第35話 死人原(3)
領都の石壁の内も燃えていた。
ブルーノや『王立』の隊士たちが延焼を食い止めるため奔走している。
ケネス伯とラスも二線傷たちと消火にあたっている。
メルダは、街の女たちを先導して老人や子供たちを物見の石造りの建物に避難させた。
「どう、皆、避難できた?」
メルダは、自分が連れてきた女たちに確かめた。
彼女たちもメルダの娼館の女だが、その実は『左翼』の手の者だ。
「姐さん、大丈夫です!」
年下の方のハチが答えた。
「じゃ、ナナ、ハチ、任せる!」
「姐さんは?」
「火鳥を落としに行ってくるわ!」
メルダは、長いスカートを膝上で切り落とすと長剣を肩に勇ましく出て行く。
外に出るといきなり、雨に降られた。
「え?」
メルダは辺りを見回し、石壁の上にいるグレンを見つけた。
その場所へ駆けつける。
「グレン!」
石壁に飛び乗って、グレンの背中を守るように立った。
「この雨は何!」
「メルダ、歳に似合わず、の格好だな。」
メルダの太ももが雨に濡れて艶めかしい。
「おかしい?」
「そそられる。」グレンが笑いを堪えている。
「ね、あの向こうのは何!
『火竜』に似てるけど、ちょっと違うわね!」
離れた場所の空が壊れ、『火竜』と初めて見る魔物がぶつかり合っている。
「『火竜』は知っているが、もう片方は初めてだな。」
「ね、この雨はあっちの方のせい?
凄く、青く見える。」
「…青いのは、嬢ちゃんの色なんだがな。」
「嬢ちゃんって、ラナ嬢?
彼女、どこにいるの?」
「ギルと外に出たと思ったが。
まさかアレになったってことないよな。」
「え?」
「ラナ嬢はダーナ・アビス様の姫だ。
でも変化するのは知らん。
あの水魔はどっから湧いたんだ?」
「水魔って…。
あ、『公爵』様は!
あの方、水がダメじゃなかった? この雨、大変じゃない!」
「さっき、『火鳥』が落ちたから、その辺りだろう。
この雨じゃ、動けないな。」
「助けに行く?」
「白いのが行ったから、何とかしてくれているだろう。
俺達は、領都だ。
『火鳥』がいなくなったが、『火竜』が来るなら、大変だ。」
「『左翼』殿!」
石壁の下からカイデルの声がした。
「伯爵、ここは危険だ。隠れていろ。」
「向こうの空が変な色をしている。何が起こっている!?」
「面倒っちいな。」グレンが小声で舌打ちする。
「伯爵様、どうぞ上がって。」
メルダが石壁の上から手を差し出した。
カイデルは滑らないように石壁を登ってきた。
最後はメルダの手を借りて、石壁の上に立った。外の空を見上げ、声を無くす。
「俺らには、歯が立たん。」グレンが悔しそうにつぶやいた。
「『火竜』か!」
その叫び声に三人が振り返った。
いつ上がってきたのか、二線傷のラスがいた。
大きく目を見開いて叫んでいた。
「『火竜』は九年前に『公爵』が退けたと聞いている!」
「退治したわけじゃない。」グレンが言った。
「『火竜』と戦っているのは何だ?」
「わからない。
だが、『火』と戦っているんなら、『水』のものだろう。
ダーナ・アビスの手だ。」
「…押されている。」
「『火竜』を足止めしている程度だ。殺られるかもしれん。」
ラスが頭を振った。
「…カイデル、バルタルの『避竜の弓矢』はまだここにあるのか?」
「…物見の塔の地下にございます。」
「わかった。
それを使う。」
カイデルとラスのやり取りをグレン達が不思議そうに見ていた。
ケネス伯の方が使用人のようだ。
「おい、『避竜の弓矢』ってなんだ?」グレンがラスに訊ねた。
「…バルタル領にある『火竜』を退ける矢だ。
『火竜』の逆鱗を射抜いて、倒す。
バルタル一門にしか使えぬものだ。」
ラスの言葉にグレンが戸惑う。
「前の時も、これで足止めをした。
射手は、従兄だった。」
「え?」メルダが目を丸くする。
「バルタル家門のローンデール伯爵だ。本職は、帳簿屋なんだがな。」
グレンが思い出したように言った。
「行かせてもらう、『左翼』殿。」
「…頼む。
『火竜』だけは追い払ってくれ。」
ラスは頷くと石壁から飛び降りた。
◇◇◇
銀色の『龍』は、当たった矢に身体をよじった。
(痛い!)
