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第17話 友達は裏切る

「熱心に来られますね。」

 白いローブのアーデンは、背を丸めた男に寄り添うように膝をついた。

 ロシュは、あの日に見た彼女の顔を忘れられなかった。

 あの顔は、亡くなった『妹』の顔だった。

 あの日以来、魅入られたように『水神教』の集団の中にいる。

 ここに集まっている人々は、何らかの傷を身体や心に負い、救済を求めている。

『水神教』の教えは、『水』を神として敬い、大切に扱う。

 自分たちの飲み水まで最小限で済まそうという。

 それでは人として生きていけなくなる。

 極端な『教え』だ。

 そこまでする必要はアミエリウスにはない。

 隣国フィアールントのように火山があり、熱風が襲い、火災の心配があるところでは、水は人が生きるため、生きる場所を冷やすため、必要とされる。

 その地での水を請う思想がイゼーロに流れ込んできたのだろうか。

 でもイゼーロには水しかない。

『水神教』は、水を大切にすれば救われると説き、人々を集めた。

 彼らの集団は、アーデンを教祖に絆を強くしている。

 水を汚すものを悪とし、生業のために『水』を使うものを糾弾までする。

 ただそれだけでは、続かない。

 彼らが求めるは、彼らの大事な人の姿だ。

 アーデンは、その姿を相手に見せる。

『鏡』、その言葉がふさわしい。

『水神教』を探りに来たが、アーデンのいかさまはまだ見破れない。

 ロシュも少しばかり困惑していた。

 アーデンが見せた『妹』の顔、どうやって知ったのか。

 ロシュの外見は魔力を使って変えているので、彼の素性を簡単に見破るのは無理だろう。

 見破るなら同じ魔力を持つ者に限られる。

 アーデンには彼のような魔力の感触はなかった。

 彼女の取り巻きでは、集まっている人々のことを調べ上げるには人数が少なすぎるし、聞き取る時間もない。

 ロシュは、『妹』の姿を誰にも話していない。

 フィイやラナ嬢にも、『妹』がいたことすら話したことはない。

 マリーは知っているが、会ったことはないはずだ。

 ギルバートが知っているのは、顔が無くなってからの『妹』だ。

 知る者がいないのに、なぜアーデンはあの姿になれるのか。

「心が迷っていますか?」

 アーデンの手がロシュの手を取った。

「い、いえ…。」

 アーデンの手は、少し冷たくて、揺れる心を冷ましてくれる感じがする。

「これを。」

 アーデンは、ロシュに水の盃を持たせた。

 彼の手を自分の手で覆う。

 この盃は、老婆が飲んで昏倒したものだ。

 口にしてはいけない。

「い、いえ。

 私よりほかに必要とされる方に!」

 ロシュが固辞しようとする。

 アーデンは、ロシュの手の盃に口をつけた。

「アーデン様!」

 そのままアーデンの顔、『妹』の顔がロシュに近づく。

 アーデンは、ロシュに口づけし、彼に彼女が含んだ水を飲み込ませた。

「…。」

 頭がふらついて、身体が崩れそうだ。

(この水は、毒なのか!)

