第20話 支えとするもの
「何をしている、ラナ。」
目の前に立っているのは黒い騎士服のギルバートだった。
泥だらけの顔を拭いもせず、ラナは顔を下に向けてしまった。
左手の塊も止まっている。
ふつふつと塊に泡が見える。
「何もしてない…」
小声だった。
「何か言うことがあるのか!」
ギルバートの声が大きい。
「…失くしてばっかり。」
「ラナ?」
「水筒、失くしちゃった。
友達、いなくなった。
誰も助けられない…」
「何を言っている?」
「誰も、助けられないの!」
ラナに歩み寄ろうとしたギルバートの足が止まる。
左手首の腕輪が回り始めた。
今までラナには反応しなかったのに。
琥珀色の髪の男がラナの背後から現れ、男の両手がラナの肩に置かれている。
アンバー・エイリークがラナに囁いた。
「あの黒いのが、お前から友達を取り上げた。
サラは、奴に捕まった。」
「サラ…。」
「取り返しに行っておいで。」
アンバーがラナの背中を押す。
「アンバー・エイリーク?」
ギルバートが呟く。
白の魔女の言った名前だ。琥珀色の男。ロシュの敵。
ラナが一歩前に出た。
左手の塊も動く。
「ラナ、水筒はどうした?」
ギルバートが手ぶらの彼女をいぶかしんだ。
いつもなら『熔水剣』を彼に向けるのに、『熔水剣』はおろか道具屋でそろえてやった剣も構えていない。
「ない…
どこかにいっちゃった…」
「全く…」ギルバートが呟く。
「そんなものいらないだろう?
お前なら、『水』を操れる。
あの黒いのは、お前の『水』に弱いはずだ。」
アンバー・エイリークが、またラナに囁く。
ラナが青い顔をしている。
「ラナから離れろ! アンバー・エイリーク!」
ギルバートが叫んだ。
左腕を振り下ろす。
黒い腕輪が剣にかわり、ギルバートの左手に納まる。
アンバーは一瞬、意外な表情を浮かべたが、うっすらと笑った。
「名前を覚えて頂けて、光栄に存じます、『冥主』。」
アンバーがラナに顔を寄せて、耳元で何かを囁いた。
その姿にギルバートは腹ただしさを感じる。
ラナの水色の瞳は暗い。
ラナが右手をよろよろと上げた。
それに引きずられるように背後の湖沼の水がゆっくりとせり上がる。
まるで、水魔の蛇だ。
水魔はラナのはるか頭上を越えて、ギルバートの方へ流れ込んできた。
構えた彼の目の前で、水魔の頭が四散し、青く瞬く刃先が水魔の胴を突き刺す。
グレンの槍だ。
「一歩が遅い!」
グレンがギルバートを叱責し、水魔の中心に槍を突き出した。
飛び散った雫が二人を濡らす。
「さっさと、小娘を止めろ!
次のが来ちまった!」
グレンの槍は、次にせり上がった水魔の頭も薙いでいる。
ギルバートは、雫が当たった皮膚が焼けるのを感じた。
痛みを堪えながら、左手の黒剣でラナに向かう。
(よけろ!)
内心でそう願いながら、ラナの姿に黒剣を振り下ろした。
黒剣は振り抜けず、大きな音を響かせて何かに阻まれた。
黒剣を受けたのは、宙に浮いた『熔水剣』だった。
重い衝撃が全身に響く、ギルバートが吹き飛ばされて転がった。
(『熔水剣』! どこから!?)
『熔水剣』に守られたラナは呆然と立っている。
ギルバートは立ち上がると再びラナに剣を向けた。
「しっかりしろ! ラナ!」
「水魔を倒すのは、君の役目だろう!」
『熔水剣』がラナの右手に納まった。
ラナの目に光が戻ってきた。
「ラナ!」
ギルバートが叫ぶ。
ラナの大きな瞳に涙が浮かぶ。
「泣くな! 水魔を止めろ!」
「え?」
「君が呼び出している!」
ラナを取り巻くように水魔が増えていた。
彼女を守るかのようだ。
目の前のギルバートが濡れている。
水魔の雫のせいだ。
彼が顔を歪めている。
「どうしたらいい?」
ラナの声に力がない。
「湖沼に返せ!」
自分に向かってきた水魔を切り払いながらギルバートが叫ぶ。
「…。」
ラナは右手の『熔水剣』を見た。
もう一度、『熔水剣』を高く掲げた。
「お願い!
