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第24話 虹の雫

 フィイは袖口の黒く染まったところを水桶に浸した。

 袖口からインクが流れ出て、水を黒く染める。

 午後の試験が始まってすぐ、隣席の受験生がフィイのインク壺を倒したのだった。

 とっさに袖口でインクを吸い取ったが、解答用紙の半分以上がインクで汚れ、文字をかける場所が小さくなった。

 ギルバート様の服も台無しだ。

 インクも壺からほとんど流れ出て、ペンを浸すほども残っていない。

 袖口を絞って、滲んだインクにペン先を押し当てる。

 たくさんの文字が書けず、解答も「ひと言」がいいところだった。

 盗み見に、解答妨害。

 監督官は見ていたはずなのに知らん顔だ。

 このくらい、自分で何とかしろということか。

 論文試験なのに文書が書けず、解答用紙のインクが乾くのを待つために試験時間の最後まで席に座っていた。

 最後に回収されたフィイの解答用紙はまだインクの湿り気が残っていた。

 本当なら、胸を張って帰れるのに肩がどうしても落ちてしまう。

 帰り道、『王立』厩舎の井戸端にいた。

 井戸から水をくみ上げ、脱いだ上着の袖口を水の中で揉んだ。

 水っぽいインクは流れてくれたが、服の糸にしみ込んだ分はなかなか落ちない。

「そんなんじゃ、落ちないぜ。」

 フィイを覗きこむように少年が頭を垂れていた。

「派手にやられたな。」

「…。」

 フィイは洗う手を止めなかった。

「な、洗濯屋を紹介してやろうか?」

「…。」

 少年がフィイの前に回り込んだ。

 くるくるした赤毛で鼻頭から頬っぺたまでそばかすがある。

「上の席から見てたんだ。」

「盗み見もされてたな。」

「…。」

「お前、よく我慢してたな。」

 フィイが手を止めた。

「どういうご用件ですか。

 貴族様が平民をからかいに来たんですか。」

 ちらりと赤毛の服を見てフィイが怒ったように言った。

「やっぱわかる? 生まれって、香り立つよなー。」

 赤毛が得意そうにいう。

 軽口だ。

 お師匠様にしてもジェイド様にしても、赤毛の連中って人が軽すぎる。

「お前だって、そうだろう?

 その服、すっごく高そうな生地だ。」

(そりゃ、ギルバート様の子供のころの服なのだから。

 エバンズ夫人がそれでも普段着のを探して仕立て直してくれたのに。)

「受験生のなかでな、噂になってたんだ。」

「…。」

「今年の受験生の中に、『公爵』様の隠し子がいるって。」

「!」

「お前なんじゃないの?」

 フィイの手が止まる。

「『公爵』様には、隠し子なんていらっしゃいません!」

 フィイは、桶の水を赤毛にぶちまけた。

 赤毛が水びだしになり、インクの混じったのが赤毛の上着を汚した。

「何すんだよ!」

 赤毛が大声を出し、フィイが呆然とした。

 ギルバート様のことを悪く言われて、我を忘れた。

「あ…、 も、申し訳ありません!」

 フィイが身体を半分に折って頭を下げた。

 自分と変わらない歳の子供でも貴族の子弟だ。

 平民がやってはいけない…。

 フィイの手から上着が落ちて、泥になった地面に落ちた。

「あーあ、染まっちゃったじゃねえか。」

「申し訳ありません。」

 フィイが頭を下げた。

 赤毛がフィイの上着を拾った。

「あ!」

 フィイが取り戻そうと腕を伸ばすが、赤毛がそれを高々と持ち上げる。

 彼の方が背が高く、フィイがかわされてしまう。

「とってみな!」

 すばしっこく赤毛がフィイをかわす。

 お師匠様なみに身のこなしが速い。

 フィイが追い付かない。

(動揺している! 

 お師匠様にいつも言われているのに『勝つには冷静さが大切』。)

 悔しくて視界が潤む。

 赤毛にいいようにあしらわれて、井戸から離される。

「痛てっ!」

 赤毛が誰かにぶつかってしりもちをついた。

「…。」

 黒いマントで全身を覆い、フードを深くかぶっている男が立っていた。

 赤毛もフィイも固まる。

(旦那様?)

 一瞬、フィイはそう思ったが、黒マントの男はフィイ達を無視して、『王立』の建物へ歩いていった。

「すげー!

 あれ、『騎士』だぜ!