 彼が知っている毒とは違う。

 声も上げられない。

「貴方も許されるべきです。」

 アーデンの声はとても優しく聞こえた。

 意識が遠のく。

 ロシュの身体が地面に崩れ落ちた。

 アーデンが供の男に場所を譲った。

「動揺しすぎだよ。」

 ロシュの耳元で男は囁いた。

「心が綻んでしまって… だから、読まれてしまう。

 凡人相手なら問題なかったのだろうけど。」

 口元を釣り上げた男の琥珀色の瞳孔は縦長に開かれている。

 瞳の持ち主アンバー・エイリークは、その胸にロシュの身体を抱きしめた。

「お帰り、私のロシュ。」


 ◇◇◇


「痛む?」

 ラナは心配そうにサラの傷に手を当てた。

 足首の擦り傷が赤くなっている。

 ラナは少しだけ手のひらに傷をつけて水にかえったところをサラに当てた。

「大丈夫、ちょっと染みるけど。

 ラナの手が冷たくて、気持ちいい。」

「ならいいけど。」

「ごめんね、私のせいで。

 捕まっちゃうなんて。」

 サラの手がラナのに重なる。

「私のほうこそ、ごめんなさい。

 怪我させてしまって。」

 サラがラナに抱きついた。

「ラナが一緒でよかった!」

 ラナの顔が少し赤くなった。

 サラの背中に手を添える。

 背中が震えていたから。

 ラナが追った魔獣は宿舎の井戸のそばで彼女に飛びかかってきた。

 その首を落とし、とどめを刺そうとしたとき、偶然にも建物からサラが出てきたのだった。

 驚いたサラは転んで怪我をし、ラナは魔獣よりもサラを助けるために手を止めた。

 首のない魔獣は再び、ラナに飛びかかったが、ラナが倒すより先に背の高いフードをかぶった男が切り捨てた。

 一瞬、『彼』かと思ったが、『公爵』がここに来るわけがない。

 フードの男は、ラナ達をみてニヤリと笑うとその血の滴る剣先をラナの喉元に当てた。

「来てもらおうか、娘。」

 ラナがサラを庇いながらフードの男を見た。

 両目が光っていた。

 赤ではなく、琥珀色。

「言うことを聞くべきだ。

 ()()が困るよ。」

 フードの男の手下がラナから剣を取り上げ、二人の腕を捕まえて馬車に押し込んだ。

 窓をふさがれ、外は見えない。

 揺れが激しく、整備された道ではない所を走っていた。

 どのぐらい走ったかわからない。

 馬車が止まって下ろされたところは、洞窟の入り口だった。

 背中に剣を突き付けられ、洞窟を降りて行ったところの小部屋に押し込められて鍵をかけられた。

 部屋には、ランタンの小さな灯りだけ。

 窓も何もない。

 逃げようと思っても、ストータの剣はとられたし、大事な水筒は魔獣と交えたときに落としたらしい。

 それにサラがいては何もできない。

(また、叱られるわね。

 捕まるなんて前と同じ失敗じゃない。)

 ラナを叱りそうな人物の顔が浮かんだ。

 溜息をつく。

「私たち、どうして捕まったの。」

 サラが不安げに言った。

「売られたり… するの?」

「それは…。」

 ラナも答えられない。

 ラナにも捕まる理由がわからない。

「様子を見るしかないと思うわ。」

 サラがラナの手を握った。

 少し手が熱い。

「サラ、具合よくないの?」

「いまになってすごく怖くなってきちゃった。」

 ラナがサラの手をしっかり握り返した。

 サラが微笑んだ。

 扉の向こうが騒がしい。

 じゃらじゃら音がして、閂の外れる音がした。

 扉が軋んで開く。

 彼女たちを捕まえた男が立っていた。

 足まで隠れる黒いローブのフードを背中に垂らし、瞳と同じ琥珀色のまっすぐな長髪を肩に乗せていた。

「何者なの?

 名乗ったらどうなの!」

 男は答えない。

「私達をどうするの!」

「威勢はいいのだな。」

 男が口を開いた。

「何が目的か知らないけど、私たちを攫う理由なんてあるの?」

「用があるのは、お前だ。」

 ラナが大きな眼で琥珀色の男を見上げた。

「お前の腕をな。」

「はあ?

 こんなことする人の言うことを聞くわけないでしょ!」

「聞くはずだ。」

 琥珀色の男は、サラの片腕を掴み上げてラナから引き離した。

「ラナ!」

「サラをどうするの!」

 男に飛びかかろうとしたラナを別の男たちが押さえつけた。

 琥珀の男がサラを見た。

「おや、この娘、病持ちだ。」

「え? サラ!」

 男はサラの服の左肩を少し引き裂いた。

 そこには黒い痣があった。

「この黒い痣は、だんだん広がって全身を覆う。

 高熱と痛みが身体中を襲い、水すら飲めなくなる。

 それは死を意味する。」

 ラナが息を飲む。

 コルトレイであった流行り病の話だ。

 イゼーロでなぜ?