湖沼に戻って!
私は誰も… 誰も傷つけたくない!」
『熔水剣』が強い光を放ち、ラナの叫び声に水魔たちが怯んだ。
『何を言うの、セイレンの娘?』
『貴女を守るためにいるのよ。』
『貴女に剣を向ける者を排除するのよ。』
「ちがう…
この人は違うの。
この人は私を助けてくれるの!」
ギルバートの前の水魔が怯んだ。
動きが鈍くなり、背後の湖沼へ戻っていく。
ラナの顔が少し優しくなった。
ギルバートの苦しそうな顔も少しだけ和らぐ。
だが、ギルバートはラナに剣を向けるのをやめなかった。
その形相にラナが固まる。
風圧でギルバートの黒髪が宙に浮かぶ。
紙一重でラナの横をすり抜けるとアンバー・エイリークを肩から斜めに切り裂いた。
アンバーは、裂けた身体に少し驚きの顔を見せたが、薄笑いを浮かべて、ギルバートの黒剣に自分の剣をぶつけた。
アンバーの剣が二つに割れる。ギルバートもアンバーも湖沼群のほうへ飛ばされた。
ギルバートは立ち上がろうとしたが、濡れてしまった彼の動きはとても悪い。
「あ、」
ラナがギルバートの方へ動こうとした。
が、左手の塊で動けない。
ラナは左手を捕まえている塊を見た。
彼女は唇を噛み締めると『熔水剣』を振り下ろした。
苦痛に顔を歪める。
ラナの左腕が肘の下から切り落とされた。
悲鳴は上げない。
噛み締めた唇の端から赤いものが滲む。
切り落とされた左腕からは『青い血』が流れ落ちた。
その姿にギルバートが驚く。
グレンの槍も動きを止めた。
流れ落ちた『青い血』は、塊を溶かし始めた。
中から、ロシュの顔が現れる。
「!」
ギルバートもグレンも声がない。
「ロシュ!」
叫び声をあげたのは、ずっと後方にいたジェイドだった。
魔物相手では、魔剣も魔道具も持たない彼には出番がないのだ。
ジェイドは、弟に駆け寄った。
そのドロドロした中から身体を引き寄せる。あらわになった首筋で脈を診る。
「ジェイド!」
グレンが叫ぶ。
「生きてる!」
「任せる!」
グレンの槍が青く瞬き、先をラナの方に向けた。
ラナはアンバーの方に歩き始めた。
左腕の青い血は流れたままだ。
痛みと失血で頭がふらつく。でも…
アンバー・エイリークは、ジェイドに抱えられたロシュに舌打ちした。
(使えんな。)
ラナがふらつきながら、『熔水剣』を構えた。
剣をアンバーに向ける。
「何がしたいの!?」
ラナが叫ぶ。
「『混沌』と『恐怖』。
『秩序』のある前に還ること。」
アンバーが冷ややかに笑った。身体半分から血を流しながら。
「我が世界の姿。」
アンバーが折れた剣を捨て、ラナに向かって腕を伸ばした。
その指先を鳴らす。
微かな火が灯るとそれにアンバーが息を吹きかけた。
火は大きく広がり、鳥の火翼と化す。
火翼からは、小さな火鳥が生まれ、方々に散っていく。
火鳥は火の粉をまき散らす。
領主館も館を取り巻く木々にも火が付き、燃え始めた。
拡がった炎は、領主館の人々も傷つける。
火鳥はラナにも襲いかかった。
「ラナ! 逃げろ!」
ラナはギルバートの言葉に従おうとしたが、熱波で溶けかかった足がうまく動かない。
ギルバートはラナを庇うように火鳥の前に立ちはだかった。
黒剣が火の塊を裂き、裂かれた炎は黒く炭化し地面に落ちた。
「ギル!」
グレンの槍は、半円を描く穂先に変わり、火の塊を薙ぐと蒸気となって四散させた。
グレンもラナを庇うように盾になる。
「なんか、策は無いか?」
グレンが叫ぶ。
彼の槍は火の粉を四散させている。
「ないな。」
ギルバートが火を炭化させながら答える。
「火を消さんと、領都が焼け落ちるぞ。」
「ラナは?」
「お前さんの背中。」
「!?」
ギルバートが振り返る。
左手を無くしたラナが立っている。
酷く辛そうな顔で。
「ラナ、『水』を呼べるか?」
「えっ…」
「辛いのはわかる。
だが、領都を焼かれるわけにはいかない。」
「雨を降らせろ!」
「ど、どうやって?」
「君が悲しくて泣くと雨が降る、とダーナ様が言っていた!」
「悲しいって…」
「悲しいこと、考えろ!」
「無茶を言うな、ギルバート。」
呆れた声でグレンが言う。
(考える? 悲しいこと?)