 俺たちもあんなのになれるのかなぁ。」

 赤毛の目がきらきらしている。

 フィイは赤毛から上着をもぎ取ると門の外へ走り出た。


 ◇◇◇


 袖口のインクは落ちなかった。

 下手な水洗いは、汚れを広げただけだった。

(皆に『しっかり者』だ、『良くできる子』だといわれていい気になっていたんだ。)

 上着を握りしめながら、唇をかんでいた。

 屋敷に戻ったころにはだいぶ陽が傾いていた。

 遅くなったのを叱られるかと思ったが、ユージン様もエバンズ夫人も別のことで忙しそうだった。

 クロルが頭を撫でて慰めてくれて、マリアンは温かいスープを出してくれた。

 それでも、思いあがった自分が許せない。

『フィイ、ないてるの?』

 子狼のリルがフィイの顔をなめた。

「くすぐったいよ、リル。」

『もうあそべる?』

「そうだね、明日はいっしょにいられると思う。」

『うん!』

「これ、乾しておかなくちゃいけないから。

 リルは部屋に帰っておいで。」

『わかった!』

 リルが三本しっぽを立てて、走っていく。

 フィイが屋敷の洗濯場の物干しに上着をかけた。

 結局、袖口は染まったままだった。

「あら、フィイ!

 ここにいたの!?」

「ラナ様、」

 背中に大ぶりの水筒を担ぎ、肩にストールをかけた薄青のドレスのラナが歩いてきた。

 洗濯場の向こうの厩舎にいくのだろうか。

「皆、姿が見えなくなったって心配しているわよ。」

「申し訳ありません。」

「…どうだったの?」ラナの声が優しい。

「…。」

 フィイが俯いてしまった。

「大丈夫よ!

『首席』でなくてもフィイなら受かっているわよ!」

「でも、学費が、」

「『公爵』様が何とかしてくれるわ!

 あの方はお金持ちよ。

 いつもロシュ様たちが言ってるじゃない。

 使うところがないんだからいいのよ!」

「ラナ様…」

 ラナがフィイの頭を撫でた。

「ご苦労様! 