鱗の間に刺さった矢傷から赤い血が流れた。
ラナが泣いている。
「ラナ、落ち着け!
動くと傷口が広がる!」
角と鱗につかまったギルバートが叫ぶ。
幸いにも彼が掴まっている所は溶けたりしなかった。
ラナの姿だと言われたのに彼が触れても溶けない。銀色の鱗が彼女を守っているのだろうか。
ギルバートが地上を見た。
矢をつがえている男がいる。二人。『王立』の双子だ。
(なぜ、彼らが!)
一人が矢を放った。ラナをめがけて真っすぐ飛んでくる。
ギルバートは左腕を振った。
手首の腕輪が黒剣にかわり、矢を落とした。
「チッ、」下で舌打ちが聞こえる。
もう一人も矢を放った。
身を乗り出してギルバートがこれも落とす。
(どうすればいい? 『火竜』を倒すの?)
ラナの鱗が震えている。ギルバートがその鱗の一枚に手を添えた。
彼の温かさがラナを落ち着かせる。
「…『火竜』を止めよう。
ラナが『火竜』に巻き付いてくれれば、その間に私が飛び移って、黒剣で逆鱗を突き刺す。」
(ギルバート様…)
「『火竜』を倒すぞ。」
(わかった!)
ラナが元気よく返事をした。
銀色の『龍』は大きく身体を伸ばし、『火竜』に巻き付いた。
◇◇◇
思わず上空に目を奪われていたイ・ルだが、そこに向かって放たれた矢に現実に戻された。
矢を射たのは『王立』の双子だ。
サルワとサルマの双子は、『火竜』ではなく、もう一体を狙っている。
「何やってる! 双子!
敵は『火竜』の方だろう!」
イ・ルが双子に駆け寄った。
「違う、『神』の邪魔をする化け物を倒す!」
サルマが叫ぶ。
「おい! 『火竜』の方が敵だろう!
もう一体は、雨を降らせている。ダーナ・アビス様のだ!」
イ・ルも叫び返す。
「この地に、ダーナ・アビスはいない。この地を守るのは『火竜』様だ!」
「愚かなアミエリウスの国を焼き尽くして、新しい国を作るんだ!」
双子が叫ぶ。
「お前たち…?」
イ・ルが自分の剣を握り直した。剣先を双子に向ける。
「俺達は、バルタルの民だ。俺たちの父は、謀反の罪を問われ、処刑された。」
「なら、何故、お前たちは二線傷が無い?」
「妾の子は、バルタル貴族の子供扱いされなかった。」
「だからな、騎士になって腕を磨いた。蜂起の刃となるために!」
サルワが矢をイ・ルに向けた。
イ・ルがとっさに身をかがめて、矢の先をかわすとサルワの弓の弦を斬った。
弦の弾けるので矢が反対方向へ落ちた。
サルマはそのまま空に向けて矢を放つ。
「よせ!」
イ・ルの見上げた先に黒剣を振るって矢を落とすギルバートの姿が見えた。
思わず、胸をなでおろす。
サルワは剣を抜いて、イ・ルに斬りかかった。
その剣を二度三度、受けてサルワをいなすとイ・ルはサルマの弓の弦を斬った。
その返す剣先でサルワの肩を突いた。
サルワが剣を落とし、地面に転がった。ぬかるみに顔が浸かる。
イ・ルは、斬りかかってきたサルマも三手で地面に叩き落とし、その背中を踏みつけた。
