと聞いた。」
「子供、売り飛ばしていたんだ、フィアールントへ。」
グレンが呆れ声で言った。ダグラスに声がない。
「その先は… 『餌』だという噂だ。」
「…。」
「アレクス坊やは、可哀そうなことをした。」
「…。」
「『王立』に紛れていた連中に『火竜』に捧げられた。」
カイデルが頭を下げた。その肩が酷く震えた。声は出ていないが、泣いている。
「…私の罪です。」カイデルの声に嗚咽が混じる。
グレンが一息ついて言った。
「ギルバート、」
ギルバートがダグラスを見た。
「首は一つでいい。
ダグラス・バルタル、バルタル侯爵のを。」
グレンが頷いた。
「バルタル侯、弁明は?」グレンが訊ねる。
「…ない。」ダグラスが答えた。
「私は!」カイデルが叫ぶ。
「お前の償いは、アレクスの弔いとジーナの世話だ。
この領地を治める仕事もある。
生きている方が大変だな。」
嘲るように言ったのはダグラスだった。
「ダグラス様…」カイデルが床に膝をついた。
グレンがギルバートを見た。
「執行は?」
「夜明けに。川の畔で。
立会人は、ケネス伯とグレンだけでいい。」
「承知いたしました、公爵閣下。」
グレンが深く頭を下げた。
口を開こうとしたイ・ルをグレンの目が制する。
「さあ、行くぞ。」
グレンがカイデルとダグラスを立たせると彼らの腕を抱えて部屋を出て行った。
ギルバートもその後に続く。
「待ってください、公爵閣下。」
イ・ルの呼びかけにギルバートが足を止めた。
「なぜ、自分を外したのですか。十九名は自分の役目のはずです。」
「…彼らは戦さを起こしたわけでなく、準備しただけだ。斬首以外の罰を受ける。」
「…。」
「民の死は、陛下の望むところではない。」
「立会人にも、して下さらないのですか。」
「貴族に対するものは、平民の出る幕ではない。」
「閣下!」
「ダグラス・バルタルは、本当ならバルタル侯爵になるはずだった。
だが、妾腹であること、兄がいるということでそれから逃げたのだ。」
「!?」
「君も『避竜の弓矢』を見ただろう。
バルタルの後継者はあの弓矢を扱える者と決まっていた。
先代はその資質に欠けていた。弟にはあったのだ。」
「!」
「自分の宿命から逃げ出す者は、相応の代償を払わなければならない。」
「そんな…」
「グレンが君を解雇するそうだ。」
「え?」
「代わりに私が雇う。
一日、銀貨六枚だ。ラナの護衛を頼む。『王立』の交替部隊が来たら、ブルーノたちと王都に戻れ。」
「公爵様からの給金はいりません!」
イ・ルが少し怒っていた。
「宰相閣下から、ダーナクレア辺境伯爵令嬢の護衛も命じられています!」
「…迷惑をかけるな。」
イ・ルがため息をついた。
「申し訳ございません、言葉が過ぎました。
でも、閣下はどうなさいますか?」
「陛下への報告がある。首と一緒に王都に戻る。」
ギルバートが早足で出て行った。
イ・ルは、右手の拳を胸に当て、深くお辞儀をした。
◇◇◇
天頂はまだ暗い。
新しく流れの始まった小さな川の畔で、ダグラス・バルタルは両膝をついていた。
そばにギルバートが立っている。
静かな中にすすり泣いているような小さな川の流れの音があった。
赤土の地平に明るい光が滲み始めた。
低い所から朝日が顔を見せ始める。
地表を照らすものが、膝まづいたダグラスの姿を明るくした。
ギルバートは、自分の銀色の剣を抜いた。朝日が刃を照らす。
「…綺麗だな。」
地平を見て呟いたダグラスの表情は穏やかだった。
「参る。」
ギルバートが剣を振り下ろした。
ダグラスの首が赤土に落ちた。
血の一筋が小さな川に流れ込んだ。
◇◇◇
「あ、」
シャツの裾をズボンに押し込みながら部屋から出てきたイ・ルはブレアと鉢合わせしてしまった。
「あら、奇遇なことで。」
ブレアが笑いを噛み殺し、イ・ルが頭を掻く。
「そこ、メルダさんの部屋よね。」
イ・ルが笑ってごまかそうとする。
「そう…。
親方の目を盗んでねぇ。」
「いえ、昨日、クビになったんで。
遠慮、要らなくなったんですよ。」
「あらあら、」
「ま、いいでしょ。」イ・ルが悪戯っぽく笑う。
「そうね、子供じゃないし。」