 フィイはよくやったわ!」

 ラナが微笑んでくれる。

 その笑顔に少し、ほっとする。

「ね、フィイ、今から出かけられる?」

「ラナ様?」

「これから、お役目なの。

 水魔をね、退治にいくのよ。」

「え!?」

「小さな水魔だって。

 今、『王立』の小隊が警戒しているの。」

「私が行くのは…」

  フィイが躊躇する。

「大丈夫よ!」

「あの、ラナ様!」

 ラナがフィイの背にショールをかけた。

 フィイの手を握って厩舎に向かう。

 フィイの顔が赤くなる。

 ここには、ジェイドから譲られた赤騎がいる。

 やや小柄な赤毛の牝馬だ。

 なかなか人に慣れず、ジェイドを困らせた馬だったが、ラナには不思議と、とても懐いている。

「アカ、お出かけよ。」

 ラナが赤騎に手綱をつけた。赤騎は嫌がらずラナに従う。

 厩舎の柵を外して、外に出る。

「出かけるのか?」

 声をかけられた。

 黒騎を連れたギルバートが厩舎の入り口にいた。

 いつもと同じ黒い騎士の格好。

 長い黒髪。

 肩の所で透明感のある組紐で一つに結んでいる。

「…お帰りなさいませ。」ラナが微笑んだ。

「ああ。」

「あ、あの、お役目の知らせが届いたので。」

「水魔か。」

 ラナが頷く。

 水色の髪が揺れる。

「フィイと一緒に行ってきます。」

 ギルバートが険しい顔になる。

「…危なくないのか。」

「川岸で迷子になった水魔よ。

 悪さをする子じゃないと思う。」

「…。」

「心配性ですね。

 なんなら、ご一緒、なさいます?」

 ラナが赤騎に跨った。

 フィイに手を伸ばす。

「フィイ、」

「フィイ、君はこちらだ。」

 ギルバートがフィイの身体を抱き上げた。

「旦那様!」

 そのまま、黒騎に乗せる。

「どうして!」ラナが声を上げる。

「二人乗りだと、赤騎に負担をかけることになる。」

「…。」

「先に行きなさい。

 後をついていく。」

 ギルバートも黒騎に跨った。


 ◇◇◇


 知らせを受けた河岸は集落から離れた木々の立ち並ぶ場所だった。

 街道沿いのため、水魔が彷徨うのを見過ごせず、警らの『王立』から知らせがきたのだった。

 夕刻が迫り、木立の中は暗くなっていた。

 通りと木立の境目で、ラナは赤騎から下りた。

 小さなランタンを手に緑のマントの『王立』の騎士が立っていた。

「こんばんは、えーっと、」

「六隊のブルーノ士長です、お嬢。」

「『お嬢』?」

 ラナの後についてきたギルバートが怪訝な顔をした。

「私の呼び名です。」

「お嬢、そちらのお方は?」

「ちょっとした見学。

 えっと、小さい子は、弟みたいな子で、

 おっきい方は、」

 ラナが一度言葉を切る。ギルバートをじっと見た。

 そして、少し笑みを浮かべて言った。

「保護者。」

 顔が引きつったのはブルーノの方だった。

 付添い二人に強張った会釈をして、ラナを案内するように木立に入り込んだ。

「水魔らしき魔物が二体です。

 ダーナ河から上がってきたらしいのですが、帰れなくなったみたいで。

 お言いつけのように、『みかわ糸』の網で囲っています。」

「そう。」

 四人の前にピンと張られた『みかわ糸』の網が現れた。

「河側を開けてあります。左右の側面を、三人ずつが押さえています。」

「私を中に入れてください。」

 ブルーノがランタンの灯りを揺らすと『みかわ糸』の網が緩んで向こう側が見えた。

 網の中央にぷよぷよとした水の塊りが見えた。

「あれが水魔だ。」

 ギルバートが小声でフィイに言った。

「まだ、悪意はないようだ。」

 ギルバートの黒い腕輪は微かに揺らいだだけだった。

 フィイが水の塊を見た。

 以前、ダーナ河で襲ってきた水魔は大きな蛇のようにうねって船を転覆させる勢いがあった。

 今、目の前のは、ただぷるぷる揺れているだけだ。

『みかわ糸』の網の低くなったところをラナが軽く飛び越えた。

「上げて!」

『みかわ糸』の網がまた高くなる。

 思わず、ギルバートが一歩を進める。

「お待ちください。

 危険ですから、ここまでです。」

 ブルーノがギルバート達を制した。

 木立に差し込む陽が暮れていく。

 ブルーノがランタンを消した。

「旦那様…、」

「?」

「とても、綺麗です。」

 ラナが二体の水魔の間に立っていた。

 ラナの周りをキラキラとしたものが取り巻く。

 薄青のドレスのスカートも煌めく。

 前にイゼーロの湖で見た輝き。

「…前も、綺麗だった。」

 ギルバートも小声で言ったが、すぐ眉間に皺が寄る。

「なんて格好だ…」

 短いスカートから素足が覗いていた。

 暗くなった中でラナの足元に水魔が近づく。

 ギルバートの左手に少し力が入る。

「大丈夫です。

 あの色の水魔は大人しくお嬢の言うことをききます。」

 ブルーノの口調は穏やかだった。

 水魔はキラキラと光を帯び、ラナの足元にいる。

 素足に触れているようだ。

 ラナが手に水筒からの水を数滴たらした。

 それをそっと水魔に垂らす。

 ぷるぷるした塊は虹色に輝きを増した。

「とても、きれい…」フィイが呟く。

 ラナはせがむようにすり寄る水魔を連れて、河岸に歩き出した。

「ガキんちょ、運がよかったな。

 お嬢が水魔を殺さず、河に還すのを見られて。」

「え?」

「あのキラキラ、いつもはただの青色なんだけど、虹色の輝きを見ると幸運に恵まれるっていうんだ。」

「…。」

「モテない野郎に彼女が出来たり、子宝に恵まれたりしてな。」

 茶色の髪を長くした男が笑った。

「俺もやっとご利益にあずかれそうだ。」

 ラナの姿が河岸へと水魔をいざなう。

 遠くから見ていたギルバートが心配そうに歩を進めた。

「旦那様?」フィイがその姿を追う。

 ラナの足元で水音がした。

 水魔が河に還る。

 振り返ったラナがフィイ達に笑顔を見せた。

 だが、すぐに険しい表情になる。

 ラナの左右の木立ちから、狼が飛び込んできたのだ。

 赤い目をしている。

「旦那様!」

「下がれ、フィイ!

『王立』も網で身を守れ!」

 ギルバートが叫んだ。

 魔獣がラナに飛びかかり、一瞬、ラナの姿が消える。

 だが、魔獣の腹から反り返った剣が煌めきを放ちながら姿を現す。

(『熔水剣』!?)

