第2話 ラナ=クレアという娘
何が悲しかったのか、思い出せなかった。
崩れた堤防、泥に埋まる麦畑。流れゆく泥水に見え隠れする大人に子供達。
誰も助けられず、流れ去るのを見送っていただけの自分。
その怒りをどうすればいいのか。
ラナは自分の涙が石床に落ちた音で目を覚ました。
「ここ…?」唇を動かした。
左腕が上に向けられている。
顔をあげると左手首に鉄鎖が巻かれ、石壁に埋められた鉄輪に括りつけられていた。
左手を動かそうとするが、力が入らない。
右手は?と見ると、手首の先が無かった。
あの黒づくめの騎士に掴まれて、溶けたままらしい。酷い痛みだった。いつもなら、しばらくすると元通りに治るのに、手首は水の膜で丸まったままだった。
ラナは顔をあげた。壁に松明が掲げられている。
灯りには少し足りないが、彼女には暑すぎるぐらいだった。
水色の髪の先から小さく雫が落ちる。
彼女は石牢につながれていることを理解した。
(ああ、『勇者』を殺し損ねた…)苦笑が浮かぶ。
◇◇◇
「気が付いたようだな。」
その声にラナの視線が正面に向けられた。
あの男が立っていた。黒い騎士の衣装。
長い黒髪が彼の顔半分を隠すように正面に落ちている。
彼女を見下ろしている切れ長の目は赤ではなく深い黒色だ。
「王城の地下牢だ。」
「…私、退治された?」
「君は魔物じゃない。」
ラナがフフと笑った。「魔物、以下だわ…。」小声で言う。
「…繋がれている。」ラナが呟いた。
「…。」
「魔物じゃなくても、罪人だものね。」
ギルバートはラナの右手に目を向けた。手のない右腕はだらりと垂れている。
「・・・。済まなかった。止めようと思っただけだ。」
ラナがギルバートを睨みつけた。
「…。」
「で、貴方様は何? 私に『礼』とか言っておきながら、自分は名乗りもしない!」
「こんな化け物に、礼儀なんて必要ない?」ラナが自嘲気味に言う。
「い、いや、失礼した。」
「私の名は、ギルバート・ジョージズ。国王直属で、魔物討伐に従事している。」
「国王直属って…
貴族?」
「ああ。」
「爵位は?」
「『公爵』を継いでいる。」
「…貴人なのに、魔物退治…ね。」ラナが鼻で笑った。
「私も、仕留めればよかったのに。」
「討伐するのは、害ある魔物にしている。」
「わたしは、王様を殺そうとした。」
「理由を知りたい。」
水色の瞳が大きく見開かれた。中心にギルバートの姿が映る。
「葬るべき魔物と遭遇した時には、この腕輪が教えてくれる。」
ギルバートはラナに左手首の腕輪を見せた。黒い腕輪が松明に光る。
「今は、動いていない。」
「じき、陛下がおいでになる。自分で話しなさい。」
ラナが目を伏せた。
長い髪も瞳と同じ水色。透き通ってみえるくらいの。歳は十六,七か。
ダーナクレア辺境伯領といえば、王都を流れるダーナ河の始まりの地である。
この地が水害を起こす大河の治水を担い、この領地から流れ出るダーナ河は穏やかに王国の国土を潤し、ランバート王が平定しつつあるアミエリウス王国に豊かさを取り戻させているのであった。
(ダーナクレア領の伯爵令嬢がなぜ、こんな姿に…)
ギルバートはひとつ息をついた。
(他人のことは、言えないか…)
◇◇◇
「閣下、陛下がいらっしゃいました。」
地下牢の看守兵がギルバートに小声で言った。ギルバートが頷く。
複数の靴音が地下に響いた。
ランタンを持った近衛兵が、侍従たちを従えたランバート王を案内してきた。
「遅くなってしまったね、ギルバート。」
「いえ、」
「夜会がなかなかに盛況でね。時間がかかってしまった。」
「申し訳ありません、陛下。騒ぎを起こしてしまって。」
ギルバートが頭を下げた。
「お客様には被害がなかったから、気にしなくていいよ。
庭は台無しだけど。」
ギルバートがもう一段、頭を低くした。
「さて、話ができるかな? ダーナクレアの伯爵令嬢?」
ラナが顔をあげた。ランバート王が見下ろしていた。金色の短髪に青い瞳。ギルバートとは対照的だ。ランタンの灯りに髪がキラキラと光る。白い王族の礼服に深紅のマントを肩にかけている。左肘を礼剣の柄に乗せていた。
「『勇者の末裔』って、うちの王家のことだよね?