「この娘も放っておけば死んでしまう。」

 男がニヤリと笑った。

「く、薬があるはずよ!」

「薬があるのは療治院だ。」

「どうしろと?」

「イゼーロの領主の顔を知っているな。」

「…。」

「殺してもらおう。」

「馬鹿なことを言わないで。

 なぜイゼーロの領主さまを!」

「私がイゼーロを欲しているからだ。」

「国王陛下がいるわ。

 イゼーロに何かあれば、王国騎士団が動くわよ!」

「だから?」

「!」

「別段、騎士団など問題ではない。」

「ここで、大きな血が流れれば、それでよいのだ。」

 琥珀の男は、薄ら笑いを浮かべてラナを見た。

 彼が掴んでいるサラの様子がどんどん悪くなる。

「かわいそうに。

 随分、具合が悪くなっているようだ。」

「サラ!」

「君が動いてくれるなら、この娘は助けてやろう。」

 ラナが唇を噛んだ。

 ラナは、彼女を掴んでいた腕を振り払う。

 そして、立ち上がった。

 琥珀の男は、サラの身体を別の男に預けた。

「ついておいで。」

 琥珀の男はラナの先に立った。

 部屋から出ると暗い空間だった。

 ランタンを掲げた男が二人の先に立った。

 琥珀の男が顎でラナを先に行かせる。

 ランタンの灯りについて細い通路を上っていく。

 通路の両脇から低い呻き声が聞こえてきた。

 たくさんの人の声。

 ラナが足を止めた。

「この人たちは?」

「ああ、汚れた人間だ。」

「!?」

「黒い痣が全身にひろがっている。

 もう死んでいる人間たちだ。」

「死んでないわ!」

「じきに死ぬ。」

「助けないと!」

「どうやって?

 薬は、療治院で、イゼーロの領主が独り占めしている。」

「!」

「領主を殺して、彼らに薬を与えるといい。」

「そんな…」

 琥珀の男は、ラナを急きたてて洞窟の外へ出した。

 夕日が視界を赤くする。

 再び、馬車に乗せられた。

 ラナは、閉められる扉を手で押し返した。

「名前ぐらい、教えなさいよ!」

「アンバー・エイリークだ、『セイレンの娘』。」

「え?」

 ラナの手から力が抜けると扉が閉められた。


 ◇◇◇


 身体が酷く熱くて動けなかった。

 ロシュは、アーデンに水を飲まされてから意識を失い、ずっと灰色の霧の中にいた。

 逃れようともがくが、そのたび、何かを飲まされてまた霧の中に引き戻されている。

 ここがどこだか、自分が何をしているのかもあやふやになっている。

 時折、額にあたる柔らかい手にほっとしている。

 すこし目を開けてみる。

 ろうそくの影が柔らかな光の中にある。

 冷たい指先が頬に触れた。

「動かないで。」

 アーデンの声。

 覗き込んでいるのは『妹』の顔。

(なぜ、ここに?)

 声を出したいが、息すらままならない。

「とても黒くなっているわ。

 さぞかし痛いでしょう。

 さ、薬を飲んで。」

 アーデンがロシュの頭を持ち上げる。

 盃からロシュの口へ液体を流し込む。

 味はない。

 少し、どろりとしている。

 また、意識が遠のく。

 灰色の霧の中に連れ戻された。

 アーデンはロシュの頭をそっと枕に戻した。

「アンバー、眠ったわ。」

 アーデンの肩越しにアンバー・エイリークはロシュの顔を覗き込んだ。

 赤毛の青年の顔は、半分がどす黒く黒痣に覆われ、もう半分にはこめかみから火傷の痕が伸びている。

「あなたとはどういう関係なの?」

「情人。」

 アンバーが少し微笑んだ。

「フィアーの魔法導師の下で一緒だった。

 彼は、『冥主』を殺すために魔力を欲しがった。」

「冥主を? 殺す?