 ラナに魔獣の赤黒い血がかかる。

 ギルバートが左手を振ると黒剣が伸び、魔獣の眉間を貫いた。

 黒剣が数体の魔獣を切り裂くと魔物が退いていく。

「汚れちゃった。」

 ラナに苦笑が浮かぶ。

 彼女に怪我はなさそうだ。

「河がそばだ、洗ってこい。」

 ギルバートが厳しい。

 裸足でラナが河に入り、顔や手足を洗った。

 河面が揺らぎ、ラナを包むようにせり上がると彼女の上から雨のように降り注いだ。

 魔獣の血が洗い流される。

「あ、」

 フィイ達にも雫がかかる。

「旦那様!」

 フィイが雫に濡れたギルバートを気遣う。

「この程度なら、大丈夫だ。」

 マントを頭から被り、少し顔を歪ませていたがギルバートがフィイに答えた。

「皆、大丈夫?」

 ラナが濡れたスカートをはたきながら、ギルバート達のもとに戻ってきた。

 髪の雫は乾いている。

「ちょっと油断したわ。」

「しすぎだ。」

 ギルバートが怒っている。

「お嬢?」

 恐る恐るブルーノがラナに声をかけた。

 手のランタンに灯りが戻っている。

「『王立』の皆は大丈夫?」

「はい、皆、大丈夫です。」

「…水魔は河に帰ったし。

 魔獣は、公爵様が退治てくださったから、ここはもう大丈夫。」

「公爵?様?」

 ブルーノがきょとんとしてギルバートを見た。

 目の前にいるのは黒い騎士服の青年だ。

 黒くまっすぐな長髪が顔の半分を隠すようにある。

「えっと…」

 ブルーノが片膝をついて敬礼をする。

 お嬢の言う『公爵』様なら、雲の上のお方だ。

「そんなことはしなくてよい。

 後を頼む。」

「はっ、承知いたしました!」

「ブルーノ士長、お願いします。」

 ラナが微笑み、ブルーノも笑みを返す。

「帰るぞ。」

「はい!」

 ラナとフィイがギルバートの後を追いかけた。


 ◇◇◇


 黒騎の水桶をかえて厩舎を出るとフィイは自分あての書面を読んでいた。

『騎士見習』試験での呼出状だった。

 面談を行うので、保護者と来るようにとあった。

(保護者、きっと親のことなんだろうな。)

 フィイがため息をついた。

 両親は他界した。それも、自死なので公けに言えない。

 保護者とともにといわれても困る。

 代わりを頼むといってもユージン様しかいない。

 あの方もお忙しいし、無理だ。

 エバンズ夫人もラナ様の園遊会の支度で忙しくてとても頼めない。

 お師匠様は、騎士団の関係者だから、なお頼めない。

 ラナ様では保護者…には見えないし。

(旦那様には、とても、頼めない…)

 フィイがまた、ため息をつく。

 その背中を叩かれて、びっくりした。

「フィイ、どうしたの、元気ないわよ!」

 ラナが笑っていた。

「ラナ様、」

 あわてて呼出状を上着の内側にねじ込んだ。

「ちょっと、匿って。」

 ラナが小声で言った。

「どうなされたんです?」

「エバンズ夫人から逃げてきたの。

 今日も朝から採寸だとか、仮縫いだとか。

 爪の大きさまで測られたのよ!」

 ラナが口を尖らせる。

 フィイに苦笑が浮かぶ。

「仕方がありません。

 ラナ様、王様の『園遊会』ですよ。

 旦那様がお連れになるんです。

 誰よりも素敵なお嬢様でないと。」

「私、礼儀も怪しいのよ。

 毎日、ユージンとエバンズ夫人に叱られてるわ。」

「エバンズ様、張り切っていらっしゃいます。」

「そりゃ、私も失敗しちゃいけないって、謝辞を読み上げる練習も、()()()()()()も頑張っているのよ。」

「はい、皆様、ご承知ですよ。」

「一人だけわかっていない人がいるわ。」

「?」

「『公爵』様!