「薬師様は?」
「ラナ嬢の様子を見に。」
「お嬢に何か?」
「昨日の夜、少し熱があったみたいだから。
早めに様子を見に行こうと。
あの娘、薬も飲まないから。」
(あれ? 砂糖湯は飲んでたな。)
「俺、一緒でもいいですか。ギルに様子見を頼まれたんで。」
「ん? まあ、いいかしら。」
ブレアがラナの部屋の戸を小さく叩く。
そっと戸を開けた。
「ラナ、起きてる?」
ラナの顔がブレアの方を向いた。笑顔を見せてくれているが、汗がにじんでいる。
「熱、下がった?」
ブレアの手がラナの額に当てられた。
「まだ、少しあるわね。」
側にあった桶で手ぬぐいを絞るとラナの額に乗せた。
「やっぱり、解熱剤を飲まないと。用意してくるから。」
「…水薬はありますか。それなら飲める。」
「小さな子供みたいなこと言うのね。
わかったわ、用意してくる。
イ・ル、ラナに付いていて。」
ブレアが足早に出て行く。
「お嬢、大丈夫ですか。」
「イ・ルさん…」
ラナが手を伸ばして、イ・ルの袖を掴んだ。
「あの人は大丈夫?」
「あの人?」
「ギルバート様。」
「あ、」
「また辛いことをしている?」
イ・ルは小さく頷いた。もう、ダグラスの首を落としたはずだ。
結局、あの方独りが、一番辛い役目を引き受けた。
だから、俺は誰の首も落とさずにすんでいる。
「先に王都に戻られるそうです。
自分がラナ様の護衛を命じられました。」
イ・ルが微笑んでくれた。
「お嬢が帰りたいというなら、王都までお連れしますよ。」
ラナが頷いた。
「『王立』の皆と帰ります。
ありがとう、イ・ルさん。」
「お嬢、自分のことは『ルーエ』とお呼びください。
『イ・ルーエ・ロダン』というのが本名です。」
ラナがにっこり微笑んで頷いた。
◇◇◇
王都からブルーノ士長たちの交替が到着したのは間もなくだった。
自分の隊から騎士二名を死なせたことでブルーノは査問を受けなければいけないそうだ。
ケネスには、グレン達がもうしばらく駐留してくれるという。
カイデル・ケネス伯は、具合の悪い奥方の世話があるのと、王都からの処分を待つということでケネス領に留まる。
ラナは馬車の旅に耐えられるだろうということで、ブルーノ達と一緒に王都に帰ることになった。
グレンのところをクビになったイ・ルことイ・ルーエ・ロダンは、ラナの護衛騎士として公爵に再雇用されていた。
意外と世話焼きの騎士である。
「じゃ、出発しますよ。」
御者台からイ・ルが声をかけると馬車が動きだした。
ラナは馬車の荷台に座り、幌の向こうのケネスの赤土が遠くなっていくのを見ていた。
子供たちが別れを惜しんでくれた。
彼らにとって大事な食べ物である赤芋を両手いっぱいに持たせてくれた。
この先を思うと申し訳ない。
でも、ルーエには『気持ちだから受け取っておきなさい。』といわれ、お土産にしたのだった。
ケネスに一緒に来たブレア薬師とアビはそこに残り、火事で出た怪我人の治療や子供たちの教育に当たることになった。
当面と言っていたが、たぶん、ずっといるのだろう。
ライリー先生は一度、王都に戻って弟子を派遣すると言っていた。
皆、次へ動き出しているというのに…。
(また、なにもできなかった…)
ラナは滲んだ涙を両手で拭った。
(化け物になっただけで、誰の役にも立っていない。)
ギルバート様にもつらい役目だけをさせたのではないだろうか。
マーリエのおかげで小さな川はできた。
ランバート陛下からの命は果たせたのだろうけど。
(私は、何にもできていない。)
◇◇◇
王宮の大広間を彩るシャンデリアは、明るく室内を照らしている。
燭台ではなく、公爵の狩ってきた魔獣の魔力を使っている。
その下に集う貴族たちは華やかできらびやかだ。
今夜は、王家主催の夜会が開かれていた。
王家の権力と国力を示すためにこのような夜会が開かれるのだと公爵様が言っていた。
王家主催のため、ギルバートも参加せざるを得ない。
ラナも王妃様から直々の招待状を送られて、断ることができなかった。
自分がこの場に似合わないのはよくわかっている。
ラナの首や身体の傷はまだ赤くうっすらと残っていた。
