第33話 死人原(1)
「ここも…。」
ラナが呟いた。
街の外にある井戸のいくつかをまわっている。
背中の水筒を下ろすとその一滴を井戸に落とした。
井戸の底は暗く、かなり深くまで掘られている。
ここは掘られた直後には水が湧いていたらしいが、だんだん減って今では枯れているという。
その井戸を覗きこむ。
しんとしたまま、何の音もしない。
ラナは残念そうにため息をついた。
ダーナ河の支流があった場所というのであれば、ラナに答えてくれるかもしれないと思ったからだ。
ラナの水筒の水は、ダーナ河の水だ。
その『水』は大河神ダーナ・アビスの分身であり、ダーナ・アビスもラナに加護を与え、『しもべ』と言ってこき使っている。
人々のために水脈を探さないといけないのなら、ダーナも何か言ってくれてもいいのにと不満に思う。
数日滞在して、ここに暮らす人々が、水がなくて困っていること、貧しい生活をしなければならないこと、ダーナクレアの故郷よりも厳しいこと…。
ラナは、国王の命であるだけでなく、彼らのためにも水脈を見つけたいと思うようになっていた。
「騎士様、何をされておいでですか?」
男の声がラナにかけられた。
思わず、振り返る。
スカーフがほどけて落ちると水色の髪が広がった。
「あ、」
ラナに声をかけた男は、頬に二線傷を持っていた。
男はラナのスカーフを拾うと穏やかに微笑んで手渡してくれた。
「ありがとうございます。」ラナが頭を下げた。
「私どものようなものに礼は不要でございます。」
髪を短くした男はそう言った。歳はユージンと変わらないほどだろうか。
「先日は、子供たちにお菓子をありがとうございました。」
男が頭を下げた。
ギルバートと一緒に点呼に行った小屋で、ギテルを抱えていた男だ。
小さな子供たちが側にいた。
「ここにはあのような綺麗なお菓子はございません。
子供らも喜んでおりました。」
「貴方のお子さんですか?」
男は首を振った。
「あの子たちの親は別の地で働いております。
連れてはいけないので、ここで、皆で面倒を見ております。」
「…。」
「騎士様はここで何を? この井戸はもう枯れておりますが。」
「…ええ。」
ラナがスカーフを巻きなおした。
「以前、水が湧いていたと聞いたので。」
「ええ、でも干上がってしまいました。」
男があたりに目をやった。
「昔は領地の中央にダーナ河の支流があり、水に困らない土地でした。
ですが、王家との内戦ですべて燃え、乾いた土地になってしまいました。
きっと、ダーナ・アビス様にも愛想をつかされたので、水が無くなってしまったのでしょう。」
「…。」
「辛うじて生きて行けるだけの水があるだけです。」
「王家との内戦って…。」
「この地のご領主様が国王様にとって代わろうとしたのです。」
「…『勇者の末裔』だったからですか。でも…、」
「末裔なのは本当です。
でも、ダーナ・アビス様には認められなかった。
拒絶されて、ご領主様は処刑されました。
仕えていた者は二線傷を受け、罪人となりました。」
「…貴方はご領主様の?」
「『楽師』でした。なので、ギテルを。」
「『楽師』って、血縁でも何でもないんでしょ。」
「いつも、ご領主様のそばにおりました。
すべて見ていたのに止めなかったことが私の罪です。」
「そんな…。」
ラナが次の言葉をと思ったときに上着の裾に子供がしがみついた。
コンフェイトをあげた双子の男の子。
「おかしのおねえさん!」
「わ! びっくりした!」ラナが笑う。
「あそびにきてくれたの!」
「お仕事に来られたのだよ。邪魔をしてはいけない。」
「はーい、おじいちゃん。」
「おじいちゃん?
随分と、お若い気がします。」
ラナが微笑んだ。
と同時に地面が動いた。
足元が揺れ、ラナも子供たちを抱えて蹲ってしまう。
ゴーっと地鳴りがしたかと思うと枯れていたはずの井戸から何かが吹きあがった。
真っ黒な水柱が空に突き刺さる。
「騎士様、こっちへ!
黒い水を浴びてはいけない!」
男の叫び声がする。
ラナは子供たちを庇うように黒の水柱に背を向けた。
一滴二滴と黒い雨粒が降ってくる。
それは、普通ではない粘り気のある雨粒だった。
ラナは子供たちを男の方につき出した。
自分は背中の水筒を取るとその蓋を開け、中の水を宙に放り上げる。
透き通ったダーナの水と吹き上がった黒水が宙で混ざる。
混ざりものは石のようなものになると地面に突き刺さるように落ちた。
その石にラナは背中を打たれ、痛みで顔を歪ませ地面に転がった。
顔が上を向いたとたん、そこに黒く染まった女の姿が浮かび上がった。
その顔は…
(ダーナ!)