 ずっとご機嫌ななめなのよ。」

 ラナがまた口を尖らせた。

 確かに『園遊会』の支度をするラナ様に旦那様がいい顔をしていないのは知っている。

 お役目で王宮に行かれる時と同じぐらい嫌な顔をされているのだ。

(お師匠様は『やきもち』っておっしゃってたっけ。)

「でも、戻られたほうがいいかと思います。

 後になったほうが、怖いです。」

「それも、そうね…。」

「では、私は赤騎のお水をかえてきます。」

「ありがとう、フィイ。」

 フィイが井戸へ向かって歩き出した。

 ラナも戻ろうとしたが、足元に落ちていた紙を拾い上げた。

「あら、大変!」


 ◇◇◇


 赤騎の水をかえ終わって、フィイは呼出状が服の中にないのに気が付いた。

 落としたらしい。

 中を見られるとまずいし、呼び出しに応じなければ不合格になるかもしれない。

 慌ててさっきラナと話していた場所を探している。

 呼出の時間は、昼からの四刻だ。

 そろそろ出かけないと間に合わなくなる。

 外出のお許しはもらっているが、呼出状がないと『王立』の敷地に入れない。

( 困った!)

 フィイの顔が強張ってくる。

「フィイ!」

 離れたところからギルバートに呼ばれた。

「は、はい! 旦那様!」

 呼出状を諦めて、フィイはギルバートのもとに向かった。

 館の門の近くで、小ぶりの馬車が止まっている。

 馭者台にいるのはクロルだ。

 その前に黒い騎士服のギルバートが立っていた。

「だ、旦那様、ご用でしょうか?」

「出かける。

 一緒に来なさい。」

「はい…」

(これで呼び出しに行けない…)

 フィイが馭者台に昇ろうとした。

「フィイ、馬車に乗りなさい。」

 ギルバートの口調は穏やかだった。

「は、はい…」

 ギルバートの後に続いて馬車に乗った。

 扉が閉まるとクロルが馬車を走らせる。

 馬車の隅でフィイが俯いて小さくなっていた。

 ギルバート様の顔も馬車の外も見られない。

 暫く沈黙と共に馬車が走り、ゆっくりと止まった。

「降りるぞ、フィイ。」

「はい。」

 ギルバートに続いて、フィイも下りた。

「あ、」

『王立』の建物の前だった。

「上着を、ちゃんと着なさい。」

 ギルバートがフィイに上着を渡した。袖口にシミが残っている。

 フィイが慌てて袖を通す。

 曲がった襟をギルバートが直した。

「申し訳ありません、旦那様。」

 そして、彼は畳まれた書面をフィイに渡す。

「…。」

 無くしたと思った呼出状だ。

「ラナが拾って、届けてくれた。

『保護者』同伴とあったから、私に行けと言った。」

「も、申し訳ありません!」

「『保護者』としては頼りないかもしれないが、真似ぐらいはさせてくれ。」

 フィイが頭を下げる。

「君には、これぐらいしかしてやれない。」

 フィイが顔を上げた。笑顔を作る。

「ありがとうございます!」

 二人が歩き出そうとした横で、一組の父子がもめていた。

「親父、頭、さわんなよ!」

「少しは撫でつけろ。寝癖がひどすぎる。」

 父親が困ったように言う。

 二人の格好は貴族の体裁だが、華やかさはなく、生地はくすんでいる。

「そんなもん、今更、繕ったってどうにもなんねぇよ!」

 フィイには聞き覚えのある声。

 くるくる巻いた赤毛の子供。

「あ、隠し子!」

 赤毛がフィイを指さした。

「何、失礼なことをしている!」

 父親が赤毛の頭をこつんと叩いて、赤毛の頭を下げさせた。

「ご無礼をいたしました!」

「い、いえ。」フィイが慌てる。

「なんだ、お前も呼出しかよ!」

「エル、失礼な口の利き方をしない!」

「だって、平民だぜ!」

「身分の問題じゃない!」

 父親も子供と同じ、赤毛の巻き毛だ。

 ギルバートに一礼する。

「ご子息に失礼をいたしました。」

「あ、あの、」

「気遣い無用だ。

 フィイ、行くぞ。」

「は、はい。」

 フィイがギルバートについていく。

 エルと呼ばれた子供と父親も後に続く。

『王立』の奥まった先の部屋に通された。

 中庭を望む、明るい部屋。

 中央の大きなソファに長いスカートを広げた恰幅のいい初老の婦人が座っていた。

 スカートは煌めく空色のもの、銀糸の刺繍がある短めの上着。

 左翼の『空色』をまとうのは、バハール・オスカーリッツ女侯爵、『左翼』の騎士団長で「王国騎士団」の総団長だった。

 紅もひいていない顔に、白くなった金髪を結いあげていた。

 バハールは、ギルバートに軽く笑みを見せた。

「久しぶりだね、坊や。」

 バハールが凄味のあるややしゃがれた声で言った。

 ギルバートが目をそらせ、俯いてしまった。


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