伯爵家は、王家に恨み、あるの?」
ランバートは笑みを浮かべて、ラナに近づいた。ギルバートがあわててランバートを止める。その手を払って、ランバートはラナを覗き込んだ。
「伯爵家は…、恨みがないといえばうそになります。
何度も窮状をお知らせする手紙を送っています。
なのに、なんのお返事もいただいておりません!」
ランバートは侍従の顔を見た。彼らは否定する顔をした。
「そう…。 私のところには届いていないな。」
ラナは唇を噛んだ。
「『窮状』とは?」
「ダーナ川の堤防が2年前に大きく崩れました。
応急処置をしたのですが、堤防を築き直すには、人手もお金も足りないんです。
そのために、ダーナクレア領の畑がダーナの水に沈みました。」
「水害飢饉は、村ひとつ、300人余りを餓死させたんです。」
「伯爵は何をしていた?」ランバートの表情が険しくなる。
「父も兄もずっと堤防の復旧で働いていました。
伯爵は家財道具からすべて、領民の食べもののために売り払ったんです。」
「…。」
「何もなくなって… それでもダーナ河は暴れるんです。」
「…。」
「人柱を立てる話まで出ました。」
「ばかな…。」
「はい、本当にばかな話です。腹が立って…」
ラナが力なく笑った。
「私は、ダーナ・アビスに喧嘩を売りました。」ラナの肩が揺れた。
「あ…。」ランバートは、言葉に窮した。少し、間をおいて言った。
「それは… 勇ましすぎる話だね。」
「だけど、女神ダーナ・アビスには敵わなかっただろう?」
「たくさんの人を死なせて、たくさんの人を不幸にして、何が神様よ!」
「…まさか、そう言ったの?」
ランバートが目を丸くした。
「普通の人間がダーナ・アビス様に会うなど不可能です。ですが、」
ギルバートがランバートに言ったあと、ラナに目を向けた。
「…ダーナ・アビス様に、会ったと? いうのか?」
ラナは水色の髪を揺らした。
「人柱になって、ダーナの激流に飛び込んだ!
わがままな女神と喧嘩をするために!」
水色の瞳に涙が浮かんだ。
「あの女が言った。
喧嘩を売りに来た人間は初めてだって。
面白いから、下僕にしてやる、そうしたら、河を静かにしてやろう…。」
「!?」ランバートもギルバートも言葉がない。
「くやしい…。あんな女に…。」ラナが呻いた。
「だけど…、もう、子供たちが流されていくのを… 耐えられなかった…。」
「…屈したのか?」ギルバートが尋ねた。
「違う! 取引よ!
あの女、ダーナクレア領を平穏にしてやるから、代わりに『勇者の血』でダーナ河を真っ赤にしろ、と言ったのよ。」
「…。」ランバートが頭を抱えた。
「ダーナ・アビス様は、なぜ『勇者』様を?」ギルバートが尋ねた。
「ギルバート、それはね、王家に語り継がれている。」
ランバートが口をはさんだ。
「古の『勇者』は、人間の代表としてこの大陸の魔物を倒して、国家を立てた。我が国のことだけど。
その時にね、神々に味方になってもらったんだ。女神ダーナ・アビス様にもね。」
ランバートはため息をついた。
「その時に、女神様は『勇者』様といい仲になったらしいんだけど、実らなかった。
逆恨みされてるのかも。」
「ランバート、不謹慎だ。」ギルバートが咎める。
「だから、王家の者はダーナ河に近寄っちゃいけないんだ。河に殺される。」
ラナが少し動いた。
ジャラと音がして、ラナの左手が消えると鎖が床に落ちた。
ラナが自分の左手のあったところに唾を吐くとその直後、左手が現れ、ランバートの剣を引き抜いた。
その切っ先がランバートを突こうとしたが、貫いたのはギルバートの左手だった。
少し表情をゆがめたが、ギルバートは右手で刀身を握るとラナから剣を取り上げた。
その勢いでラナの身体が壁に叩きつけられる。
ラナが呻いて動かなくなった。
「ギルバート?」ランバートが心配そうに彼を見た。
ギルバートは、剣の血をマントで拭うとランバートに返した。
「お気をつけください。」
ランバートが頷く。
ギルバートは自分の剣を抜き、ラナの喉元に突き付けた。
「容赦しない。」
「だめだ、ギルバート。」
「いいえ、陛下。首を刎ねます。」
「そんなことしたら、もっとダーナ・アビスの恨みを買うよ!」
「二度も御命を狙いました。」