それが目立たないようにとエバンズ夫人は、肌がほんのり赤く見える薄紅のドレスを用意してくれた。
首には宝飾品の代わりに薄紅色のリボンを巻き付け、蒼緑の宝石のついたブローチで留めて飾りにしている。
肩が見えるくらいドレスの袖が落ちるように着せられたが、ギルバートが渋い顔をしたので、その肩を隠すように透けたふわふわのショールをかけられた。
いつもの青い基調のラナではなく、今夜はほんのり紅く染まるラナになっていた。
公爵の銀飾りを身に着けたギルバートが彼女の付添をしている。
今夜の彼は、黒をまとっている。広間の隅、明かりの届かない所に立っていた。
ラナは、アマリア王妃のそばに呼ばれていた。
アマリア王妃がラナに笑顔を見せた。ラナの方がそれにどぎまぎする。
「酷い怪我をしたのだと公爵から聞いたの。無理をさせたかしら。」
「いいえ。
ご心配をおかけして申し訳ありません。
怪我は良くなってまいりました。もう元気です。」
ラナも笑顔で答えた。
「ギルバートも随分、気にしていたようだから。
ケネスでは辛いこともあったのでしょう。
陛下も大変なことを命じたと心配しておいでだったから。」
「陛下が…」
「怖いことをおっしゃるけれど、本当は優しい方なの。」
「…私は、陛下を…」
アマリアがクスリと笑う。
「『勇者の末裔の血でダーナ河を真っ赤にする』って言われたって。
陛下に、とっても楽しそうに話していただいたわ。」
「…ダーナ・アビスとの約束なので。」
「…そう、貴女は『ダーナ・アビス様の姫』ですものね。
ダーナ様との約束が一番だわ。」
「王妃様、」
「でも、私も簡単に『勇者の末裔』をお渡しすることはできませんわよ。」
アマリアが静かに微笑み、ラナが酷く恐縮した。
「王妃様が公爵の姫を怖がらせてはいけないね。」
ランバート王が王妃のもとに顔を出した。
「そろそろダンスの時間になるから戻ってきたのだけど。
王妃様、お相手を願えますか?」
ランバート王の差し出す手にアマリア王妃が手をのせた。
「君には、ギルバートがいるからね。」
ランバート王がラナに微笑みかけて、王妃と広間の中央に向かった。
ラナは二人を見送るとギルバートを探したが見あたらない。
彼はどこかの隅にいるのだろう。
ラナもそっと広間から外のバルコニーへ抜け出した。
◇◇◇
夜会の大広間の明かりは庭園へ降りる階段の半分まで届いていた。
ローラン・ヴェズレイ宰相は、葡萄酒の盃を片手に階段の踊り場まで下りるとバルコニーを見上げた。
その先にラナの薄紅のドレス姿が少し見える。
少しして、黒い青年の背中が見えた。
「役目を果たしたか。」ヴェズレイの言葉は階下に向けられていた。
「御意。」返事は暗い中からした。
「化け物だったろう、二人とも。」
「…ただの若者でございました。」
「…。」
「…ですが、我々より、よっぽど覚悟のあるおふた方です。」
「『人間』では敵わぬか?」
「…相手にはしたくありません。」
「…『執行人』でも歯が立たぬなら、」
ヴェズレイが葡萄酒を口にした。
「こちらに刃を向けぬよう、見守るのが最善かと。」
暗闇の中が言葉を続けた。
ヴェズレイが苦笑を浮かべる。
「それでは、お前の任を解く。
持ち場に戻れ、イ・ルーエ・ロダン。」
暗闇の中で白髪が一礼すると姿を消した。
◇◇◇
夜風が少し身体に染みる。
肩のショールをかき寄せてラナが寒そうな顔をした。
王都は春を迎えたというのに陽が落ちるとまだ寒さを感じる。
今夜の月は、重ね月だ。
二つの月が一つに重なるように近づいている。
まだ、重ね切らない部分が下から見えるから、一つ月とは言えない。
重なった月の明かりは、離れたときの二つ月よりも長い影を作っていた。
ラナのドレス姿の影も長くバルコニーに映っている。その影に別のものが重なった。
「ラナ?」
彼女を呼んだのはギルバートだった。
「こんなところで何をしている。」
ラナがギルバートの姿を見た。
月明かりに輝く銀色が彼の黒い姿を照らした。
園遊会の時よりも大人の姿だ。
ラナは少し、ドレスの端を持って会釈をした。
「…公爵様にご挨拶を。」
「私にそんな挨拶は不要だろう?」