「おい! アレクス様はどうした!?」
うつ伏せのサルマが笑った。その目線は『火竜』へ向けられている。
「『神』と一つになられた。」
「え?」
イ・ルもサルマの目線を追う。『火竜』が開けた口の中に子供の腕が見えた。
「まさか! お前ら!」
「ファイエ・ノルト、万歳!」
サルワが小刀で自分の首を斬った。鮮血が吹き上がり、イ・ルが慌てて飛びずさった。
サルワの姿を見てサルマも後を追う。「ファイエ・ノルト、万歳!」
二人の鮮血が赤土をさらに赤くした。
流れ出た血の先でラスが立ち尽くしていた。両手に弓矢を下げている。
「…これは?」
「『王立』の双子だ。『ファイエ・ノルト、万歳!』だとよ。」
イ・ルが吐き捨てるように言った。
「アレクス様は、『火竜』の口の中だ。」
イ・ルの言葉にラスの顔から血の気が引いた。
彼は宙を見上げた。
『火竜』の身体に銀色の『龍』が巻き付いていた。
銀色から出る雫が『火竜』の火を消していく。
鱗の先の火を消された『火竜』が宙を仰いで咆哮した。
炎の塊が上がり、自分自身に振ってくる。それは『火竜』に巻き付いている『龍』を攻撃するものだった。
雨のように降りかかる炎はギルバートにもあたる。
上着にあたり、焼け焦げを作っている。
顔や腕にも当たり、水とは別の火傷ができる。
(危ない!)
ラナが自分の身体でギルバートを庇った。彼女の銀鱗にも火傷ができる。
『私を盾にしろ。』
ギルバートのそばで『熔水剣』の水筒が輝いた。
それを肩にかけると水筒の蓋が開き、中の水が噴き出るとギルバートを包むように水膜を張った。
「向こうへ跳ぶ!」
ギルバートが角を支えに『火竜』に飛び移った。
『火竜』の鱗は熱く、触れただけで顔がゆがむ。
水筒が煌めき、『熔水剣』に姿を変えるとギルバートの右手におさまった。
『逆鱗を突け!』
ギルバートが『火竜』の身体に沿って、伸ばされた首の横を駆け上がる。
『火竜』の大きくあけられた口の端から、子供の頭だけが転がり落ちていった。
(子供!?)
確かめることもできないまま、鱗を支えに顎の下へまわり込んだ。
深紅の鱗の中に一か所だけ、白の鱗があった。
『そこだ!』
◇◇◇
ラスは、サルマとサルワの血でぬかるんだ地面に膝をついた。
バルタルの『避竜の弓矢』と呼ばれた強弓に鋼の矢をつがい、大きく引き絞った。
狙いは、『火竜』の逆鱗。
一直線の軌跡をとらえると指を離した。
鋼矢が一直線に『火竜』に向かった。
◇◇◇
ギルバートの右手の『熔水剣』とラスの鋼矢が『火竜』の逆鱗に突き刺さったのは同時だった。
『火竜』はそれにのたうち、口からの炎が辺りに降り注いだ。
ギルバートが『火竜』から振り落とされ、宙に放り出される。
(ギルバート様!)
『龍』が『火竜』を離し、ギルバートの身体を受け止めようと銀鱗の身体をとぐろを巻くようにして下にもぐりこんだ。
ギルバートの身体が銀鱗に弾み、再び、落ちる。
(ギルバート様!)