「だめだって!」
ギルバートがラナの髪の毛を掴んで顔を上に向けようとした。
ラナの顔が苦痛にゆがんだ。
ギルバートの握った髪の毛が溶けだした。
ギルバートの手のひらにも火傷をした時のような激痛が走り、思わず、手を放してしまう。
ラナの髪から熱い蒸気が上がった。熱で髪が溶けていくようだ。
「だ、誰か! 水だ!」思わずランバートが叫ぶ。
慌てて、看守兵が水筒を差し出した。ラナが持っていたものだった。振ると水音がする。ランバートは蓋を開けようとするが固くて動かない。
「私の… 水筒…」
ラナが左手を伸ばした。その手にランバートが水筒を持たせた。
ラナは水筒を支えに半身を起こした。
彼女が筒の蓋に触れるとひとりでに外れた。ラナは水筒の中身を頭から被った。溶けだした髪が冷えてもとに戻る。なくなっていた右手も水を得て、少しづつ形を取り戻していた。
そのさまを二人も、周りの者たちも声を無くして見ていた。
「これがダーナ・アビスに与えられた、下僕の姿です。
ダーナの水でしか、まともな姿を保てない。」
ラナがうな垂れた。
「この水筒には、葬ったダーナの水魔を溜めています。
今の姿でいるにも、水筒に溜まった水魔の水がいるんです。」
ラナは水筒を抱きしめた。
ランバートが手を伸ばして、ラナの髪に触れた。
「!?」
ラナが驚いてランバートを見上げた。
ギルバートもランバートに釘付けになる。
「…普通の髪だ。少し、濡れてるけど。」
「陛下!」ギルバートが咎めた。
「さ、さわ…」ラナが固まって声が出ない。
ランバートの手にある髪は溶けもせず、彼も顔を歪めることはなかった。
ランバートは微笑みを浮かべた。
「私が触れても大丈夫なんだね。
君をここに運んだ時も何の問題もなかった。
ま、みかわ糸の拘束網に入れてたけどね。」
ランバートが髪を放した。
「ギルバートが問題ってことだ。」
「陛下!」ギルバートの声には抗議がある。
「ダーナクレア伯爵令嬢、君に私の血を流させることは許されない。わかるね?」
ラナは何も言わなかった。
「代わりに力になれることを考えよう。」
ランバートがギルバートのほうを向いた。
「ギルバート、このご令嬢を君に預けるよ。丁寧にね。」
「ランバート!」
「王命だよ。」
「…、
…承知いたしました。」ギルバートが頭を下げた。
「さて、今夜のことは、他言無用! 後のことは追って指示する。
皆の者、ご苦労!」
ランバート王は何事もなかったかのように皆を引き連れて地下牢から立ち去った。
残されたのはギルバートとラナだった。ラナはよろよろと立ち上がった。
「王命だ、ついてきてもらう。」
ラナは俯いたままだった。
「辛いだろうが、自分で歩いてくれ。私は君に触れられない。」
◇◇◇
公爵家の馬車が深夜の街を通り抜けた。
王都アミエの石畳の道がかすかに馬車をガタガタ言わせた。
馬車の中で、ラナは筒を抱え、小さく丸まっていた。
一緒に乗っているギルバートはラナから一番離れた場所に座っている。彼女に触れないように。二人とも黙ったままだった。
やがて、馬車はゆっくりと止まった。
「着きました。」
外から声をかけたのは、御者を務めていたアマクだった。
ギルバートが無言で先に馬車を降りた。
扉を大きく開け、ラナを促す。
少し震える足どりでラナは馬車を降りた。本来ならギルバートが手を差し出し、ラナをエスコートするのが当たり前だが、彼にはそれができない。
馬車を降りたラナは、目の前の屋敷を見上げた。ダーナクレアの屋敷なぞここの物置小屋ぐらいでしかないだろう。
呆然と立ち尽くす。
公爵家とはこんなにすごいものなのか。
驚いているラナの横をギルバートが玄関ポーチの階段へ向かった。
彼がラナを振り返る。
「客間の一つぐらい使えるものがあるだろう。
中へ入りなさい。」
ラナの足が動かなかった。臆している自分がいる。
ギルバートが足を止めて、ラナを待っている。
ついていかなくちゃいけないのに、足がでない。ひどくラナは困っていた。
ギルバートの後ろで大きな玄関扉が開かれた。屋敷の灯りがポーチを照らす。
「やっと、お戻りでございますか!」
初老の婦人が屋敷から出てきた。
「…エバンズ夫人。
皆、もう休んでいると。」
「何をおっしゃいます!