ラナが目を閉じた。
(悲しいこと…? 皆に逢えないこと?
違う、この人が痛いのが、悲しい…)
ラナが目を開けた。
目の前で火鳥と渡り合っているギルバートの顔がただれていた。
火ではなく彼女の水魔のせいだ。
さぞかし痛いはず…。
涙が溢れる。
顎から雫が落ちると同時に天から雨粒が落ちてきた。
だんだんと数が増えて土砂降りになる。
雨にあたってギルバートが湯気を出し、火鳥の炎が小さくなって消えていく。
火鳥の向こうにいたアンバーにギルバートの黒剣が伸びる。
黒剣がアンバーの胸を貫いた。
琥珀の男が黒い血を吹き上げて地面に転がった。
アンバーが動かなくなって、黒剣はギルバートの腕輪に姿を戻した。
ギルバートもそのまま地面に膝をつく。
雨が体中を痛ませる。
「ラナ?」
それでも彼はラナを呼んだ。
「大丈夫か?」
ラナの泥は雨に洗い流されていた。
水色の髪も瞳も彼の知っているラナの色だ。
少し安心する。
『人間はひどい。』
『セイレンの娘を傷つけたわ。』
『この娘は渡さない。』
『セイレンの娘は私たちが守るの。』
湖沼の『水』が幕のように彼らの周りに壁を作った。
ラナを包み込むように水の壁は狭まっていく。
ギルバートやグレンは壁にはじき出されてしまった。
「ラナ!」
ラナは怯えた顔をギルバートに向けた。
しかし、その顔は水に飲み込まれ、湖沼へと引きずり込まれていった。
「ラナ!」
湖沼の中へ追いかけようとしたギルバートをグレンの腕が捕まえた。
「お前が行っても沈むだけだろうが!」
グレンの言葉にギルバートが地面に崩れ落ちた。
目の前にラナの水筒が転がっていた。
◇◇◇
雨はまだやまない。
アーデンは、アンバー・エイリークの傷口の穴に手を入れた。
男の脈は無くなっていたし、縦長の瞳孔も開いたままだ。
アーデンの腕が溶けて、アンバーの身体に沈んでいく。
腕だけでなく、半身もアンバーに飲み込まれていく。
顔まで飲み込まれて、アーデンが消滅した。
「ぐふっ!」
アンバーが口の中に溜まった血を吐き出した。
よろけながら身体を起こす。
ギルバートに貫かれた穴は水の塊で埋められていた。
「この程度の役にしか、たたないか…」
アンバーの瞳が横に瞬く。
彼の目の前に娘が立ち尽くしていた。
「し、死んだんじゃ…」
ソバカス顔のサラが膝を震わせた。
彼女もどさくさで逃げ出したのだ。
サラの手は、アンバーの懐を狙ったらしい。
「娘、」
アンバーが口元をゆがめた。
「金貨百枚で、雇われないか。」
「え?」
「その気があるなら、肩を貸せ。」
サラは一瞬、躊躇したが、アンバーの腋の下に身体を潜り込ませた。
◇◇◇
「酷い有様だ…」
マリーが領主館や湖沼の畔を見渡して呟いた。
雨がやんで、あたりは泥だらけだ。
「大の男が揃って…」
領主館の半分は煤けて焼け落ちている。
アインとお茶をした温室も燃えてしまっていた。
マリーは、アインとマチュア、ハルを守るために療治院へ詰めていた。
領主館は、ジェイドが仮の『王立』の本部を置き、グレン達が警備と探索を行っていた。
マリーの『右翼』も領地界ぎりぎりに警備展開を施している。
ジェイドの連れてきた薬師父娘が領主館の怪我人の治療にあたっていた。
マリーが、ギルバートが来ているのを知ったのは、領主館に戻ってからだった。
皆、王家の、『勇者の末裔』がダーナ河を簡単に渡れると思っていなかったのだ。
どうやってダーナ河を渡ったのか、ギルバートに問い詰めたが答えは得られなかった。
ギルバートは、湖沼の見渡せる畔に立っていた。