ラナの態度にギルバートが不思議な顔をした。
「…何だか場違いなところに、自分がいるような気がして。
大広間は、虹色でキラキラしていてまぶしくて。」
ラナが困った顔をして言った。
「私は、ケネスでは何もできなかったのに、こんな華やかな場所にいるのは申し訳ない気がします。」
「…そんなことはない。
君は『火竜』を追い払った。
皆のためによくやった。」
ラナが寂しそうに笑った。
「化け物になって…」
「それは、」
「『人間』じゃないものが、こんな姿でいるのは間違っています。」
「…。」
ギルバートに言葉がない。代わりにため息が出てしまった。
彼の姿を見て、ラナも俯いてしまった。
夜会は続き、ゆったりとしたダンスの曲が聞こえてきた。
その音にギルバートが手を差し出した。
「一曲、踊っていただけませんか。
ダーナクレア辺境伯爵令嬢。」
ラナが困った顔をしている。簡単には手を預けてくれなさそうだ。
「あ、あの…」
「せっかくの夜会だ。
一曲ぐらい、普通の令嬢のように楽しんでもいいと思う。
君にはその資格はある。」
「…火傷をしますよ。」
「大丈夫だ。『みかわ糸』の手袋は三重にしてある。」
ほんの少し、ラナに笑顔が浮かんだ。そっとラナの手が上る。
「エバンズ夫人が私の手袋を三重にしてくださいました。」
ラナの手がギルバートの手に乗せられた。
ギルバートがその指先を握り、ラナの胴を抱えよせた。
曲の調べに乗せてつま先も動き出す。
ギルバートのリードで身体が揺れる。
いつもでは考えられないくらい近い距離に互いがいた。
ギルバートの体温を服の上から感じる。
『いつか触れられる時が来るわ。』マーリエの言葉が思い出された。
ラナは上を向いた。
ギルバートの表情が優しい。彼女は彼に微笑みを返した。
「公爵様にお願いがあります。」
「?」
「また、私があのような化け物になったら、退治してください。」
ラナが彼を見上げて微笑んだ。
ギルバートが返事に窮する。
「公爵様にしかできないと思います。」
「…わかった。」
少しラナを抱き寄せた。その耳元に小さな声で言った。
「私が自分を制御できなくなって、あだなすものとなったら、君の手で退治てくれ。」
ラナの水色の瞳が大きくなった。
「『熔水剣』ならできるだろう。」
曲の流れで、身体が離れる。
「約束だ。」
曲が終わり足が止まると、悲し気な微笑みでラナが頷いた。
◇◇◇
少しばかり重い足取りで、イ・ルーエ・ロダンは、酒場の扉を開けた。
看板には、丸いクジラが描かれた『黒いクジラの白いしぶき亭』の文字。
カウンターの奥に座り込むと肩章を隠すようにマントの肩口を寄せた。
(失恋か…
忘れてたな、そんな感じ。)
カウンターのバーマンがルーエの前に注文のテキラのグラスを置く。
小さなグラスの薄い金色の液体。
向こうの席の人物の視線がルーエのグラスに向けられている。
少し目を細めて睨みつけているようだ。
「それは、美味いのか。」
低い声で尋ねられた。声変わり前の少年っぽい。
(若いのか…? 酒、飲めるのか?)
目を細めてその人物がグラスを睨んでいた。茶黒い髪は長く、白いズボンに足首までの革靴だ。
白のズボンと言えば、王立治療院の医師の制服に似ている。
「これは強い酒です。」
彼に向かってルーエがしらっという。
「悪酔いしますよ。」
その人物は肩を落として自分のグラスを空けた。その消沈した姿がルーエの後味を悪くした。
(一杯ぐらいなら、大丈夫か。)
「バーマン、あの方に。」
ルーエが小声で言うと、バーマンはグラスにテキラを注いで、彼の前に置いた。
「あちらのお客様からです。」
言葉を添えるのも忘れない。
彼が驚いてバーマンを見上げる。そして、ゆっくりとルーエのほうを向いた。大きなヘイゼルの瞳がキラキラしている。
(え!)
自分の胸がどきりとしたことにルーエが驚いた。
白ズボンは、一気にグラスを飲み干した。
「おいしい!」
バーマンに微笑みかける。
「もう一杯、いただいていいだろうか。」
白ズボンの瞳がキラキラとしていた。
『黒いクジラの白いしぶき亭』では新しい物語が動き始めた。