ラナの叫びは『龍』の咆哮として、天に雨粒を巻き散らかした。
『火竜』の炎を消していく。
身体の平衡を失い、ギルバートは背中から地面に落ちた。
衝撃を受けると思ったが砂地の柔らかさで救われた。
(アマク…か。)。
そして、見開いた目には『龍』の顔が見えた。
一瞬、ラナが見える。
暴れる『火竜』から『熔水剣』が落ちてきた。
剣の姿のまま、ギルバートの顔の横に突き刺さり、水筒の姿に戻って転がった。
ギルバートが全身に雫を受け、呻いた。
(あ、)
『龍』が慌ててギルバートから離れた。それで、彼にかかる雫が離れる。
ギルバートが大きく息を吐いた。
「公爵様!」
駆け付けたのはイ・ルだった。彼も白髪が濡れて首に張り付いている。
「大丈夫ですか!」
イ・ルがギルバートの半身を支え、身体を起こす。
「ラナは?」
「え?」
「銀色の方だ。」
「空にいますよ。」
イ・ルが上を向いた。ギルバートもそれを追う。
銀鱗の『龍』の水色の瞳が彼らを見下ろしている。
その姿に『火竜』が体当たりした。
「ラナ!」
よろけた『龍』は姿勢を立て直すと逆に『火竜』を締め上げる。
「ラナ! もういい! 戻ってこい!」
「え? あれはお嬢?ですか?」
ギルバートがイ・ルの手を払って立ち上がった。
彼の顔は水滴の火傷だらけだ。
「そこをどけ!」
ラスがギルバート達の前に立った。その手には二本目の鋼矢がつがれている。
だが、ラスの顔も腕も『火竜』の炎で爛れた火傷がある。
弓を引く腕も袖ごと焼けて引き攣っている。
一矢目より引きが小さく、腕が震えて力が足りなさそうだ。
「それは?」ギルバートが訊ねた。
「バルタルの『避竜の弓矢』だ。この鋼矢で『火竜』の逆鱗を射る。」
(さっきの矢か!?)
「あの銀色が邪魔だ。」
ラスが弓を絞るが、鋼矢を落としてしまった。
火傷の腕に力が入らない。悔しそうに唇を噛んだ。
「射ればいいんだな。」
ギルバートが弓矢を拾った。
「公爵様!」
イ・ルの声にラスがギルバートの顔を見た。
イ・ルがギルバートを止めようとする。
「射るなら、俺が!」
「君では無理だ。」
ギルバートは大きく息を吸うと、勢いをつけてつがえた矢を『火竜』に向けた。
限度いっぱいに弦を引く。狙いを逆鱗に向けた。
(ラナ、離れてくれ!)
それが届いたか、『龍』が離れた。
その瞬間、ギルバートの矢が飛んだ。
空を切る音を立てて逆鱗に命中した。
『火竜』が声を上げ、『龍』の首に噛みついた。
「ラナ!」ギルバートが叫ぶ。
『火竜』は『龍』を咥えたまま、空を昇った。
天高く二つの姿が消えた。
「ラナ!」
ギルバートが弓を投げ捨て、後を追おうと駆けだした。
「無茶です! 公爵様!」
イ・ルが後を追う。ギルバートを掴まえて止めた。
「相手は雲の上です! 下で追いかけてもダメです!」
ギルバートが呆然とイ・ルを見た。
「私は、また彼女を助けられないのか!」
そう叫んで、イ・ルの胸倉を締め上げた。
「こ、公爵様、落ち着いてください。
お嬢ですよ! 強いんですよ! 『火竜』に負けませんよ!」
ギルバートがイ・ルから手を離した。
そして、空を見上げる。
二つの身体が消えてから、雨がやみ、青空が広がった。
その一点から銀色の塊りが凄い速さで落ちてきた。
それは彼らの頭上に迫り、そのままだと地面に激突する勢いだ。
「銀色? ラナかっ!」
「このままでは!」
『私を投げよ!』
『熔水剣』の声がした。ギルバートは水筒を拾い、宙に高く投げ上げた。
水筒が大きな水の玉になり、落ちてきた銀色を包み込んだ。
銀色の速度が落ち、ゆっくりと地面へ運んだ。
やがて、地表に達すると水玉が弾け、娘の姿のラナが横たわっていた。
ギルバートが走り出し、イ・ルも後を追う。
ラナの側にしゃがみ込む。
「ラナ!」
ラナが首の付け根から血を流している。赤と青の混じった色。
抱き上げて、抱きしめてやりたい、と伸ばした手に触れたラナの髪が溶けてしまった。
ギルバートは自分に愕然とした。
(彼女に、触れられない!)