濡れた髪も顔も『みかわ糸』の騎士服も乾いた。
だが、痛みは引いていない。
表情には出ないように繕っている。
ラナは湖沼に連れ去られてしまった。
少し風が吹いて髪が乱れ、視界を遮る。
上着の内側から紐を取り出した。
ラナの封筒の中にあった『みかわ糸』の髪紐。
肩口で髪を一束に結ぶ。
(どうしたらいい?)
「『どうしたらいい?』ではなくて、『どうしたいか?』じゃないのか。」
グレンが彼の隣に立っていた。
「顔に出てるぞ。」
「まさか…」
「見くびるなよ、俺は、お前の『師匠の師匠』だ。」
グレンが笑う。
「それにガキの頃、面倒見てやっただろう? 親父の代わりに。」
ギルバートの表情が固まる。
「『シーラ』の言うには、ラナは湖沼の泡に捕まっているそうだ。
彼女たちの支えにされている。」
「支え?」
「火鳥が暴れた割には、湖沼は干上がっていない。」
「水が供給されている。
どこからだと思う?」
「?」
「ラナだとさ。」
「!」
「湖沼連中の根っこにされている。
ほっといたら、本当に持っていかれるぞ。」
「グレン…」
「あの娘のために戦っていたお前は、すごく、いい面をしていた。」
「…。」
「『どうしたい?』」
グレンが問いかけた。
ギルバートはしばらく無言だったが、湖沼の先を見て言った。
「…二度、助けてやれなかった。
三度目は、あっては、ならない。」
グレンがふっと笑った。
(他人に無関心だった小僧が、そう言うか。)
「この湖沼群の下には、洞窟がいくつかある。
『水神教』の連中がねぐらにしてたヤツとか、な。
ラナを支えに使うなら、ど真ん中にある洞窟だろうな。
でないと湖沼群のつり合いがとれん。」
湖沼が、中央部に向かってすり鉢状に落ち込んでいる。
「さすがに地図は無いか…」
グレンが溜息をつく。
「マチュアがいれば、なんかあっただろうな。」
小さな手がグレンの上着を引っ張った。
ギルバートが足元の子供に気付く。
ハルが丸めた羊皮紙をグレンに差し出していた。
「よう、ハル。」
グレンが子供の頭をなでる。
「ハル?」
「アインとマチュアの息子。正確には甥っ子だがな。」
「ハル、マチュアからか?」
ハルが頷く。
ちょっと恥ずかしそうな顔をして、走って戻っていった。
ハルの走る先にアインの姿がある。
ギルバートが少し頭を下げる。
「領主と知り合い?」
「マリーの前、同室でした。二か月だけ。」
グレンが驚く。
「お前、本当に『安全牌』扱いだったんだな。」
「それを、見せてください。」
二人で羊皮紙を拡げる。
細かく湖沼とその下の洞窟を結ぶ線が記されている。
いくつかの入り口も載っている。
「さすが、マチュアだ。よく調べてある。」
ギルバートは、景色と地図を見比べる。
あらかたの湖沼に見当をつけ、入り口を定める。
「覚えました。行きます。」
「おい、俺達も…」
グレンの槍も瞬く。
「いえ、一人で。」
二人のそばに蹄の音が近づいてくる。
音の方を見るとジェイドが黒騎を引いて歩いてきた。
「何か、よからぬ企みを?」
ジェイドが少し笑いながら立ち止まった。
「嬢ちゃんを助けに行くんだよ。」
グレンが答える。
「湖沼に連れていかれたんだろう。
水の中じゃ、無理だ。」
ジェイドが黒騎の手綱をギルバートに渡す。
「ギル、潜れる者を手配した。」
「水の中じゃないらしい。」
ギルバートが言う。
「え?」
「『湖沼』の根っこにされているんだよ。」
グレンが続けた。
「え?」
ジェイドが二人の顔を見比べる。
「ど真ん中の湖沼の下にいる、と思う。」
グレンが息をついた。
「洞窟の中?