黒い女は、同じく黒い長い髪でラナの首を絞めにかかった。
ラナは右手を動かしたが、『熔水剣』は手に届いていない。
苦しくて息が止まりそうになる。視界もぼやけてしまう。
喉が詰まって助けすら呼べない。
(こんなところで…!)
意識が遠のいた。目の前が黒くなっていった。
◇◇◇
ラスは、黒い水柱をみて、倒れこんだラナの側に駆け込んだ。
ラナの身体を抱えて黒い水柱の雨から飛び出す。
ラスの顔も身体もラナの身体も黒水で染まっている。
ラスは口に入った黒水を吐き出した。
「おい!」
ラスがラナの頬を叩く。
ラナが口を開け、そこから黒水が吐き出された。
髪も服も黒くねっとりしている。
まだ、ラナは気を失ったままだ。
「馬だ!」
ラスの叫びで男が馬を引いてきた。ラスはラナをその背に乗せ、自分も騎乗した。
「館の井戸へ行く!
皆も黒水の井戸に近づくな!」
ラスはラナを抱え直すと馬の腹を蹴った。
◇◇◇
井戸端の騒がしさに気づいてイ・ルは厨房の裏口から外へ出た。
ラスが井戸から水をくみ上げ、足元の塊にぶちまけている。
「何、やってんだ!」
イ・ルがラスの肩に手をかけ、水かけを止めた。
ラスの足元にあるのは、身体を丸めた水色の『お嬢』の姿。
まるで溺れているようだ。
「ちょっと待って!」イ・ルが叫ぶ。
「そんな勢いじゃ、水圧で!」
「水で洗い流さないと窒息してしまう!」ラスも怒鳴り返した。
「え?」イ・ルが怯む。
ラナの身体が揺れ始めた。ごぼごぼとせき込み始める。
「お嬢!」
イ・ルが膝をついてラナの身体を抱き上げた。
その背中を大きな手でさする。
それで落ち着いてきたのか、ラナが目を開けた。
「…死ぬかと思った。」苦笑を浮かべながらラナが言う。
「黒水に覆われれば、死んでしまう。」
そういったラスもずぶ濡れだった。
「口の中で固まると息もできなくなる。
水気の多いうちに洗い流さなければ落ちない。」
「…助けてくれた?」
「…子供らを黒水から守ってくれたからな。」
ラスが濡れた顔で俯いた。雫が地面に落ちた。
「早く着替えた方がいい。」
「…。」
「貴重な水を無駄遣いした。」
「おい!」
イ・ルがラスに詰め寄ろうと声を荒げたが、ラスのほうが呆然と立ち尽くしていた。
「おかあさん!」
エラが母親を追いかけるように館から出てきた。
小さいエラが伯爵夫人の手を握ろうとしたが、彼女は子供の手を叩き払った。
伯爵夫人は、まっすぐ男の元に進み、その身体に抱きついた。
「ダグラス様…。」
伯爵夫人は頬ずりするようにラスの胸に顔をうずめた。
ラスは腕を下したまま立っていた。
「どうすんだ? これ?」
彼らを見て、小さく呟きながらイ・ルはラナを立たせた。
「大丈夫ですか?
薬師様にも診てもらいましょう、お嬢。」
ラナが頷く。そして自分の周りを見回した。
「えっと、水筒!」
「水筒? 何、いつも背負っているヤツ?」
イ・ルも周りを見回す。
「向こうで落としちゃったかな…」
「また、怒られちゃう。」
「え、あとで探してきてあげますよ。
だけど、彼らまずくないですか?」
イ・ルがラスと伯爵夫人を見ていた。
「伯爵様に見つかったら…」
と小声で言ったイ・ルの目線の先に青ざめたカイデル・ケネスの顔があった。
(修羅場はマズいよな!)
イ・ルは、ラナの腕を取り、エラを抱え上げ、急いで建物に入った。
◇◇◇
イ・ルは、ラナ達をブレアに預け、水筒を探しに出ていた。
黒水の出た井戸のあたりまでゆっくりと探す。
仲良くなった子供らも手伝ってくれていた。
ラナはいつも水筒を背中に担いでいる。
その姿を嗤うものもいたが気にせず、『私のお守りだから』とまるで衣服のようにまとっていたのに。
(無くすなんて、笑えるだろ…)
街の外門を出たところで足を止めた。
黒づくめの男が手にラナの水筒を持っていた。
男は水筒を見つめている。
(貴方は私が触れるのを許してくれるのか?)