「公爵様、お嬢は!?」
イ・ルも駆けつける。
ギルバートは両手をだらりと落とした。
「すまない、彼女に触れて、大丈夫か確かめてほしい。」
「公爵様、何を言っているんですか! 貴方が!」
「私は、彼女に触れられないんだ!」
絶望の声が絞り出されていた。
イ・ルがラナの側に膝をついた。ラナは、一糸まとわぬ姿だ。
急いで自分の上着を脱ぐと彼女を包み込んだ。
「失礼しますよ、お嬢!」
イ・ルが首の傷に手を当てる。
「脈はあります。
でも、出血が止まらない。これじゃ、失血死だ。
血を止めないと!」
イ・ルがラナの傷をおさえた。出血を止めようと圧迫する。
ギルバートは呆然としたままだ。
「公爵様! 薬師様を呼んできてください!
止血剤が要ります!
公爵! ギル!」
イ・ルの叱責でギルバートが我に返る。
「止血だな。」
ギルバートがラナの側に膝をついた。片手に水筒を持っている。
「公爵様?」
「手を放してくれ。」
イ・ルが手を離した後、ギルバートの素手はラナの傷をおさえた。そこから湯気が上った。
ラナの顔が歪み、ギルバートが歯を食いしばっている。唇の端から血が滲む。
「私が手を離したら、この水筒の水をラナの傷にかけてくれ。」
イ・ルが水筒を受け取ると自然に蓋が開いた。
それを見てギルバートが手を離した。
湯気の上がっていた傷口が溶けていた。
出血は無く、水が崩れたようだった。
イ・ルがそこに水筒の水をかけた。水色の塊りが傷口を包み、傷を治していく。
ラナの顔が穏やかになり、イ・ルもほっとする。
ラナから離れたギルバートは背中を向け蹲っている。
イ・ルがギルバートの側に来た。
「お嬢は、傷が治ってきました。不思議なものですね。
失礼します、公爵様。手を見せてください。」
イ・ルの手は大きく、ギルバートの腕を掴んだ。
ラナの傷をおさえた手は赤くただれて皮も向けている。痛そうな光景にイ・ルの顔の方が歪んだ。
「火傷ですか。水で冷やせればいいんですが。」
ギルバートが首を振った。「水はダメだ。」
イ・ルは少し考えて自分の片袖を引きちぎった。それでギルバートの手を包む。
「薬師様に診てもらってください。油薬を塗ってもらいましょう。
俺はお嬢を連れて行きます。」
「貴方は、私たちをどう思う?」
ギルバートが俯いていた。
「どう思うって…
見たまんま、受け入れるしかないでしょ。」
ラナを抱き上げて、イ・ルが笑った。
穏やかな優しい笑顔だった。
◇◇◇
領都の火事はかなりひどく、石壁に近い所はほぼ焼けていた。
ブルーノの『王立』とメルダたちが被災者の世話にあたっている。
ケネス伯は、差配の権限をグレンとブルーノに託し、自身は妻の介護に専念していた。
ケネス伯爵夫人は行方不明の子息を案じて病に臥せっていることになっている。
二線傷のラスは、『火鳥』の騒動のあと、自ら牢屋に入った。
バルタルの残党による反乱の責任を取るためという。
ゼレニーの隠れ家は、シェリーの指揮する『左翼』が急襲し鎮圧されている。
多くの武器が押収され、人員は捕縛、蜂起の直前だった。
イ・ルがラナ達を連れ帰った後、ブルーノ士長は双子が死んだ現場に行き、近くで噛み砕かれたアレクスの頭部を発見した。
遺体を確認したケネス伯はその場で泣き崩れたという。
(救いようがない話だ…)
イ・ルは溜息をつくと背筋を伸ばした。
片手の盆に砂糖湯のカップをのせている。
公爵に頼まれてラナのために用意してきた。
扉を叩く。
「どうぞ。」
ギルバートの声がした。
中に入ると寝台にラナが半身を起こしていた。
イ・ルの顔を見ると笑顔を浮かべる。
ギルバートは窓際に立っていた。
「どうぞ、お嬢。」
「ありがとう。」
ラナが笑顔でカップを受け取る。一口、砂糖湯を飲んだ。
傷は癒えつつあったが、体力が戻らなくて、一日の大半を寝台の上で過ごしている。公爵も彼女につきっきりだ。