だから…」
ジェイドが黒騎の鼻づらを撫でる。
「?」
「こいつが、お前の所に連れていけ、っていうものだから。」
黒騎がギルバートに顔を寄せた。
「…。」
「ギル、それから、」
ジェイドがギルバートの首にラナの水筒をかけた。
『熔水剣』の水筒。
ギルバートは肩に担ぎなおした。。
「ラナ嬢の大事なものだろ。落としてばかりでダメじゃないかって言っといて。」
ギルバートが小さく頷く。
彼は黒騎に跨ると湖沼の中心へ歩を進めた。
彼を見送ったジェイドがグレンに訊ねた。
「湖沼の根っこをとったらどうなるんです?」
「俺に聞くな!」
◇◇◇
ハルは、アインのもとに戻るとそのスカートにしがみついた。
「ハル、礼を言います。」
マリーは膝をついて、ハルの目線まで屈むと笑顔を見せた。
「お嬢様は、大丈夫なのでしょうか?」
アインが心配そうにつぶやく。
「湖沼を怒らせてしまったからね。」
椅子にもたれたマチュアが少し身体を起こした。
アインがそれを支える。
「マチュア、無理をするな。」
マリーが心配そうに彼を見る。
「大丈夫ですよ。
それより、湖沼がラナ様を返してくれるでしょうか…」
◇◇◇
湖沼の中心にある洞窟の入り口でギルバートは馬を下りた。
急勾配では、黒騎に負担がかかる。
馬を留め置き、洞窟の下へ向かう道を慎重に下りる。
入り口からの光が届かなくなると漆黒の闇になる。
彼は左手の腕輪を少し振った。
腕輪が光を浮かべる。
彼の足元を照らすには十分だ。
下り坂の先に仄かな光がある。
「!?」
光の方に足を踏み入れる。
広い空間になっている。
空間の壁が小さな青い光を放っている。
これがここを明るくしているらしい。
(なんだ?)
辺りを見渡すと彼が下りてきた道のような穴が周りにいくつも見られる。
(ここが中心?)
だが、ラナの姿がない。
ギルバートの頬に何かがあたった。
雫だ。
痛みに手をやる。
雫が落ちてきた方を見上げた。
「…。」
天井の高い所に娘の姿があった。
壁からの光が彼女を照らしている。
(ラナ…!)
ラナの両腕両足には、透き通った管のようなものが繋がっている。
その管は、もっと上の湖沼に届いているようだ。
管の中を小さな泡が昇っていく。
ラナの顔は下を向き、水色の髪は垂れさがっている。
ギルバートにあたったのは、ラナの涙?