「ギル!」イ・ルが男を呼んだ。
ギルと呼ばれた男が顔を上げて、イ・ルを見た。
ギルはゆっくりとイ・ルのもとに歩いてくる。
「それはお嬢の水筒です。見つかってよかった!」
イ・ルが安堵の笑顔を浮かべる。
「何があった?」
「お嬢が井戸を見て歩いているときに、黒水が出たんです!
それを浴びて全身真っ黒になって、二線傷のラスに伯爵館へ担ぎ込まれました。
その時、水筒を落としたそうで。」
「彼女は…無事なのか。」心配そうな声。
イ・ルが笑顔で頷いた。
「ええ。水で洗ったら綺麗になりましたよ。
それから、グレン親方が、あなたとお嬢と俺と『王立』で街を護れと言っていました。」
イ・ルが眉を顰める。
「無茶でしょ?」
ギルは表情を変えない。
「…グレンのところに戻る。」
(親方を呼び捨てって…?)
早足で歩き出したギルをイ・ルが追いかけた。
◇◇◇
ブレアから借りた服は胸元が余り、スカート丈は大きく引きずる羽目になっていた。
ラナは、大窓のガラスを姿見代わりにスカートの裾をたくし上げて、帯紐で丈を調節した。結び目が縦になり不格好だが。
その窓に男二人の姿が映った。
部屋の扉が開き、ギルとイ・ルが入ってきていた。
「は、入ってくるなら、声ぐらいかけなさいよ!」
服の胸元を握ってラナが大声を出した。顔が赤い。
「わ、悪い! お嬢がいるって思わなかったんで!」
イ・ルが半分、嬉しそうに言い訳する。
隣の黒い男はラナの姿を見て、酷く嫌な顔をした。
ギルがラナに水筒を差し出した。
ラナが腕を伸ばして受け取る。
ギルの手に触れないように。
(この二人も変わっている…)
イ・ルが肩を聳やかす。
「黒水の中に、何を見た?」
ギルの問いにラナの水色の瞳が大きくなった。
「…えっと、黒い女の人を見ました。」
「…。」
「ダーナに似ていたわ。」
「…。」
「黒いけど、水魔?
水筒は、カタカタいわなかったわ。」
「…もとは、ダーナの支流、マーニ川に住むと言われた水神マーリエ。」
「!」
「…干上がったと思っていた。」
ギルの目が窓の向こうに向けられた。
「えっと、『公爵』様?」
ラナが不思議そうに彼を見た。
(『こうしゃく』?)イ・ルも首をかしげる。
(そういや、『こうしゃく』の手とかって?)
ギルが呟いた。「…黒いのか。」
また、扉が開いた。
グレンとその腕に身体を絡めたメルダの二人だ。
「…なんだ、お前ら。」
グレンが渋い顔をする。
「呼んだのは、そちらだ。」
眉間に皺を寄せながらギルが答えた。
少しうれしそうな顔をしてメルダが男たちを見た。
グレンから腕を離し、ラナの隣に立つ。
「目の保養ね。」
「えっと、どちら様でしょうか?」ラナがメルダを見上げる。
「私はメルダ。
グレンのね、夜の相手。」
「おい、それはよせ。お嬢、メルダは部下だ。」
「グレン様、シーラ様は?」ラナがちょっと怒っていう。
(グレン様の相手は、シーラのはず!)
グレンは知らん顔をした。
そして、ギルの方に顔を向ける。
「で、姉貴に連絡は?」
「中隊を派遣された。既に南下して包囲に入っていると思う。」
「仕事が早い。」
「…だが、お叱りも受けた。」
「お前を使いっぱしりにしたからな。」
グレンが豪快に笑う。
「グレン様のお姉様って?」ラナがメルダを見る。
「ないしょ。」メルダも微笑っている。
「反乱連中は、『左翼』が鎮圧する。
問題は、ここだ。」
グレンが笑うのをやめた。
「ラナに黒水が出たのだろう。」
皆の目がラナに向けられる。
「黒水の中に水魔を見ている。」ギルが答えた。
「あ、」ラナから声が漏れる。
「退治できるか?」グレンの言葉にラナが自信なげな顔をする。
「…『熔水剣』しだい。
水魔を倒すのは、あの剣だけだ。」答えたのはギルだ。
「『熔水剣』? ライオネルの?」
「ラナを護る。彼女しか使えない。」
「どういうこと? ですか?」ラナが困っている。
「この地に水が無くなったのは、ダーナの支流マーニ川に住むと言われた水神マーリエが消えたせいだっていう。」
グレンがひとつ息をついた。
「フィアールントがバルテル侯爵をそそのかして『バルテルの謀反』をさせたときにな、フィアールントの火鳥が川を焼いて、マーリエが姿を消した。」
「それっきり、この地に水は無い。マーリエのような水神が帰ってくれば、水に恵まれるかな。」
「だから、私?」ラナが呟く。
「黒水が出たなら、火鳥が火付けに来るだろう。
『公爵』、今度こそ退治しろよな。」
「…。」
「ラナは、黒い水魔だ。
やれるか?」
ラナが唇をかんで頷いた。
「白いのとメルダは石塀の内側に住民を避難させて、護れ。」
メルダが頷く。
イ・ルがそっと右手を挙げた。
「あのー、俺、皆さんの関係性がよくわからないんですけど?」
グレンのほうが不思議そうな顔をした。
「知らないのか?