「おいしい。
イ・ルさんは、お料理上手ですね。」
「まあね。」
「むこうは?」ギルバートがイ・ルに訊ねた。
「グレン様がケネス伯爵様と話をされています。
『王都』への報告が必要ですから。
ラスの、ダグラス・バルタル様の処遇とか。」
「ダグラス・バルタル様?」
ラナが不思議そうな顔をする。
「二線傷のラスは、本名『ダグラス・バルタル』という。
先代侯爵の弟にあたる。
彼は前の謀反の時は、『近衛』に入ったばかりで王都にいた。謀反と同時に『近衛』で拘束されていた。」
ギルバートが答えた。
「ダグラス様は、自分がすべての罪を追うから、領民を二線傷の者たちを咎めないでほしいと言っているそうです。」
「あの方は、『火竜』を追い払おうとしたわ。」
「だが、外で反乱の準備をしていたのを知らなかった。」
「知らなかったのに、罪を問うの?」
「そういう立場もある。」
イ・ルも頷く。
「本当なら彼がバルタルの次期当主だったからだ。」
ギルバートが言った。
「…。」
「政治の話だ。ラナが気に病む必要はない。
それを考えるのは…大人の役目だ。」
ギルバートはそう言うと窓の外を見た。
あれから赤土は雨を受けて、黒くしっとりとした土になっている。
その雨もじきに上がり、また穏やかな光に包まれる。
「ところでね、お嬢。
ここに川が出来たんですよ。」
イ・ルが笑顔で言った。
「川?」
二人がイ・ルを見た。
「黒水の井戸があったところでね。
井戸は火鳥に壊されたんだけどその後、小さな湧き水の池が出来て、そこから小さな川になってね、昔の川筋に流れ込んでいるそうです。
本当に細い川なんですけどね。」
「…マーリエの、」ラナが呟く。
「元気になったら見に行きますか?」
「い、今すぐ行きたい!」
「え? お嬢?」
イ・ルがギルバートを見た。ギルバートが頷いた。
◇◇◇
少し、日が傾き始めた。
イ・ルの背に負われてラナは湧き水の畔にいた。
背中から下ろされるとゆっくり、水面に近づく。
ギルバートはやや離れた場所で彼女を見守っている。イ・ルも彼の側にいた。
「よろしいので?」イ・ルが小声で言う。
ギルバートが黙って頷いた。
ラナは片手を水に浸した。
「マーリエ、大丈夫?」
水面に青い髪のマーリエの顔が浮かんできた。
とても透き通った水の娘。
『ラナ、ごめんなさい。貴女を奪おうなんて間違っていた。』
ラナが首を振った。マーリエが微笑んだ。
『お礼を言わせてね、ありがとう。
貴女がダーナを連れてきてくれたから、私、川に戻れたわ。
まだ小さな細い流れだけど、いつか前のように大きくしてみせる。』
「この地の皆を守ってあげてね。」
『ええ、ラナ。』
「あ、あの。
貴女の思い出のなかに騎士様がいたわ。
あの方は?
探しましょうか?」
『いいの。私の片思いだから。』
「マーリエ?」
『本当は、彼に領主になって欲しかった。
領主様なら、ここにいてくださるでしょ。ずっと、それを願っていたの。
でも、その気持ちを利用されて馬鹿なことをしたわ。』
「マーリエ、」
『私は大丈夫。
ラナ、貴女も彼を大事にしなさいね。』
「彼?」
『ギルバート。私が知っているのは、銀色だった頃の彼だけど。』
マーリエが微笑んだ。ダーナの微笑みに似ている。
『『龍』に変えられた貴女を必死で支えていたわ。』
ラナが頷いた。
「優しいの。いつも助けてもらっている。」
ラナがはにかんだ笑顔を浮かべた。
「でも、手も繋げないのよ。」
『必ず、触れ合える時が来るわ。』
水面からほっそりとした腕が伸びた。
その手が優しくラナの頬を撫でた。
川面がキラキラした虹色に揺れた。
「虹?
奇麗ですね。」
川面を見てイ・ルが呟く。
「ラナの虹色を見ると幸運に恵まれるそうだ。」
「え?」
「よかったな。」ギルバートの顔は穏やかだった。