アマク殿から知らせをいただいて…。
総出で、ご用意いたしておりましたよ。」エバンズ夫人が微笑んだ。
「ギルバートさま、そちらが?」
エバンズ夫人がラナを見た。ぼろぼろのドレスで立ちすくんでいる娘だ。とてもギルバートに釣り合うような娘ではないだろう。
「ダーナクレア伯爵令嬢だ。陛下からお預かりした。」
エバンズ夫人は、「伯爵令嬢」と言われた娘に少し困惑したが、ラナのそばに歩み寄った。
「いらっしゃいませ、お嬢様。」
ラナに対して、使用人としてのお辞儀をした。
「…。」水筒を抱きしめたラナは、慌てて頭を下げた。
「さ、中へ。」エバンズ夫人が促す。
「い、いえ。あ、あの井戸があればそこへ。」
「お嬢様?」
「ぬ、濡れてます。汚れています!」
「はい、お聞きしております。湯あみのご用意も出来ておりますよ。」
本当に困った顔でラナはギルバートを見た。
「エバンズ夫人に任せていて大丈夫だ。不都合があれば言いなさい。」
あきらめたようにラナは頷いた。
エバンズ夫人がラナの腕を取った。ラナの身体は溶けたりしなかった。彼女は夫人に連れられて屋敷へと入った。
◇◇◇
とても長い夜だ。
ギルバートは、薪の崩れる音に目を開けた。久しぶりの自室。背の高い椅子に身を沈めていた。
(眠っていたのか。)
屋敷に戻ったが、エバンズ夫人はラナの世話で走り回り、他の使用人たちも当主が連れ帰った令嬢のことの方に気が向いていた。
構われない方が彼には気が楽だった。
折角、白い部屋着を用意してくれたのに袖を通した途端、喪服のように黒に変わる。使用人たちにいつも悪く思うのだ。
ギルバートは椅子から立ち上がると暖炉の薪を少し崩した。
一瞬、火が強くなるが、灰を被ったところから、静かになっていく。
そばの窓に水滴がついていた。
ふと、窓から外を見た。
見知った髪色の娘が庭の芝の上に座り込んでいた。
◇◇◇
ラナは水筒を抱いて座り込んでいた。
長い夜はまだ終わっていなかった。
降り始めた小雨がすっかり彼女を濡らしていた。
立派な、乾いた部屋を用意してもらったが、慣れない広さは居心地が悪かった。外の雨に濡れている方が自分には合っている。折角の部屋着を汚してしまうのは申し訳なかったが。雨は心地よかった…。
急に雨がやんでしまった。
ラナが顔をあげる。
ギルバートが彼女に何かをさしかけていた。
「君は、雨にあたっているほうが、いいのかな。」
「これ?」ラナが頭上に目をやった。
「『傘』というものだそうだ。」
「ヴィーデルフェン国で作られている。」
「私は、長い時間、水に濡れてることができない。」
ラナはギルバートを見上げていた。ギルバートは傘の外に右手を出した。手に雨がかかってだんだんと濡れてくる。暫くすると、手の表面から湯気が立ってくる。
「あ、」ラナから声が出た。
ギルバートが手を傘の中に戻した。
「火傷のようになるんだ。これくらいなら、じき、治る。」
「水魔を葬れない理由だ。」
「…。」
「できれば、使用人たちが、起き出さないうちに部屋に戻ってほしい。」
ラナが頷く。そして彼女はギルバートをしっかり見上げた。
「手… ごめんなさい…」
ラナの声は、消えそうだったが、ギルバートにはしっかり聞こえた。
彼はラナに初めて微笑んだ。そして、彼女を後にした。