黒いのは、『公爵』だろ、ほら『死神公爵』ってあだ名の。」
「え? 『侯爵』?」
「『公爵』だ。貴族相手の『執行人』といったほうがわかりやすいか。」
グレンが笑う。『公爵』は目をそらせている。
「えー!」
イ・ルの背中が反り返るほどまっすぐに伸びた。
「雲の上の御方に、芋の皮むきさせちゃった!」
「奴は気にせんよ。
役目はもっぱら王国の魔物退治だ。
嬢ちゃんとの関係は… 『恋人』でよかったか?」
「違います!」二人が声を揃えて大きく否定した。
「なるほど…」イ・ルが妙に納得している。
「じゃ、俺は行く。あとは頼む。」
グレンが開けようとした扉が先に開かれた。
血の気の引いたアビが肩で息をしている。
「なんだ?」
「『王立』のブルーノ士長たちが襲われた!
ブルーノが矢を受けて、アレクスが連れていかれた!」
全員の表情が固まった。
「ブルーノはブレアのところに担ぎこんだ。」
アビの後に続いて皆がブレアの治療室に向かった。
ブレアは、ブルーノのわき腹に包帯を巻いていた。
「士長!」
ラナが心配そうにブルーノに駆け寄った。
「申し訳ありません! グレン様、お嬢。」
ブルーノが頭を下げた。
「傷は?」
「矢がわき腹に刺さったの。深くなかったのが幸い。」
「ライリーたちは?」
「彼らはかすり傷。
綺麗なお姐さんたちに薬を塗ってもらって喜んでいるわよ。」
「矢は、空から雨みたいに飛んできたんです。
まるで井戸の中から噴き出した感じです。
射手の姿は見えなくて、アレクス様を庇って矢をよけたんですが、数が多すぎた。
双子に託したんですが、一緒に行方不明です。」
ブルーノがもう一度、頭を下げた。
「申し訳ありません。」
「俺たちでなく、伯爵様にだな。
見失ったのは?」
「外門のあたりです。」
ギルバートが動いた。
「おい!」グレンが呼び止める。
「行く。」ギルが答える。
「あ、私も!」
ラナも動き出す。
「ちょっと待って、外が騒がしい。」
イ・ルが二人を止めて、窓を開けた。
「どうした!」
「街で火事です!」
『王立』の隊士たちがスコップを手に館を飛び出していった。
◇◇◇
外門が燃えていた。
朱色の炎が燃え上がっていた。
「熱い…」
ラナが額を拭った。
ブレアの服の上にまだ濡れている『みかわ糸』を括りつけてきた。
それでも熱さを感じる。
『王立』の隊士が赤土をかけて火を消そうとするが、効果はない。
ラナが水筒の蓋を開けた。
「待て!」
一緒に来ていたギルバートが制した。
「炎の足元を見ろ。黒水が流れ込んでいる。
消してもすぐ発火する。」
「どうしたら!?」
「黒水を絶つ。」
「え?」
ラナを置いてギルバートが炎の中に飛び込んだ。
「無茶よ!」
炎の先がうねってラナ達のほうに襲いかかってくる。
炎の姿が魔獣のようだ。
ラナは水筒を宙に放り投げた。
水筒から放たれた水はキラキラと剣に姿を変えて彼女の手におさまった。
『熔水剣』は刃に水滴を浮かべた。
ラナは両手で剣を握ると襲ってきた炎を切り裂いた。
燃える姿のまま斬られた片方が地面に落ちる。
それを隊士たちが土をかけて消火する。
ラナが切り裂く炎はいくつも塊となって地面に落ちた。
(きりがない!)
(『公爵』様はどうなったの!)