ラナの肌は透き通っていて、赤い線と青い線の網が重なり合うように体中をめぐっている。
きらきらと輝く透き通った身体はとても美しい。
ラナは裸身だった。
彼女の乳房も下腹部も隠すものが何もない。
『みかわ糸』の布は、彼女の体の下に落ちていた。
ギルバートはそれを拾い上げ、見上げるラナの姿に声を無くす。
『人間が何をしに来たの!』
『こんな汚らわしい者は外に捨てるのよ!』
壁がざわつく。
「ラナ!」
ギルバートは娘の名を呼んだ。
「ラナ!」
もう一度呼ぶ。
ラナの目が微かに動いた。
「迎えに来た!」
ラナが少し笑った。
「帰るぞ!」
ギルバートの声にラナが頭を横に振った。
『だめよ、セイレンの娘はここにいればいいんだわ。』
『人間はこの娘を利用するだけだもの。』
『ここにいれば、幸せになれるわ。』
『わたしたちと一緒にいるのよ。』
「そんなことはない!
ラナは、『人間』だ。
『人間』の幸せを願っていい!」
『『人間』の幸せ? 何、それ?』
「ラナ!」
もう一度、ギルバートが叫んだ。
「一緒に帰るぞ! ここは君のいるべき場所じゃない!」
ラナがうっすらと目を開け、ギルバートを見た。
彼は両手を、彼女に差し出していた。
彼女に触れることが出来ないのに。
ラナは、そんな彼の姿を嬉しいと思ってしまった。
『黙れ、人間!』
壁の光の粒がギルバートに向かって放たれた。
彼の身体を貫こうとした光がその直前で止まって底に落ちる。
「その人を傷つけないで…」
ラナの涙が地面に落ちた。
「帰れないの…。
私がここを離れたら、彼女たちが消えてしまう。」
『ラナ…』
『セイレンの娘…』
壁がざわつく。
ギルバートの肩の水筒がカタカタと激しく動き始めた。
彼は水筒を下ろして手にした。
「どうしろと?」
水筒はギルバートの手の中で、『熔水剣』に姿を変えた。
『熔水剣』はその切っ先をラナに向けた。
ギルバートが驚く。
思わず『熔水剣』を抑え込む。
だが、その力は彼を撥ねよけようとするぐらい強い。
(ラナを助けようと?)
ギルバートは『熔水剣』を握り直した。
「どうか、私にラナを救う太刀筋を教えてください!」
ギルバートの願いに答えるかのように、彼ごと『熔水剣』は宙に舞い、ラナの両手両足を斬った。
ラナの頭と胴体が天井から落ちる。
先に下に落ちたギルバートは『みかわ糸』布で、切り離されたラナを受け止めた。
両手両足の切り口から流れ出た『青い血』が『みかわ糸』を染める。
(ラナ!)
その塊を抱きしめてギルバートは洞窟を駆け上がった。
(ダーナ河へ! ダーナ・アビス様のもとへ!)
ダーナ・アビスに言われた言葉を思い出していた。
『頭と心の臓が残る限り、河に触れるとあの娘の姿は元に戻るの。』
明るい洞窟の入り口で、黒騎が待っていた。
岩場を飛んで、馬に乗る。
「急げ! ダーナ河だ!」
漆黒の馬は、天をかけるがごとく走った。
彼らの通った後には、『青い血』が巻き散らかされている。
二人の背後の湖沼が崩れて、地面が沈み始めた。
その穴にほかの湖沼の水が流れ込む。
逃れるようにギルバートは馬を走らせた。
黒騎は二人を乗せたまま、ダーナ河へ飛んだ。
馬の背から滑り落ちるように、ギルバートは腕の中のラナと共にダーナ河へ沈んだ。
◇◇◇
イゼーロの地面が激しく揺れ、領主館のそば近くまで地面が陥没し、水が流れ込むと大きな一つの湖へと姿を変えた。
領都の街中もこの振動で、家屋が大破し、地表も歪む。
ジェイドが急いで避難の手を打たなければ、人的被害ももっと大きかっただろうと思う。
『湖沼の根っこをとったらどうなるんです?』
彼の心配は現実になっていた。
◇◇◇
河に沈みながら、ギルバートは彼らに手を伸ばしているダーナ・アビスの姿を見た。
彼女の手にラナを預けると、彼は安心して目を閉じた。