ラナは暴れる炎を切り裂いた。
◇◇◇
ギルバートは『みかわ糸』のマントで炎を遮りながら、黒水の先をたどった。
炎をくぐり抜けた先に黒水の井戸があった。
その縁からとめどなく黒水が流れ出し、地面を染めている。
黒くなった土は、ぬかるんですべりやすい。
足を取られそうになりながらも井戸に近づく。
「マーリエ!」
ギルバートが叫ぶ。
「地に沈んだのではなかったのか!」
『リュートの入れ物…。』
女の声がした。成熟した女の少しばかり低い声。
『また、殺されに来たか!』
「なぜ、出てきた!
このまま『地』に沈んでいれば静かに居られたはずだ!」
『何を言う! ダーナが私を呼び出したのではないか!』
(ダーナ・アビス様が?)
『繋がれていた私をダーナの一滴が解放したではないか!』
ギルバートの目の前で黒い水が人型にかわった。
黒い女の顔が怒っている。
『まだ、殺し足りないのか!』
女は長い柄の矛を手にしていた。矛の先は銀色。
それを振り上げ、ギルバートを払いにかかる。
空気が揺れ、彼女の纏う黒水にも亀裂が入るとその先の炎も二つに分かれる。
隙間からラナの悲鳴のような叫び声も聞こえてくる。
マーリエの矛を黒剣で受け、押し返そうとして弾かれてしまった。
ギルバートは舌打ちをしながら、体勢を直し、黒剣を握りなおす。
「マーリエ! 周りを見ろ!
あの時とは違う! もう、誰もいない!
貴女が守るべき民はいないんだ!」
『うるさい!』
マーリエの長い黒髪が黒剣に巻き付いた。左右に振って、ほどこうとしたがからめとられていく。
足に力を込めて踏ん張っても、ギルバートの身体が矛の刃に手繰り寄せられる。
心なしか黒剣の動きが鈍く思えた。
(リュートはマーリエを斬りたくないのか!?)
刃がギルバートの喉に向かってきた。
(まずい!)
そう思った瞬間、顔に水がかかった。水滴が彼の頬を焼く。
「うっ!」
思わず声が出た。
「だから、貴方には無理なのよ!」
マーリエの黒髪を『熔水剣』が斬った。
彼を背にラナが立っていた。黒いマーリエと対峙している。
ラナの『熔水剣』が水滴の膜をはって壁を作った。
「下がって!」
ラナがギルバートに叫ぶ。
「!」
『お前は何!』
「私はラナ! ダーナのしもべ!」
『ダーナの!』
「ダーナ・アビスからセイレンが生み出した水魔を退治するように言われているのよ!」
マーリエの矛をかわしながら、ラナは黒い水魔を見つめた。
「貴女がその水魔なの!?」
マーリエの顔はダーナそっくりだ。
川の女神は『ダーナの娘』という。
『熔水剣』の動きが鈍いのは、『ダーナの娘』を斬りたくないのだ。
「マーリエは水魔じゃない! 『怒り』に取りつかれているだけだ! 正気に戻れば川が帰ってくる!」
『冥主が何を言う! 私の民を殺した者が!』
マーリエの矛が大きく回転し、炎と赤土を巻き上げた。
ラナの身体が軽々と飛ばされる。
「ラナ!」ギルバートの叫ぶ声が聞こえる。
宙に舞い上がった身体は、炎を突き抜けて空に上がった。
身体が回転してまた黒水の中に落ちる。
その先にマーリエの姿があった。
なぜか、ラナを心配している顔をしている。
『ダーナの娘…
私たちの夢見た娘…』
「マーリエ?」
落ちていくラナの身体を受け止めるのにマーリエが両手をひろげた。
(ああ、ダーナ様がラナを受け止めた姿だ…)
「ダメだ! ラナを返せ!」
ギルバートが思わず駆け寄り手を伸ばした。
ラナの手を掴んだはずなのにすり抜ける。
そのラナの顔が酷く歪み、左手が溶け落ちていた。
それ以上、ギルバートはラナに近づけなかった。
ラナの身体はマーリエに引き寄せられ、黒水と共に井戸に消えた。
「旦那様!」男の手がギルバートの服を掴んだ。
ギルバートがその手の主を見る。
灰色の長髪のアマクがギルバートを止めていた。
「マーリエのところには行けません。」
「アマク…。」
「『ダーナの姫君』は、諦めてください。」
「アマク! お前は出てこれないはずだ!」
「火鳥が来ます、ギルバート様!」
彼らの頭上を朱の鳥が行く。
その羽根には小さな火が灯り、羽ばたくたびに火の粉をあたりにまき散らす。
領都の家が燃え始めていた。