 そんなことができるの?」

「『冥主』が逃げ込んだ人間を殺せばいいんだがな。

 その人間がやたら強い。」

「それ以上に強くなるために、ロシュは背徳的な方法をとるしかなかった。」

「?」

「魔力を得るために、導師に抱かれたのさ。」

「…。」

 アンバーは、アーデンを脇にやり、苦しそうなロシュの頬を両手で包んだ。

 眼を閉じ、ロシュの中に入り込んでいく。

「アンバー?」

 アンバーは目を開けた。

 縦長に開いた瞳孔がロシュを見下ろす。

「ロシュが導師だと思って身を任せた相手は私だったんだよ。」

 アンバーの口元が歪んだ。

「ロシュの先に私が導師を喰ってしまった。

 知らずに抱かれたロシュは私との間に『絆』を作ってしまった。

 アミエリウスにいる間は、ロシュが私の『目と耳』で、すべてを知ることが出来る。」

 アンバーは愛おしくロシュの頬を撫でた。

「おかげで、『セイレンの娘』を手に入れた。」

「…。」

「お前もあの娘が欲しいだろう。」

 アンバーはロシュから離れるとアーデンを引き寄せた。

「河から離れても、消えない『ダーナの娘』だ。」

「泡の連中が欲しがっている。」

「でも、透き通っていて、触れられないわ。」

 アーデンは、アンバーの胸に身体を預けた。

「だから、うんと汚してやるんだよ。

 穢れた人間の血で、ドロドロにね。」

 アンバーは、アーデンの首筋に唇を這わせた。


 ◇◇◇


 夕方から降り始めた雨が、夜更けには本格的になった。

 アインは、窓から夜の庭を見やった。

 マチュアが療治院の様子を見に行き、ずっと帰ってこない。

 ハルも寂しがっているが、流行り病の所へ行っているので、マチュアも帰れないのだ。

『王立』のジェイド卿が薬師を連れてきてくれたが、肝心の『薬』が作れないという。

『薬』の生成には、ラナ嬢の協力が不可欠と言っていたが、彼女が行方不明になっている。

『魔槍のグレン』達の話では、『水神教』が集会をしている洞窟の近くで見かけたという。

 ほかにもラナと同じぐらいの娘もいなくなっているというから、こちらも心配だ。

 ハルが眠ってしまったのを確かめて、部屋を出た。

 執務室に戻る廊下は静かだ。

 アインは、自分に向けられた視線に気が付いた。

 思わず、中庭に通じるポーチに出る。

「あ!」

 その先に、雨の中、ずぶ濡れのラナが立っていた。

 水色の髪に生気がなく、薄青のドレスの裾から水が滴っていた。

「ラナ様!」

 アインは足を止めた。

 ラナは、右手に剣をぶら下げていた。切っ先は下をむいているが固く握られているのが分かる。

「どこにいらっしゃったのです!

 皆、心配しています!」

「貴女を殺せと言われました。」

 ラナの顔がアインに向けられた。

 すっかり雨で濡れている。

「…。」

「友達が… 黒くなってしまう病気です。

 ほかにも同じような人がたくさん。」

「どこで…」

「薬は貴女が独り占めしているといわれました。」

「そんなこと、ありません。」

「わかっています。」

「ラナ様…。」

「貴女を殺して、薬を手に入れないと…。

 友達も他の人も、死んでしまう。」

 アインがポーチを降りた。

 雨で彼女も濡れてしまう。

「来てはいけません!」

 ラナが叫び、剣を突き出した。

 アインがその手前で立ち止まる。

「療治院へ行きましょう。

 そこに行かないと薬は手に入らないわ。」

(でも、ジェイド卿が言うにはラナ嬢の血が薬のはず。

 それを知っていたら、薬のためにここにくる理由がないわ。)

 アインの背後で足音が響いた。

(彼女、それを知らない?)

「アイン!」

 マリーが叫んでいた。

「何が…。」

 マリーはアインの肩越しにラナを見た。

「ラナ、ラナなのか!

 無事なのか!」

 駆け寄ろうとするマリーを後から来たジェイドが止めた。

「変だ。」

「!」

 ラナが、アインの喉元に剣を当てていた。

「ラナ! 何をしている!」

 マリーが叫ぶ。

「マリー! 私は大丈夫!

 誰も手を出さないで!」

 アインが大声で返事をする。

「ラナ様と療治院に行きます!」

「あ、」

 マリーが悔しそうに唇を噛む。

「マリー、ハルをお願い。」

 マリーには頷くしかできない。

「後は任せろ。」

 ジェイドはマリーに囁くと足早に館の奥に姿を消した。

 ラナは、剣を下ろせなかった。

「療治院は、館の裏をいくのが近道なの。

 少し、歩くけど、たいして時間はかからないわ。

 行きましょう。」

 アインは、剣を向けられたまま歩き出した。

 ラナの方が慌てて後を追う。

 雨が二人をずぶ濡れにしている。

 黙って歩いていた。

 ラナの剣は、アインから離れ、地面を向いている。

「…責めないのですか。」

 やっとラナが口を開いた。

「…ご自分が一番、辛い思いをしているでしょう。」

 アインの口調は穏やかだった。

「それ以上に、責める言葉はありません。」

「…。」

「お友達は、どのぐらい酷いの?

 療治院に連れてくることはできない?」

「…捕まっているので。」

「誰に!?」

 驚いたようにアインが言った。

「洞窟にいる人達。」ラナが答える。

「『水神教』?」

「それは、知らない…。」

 ラナが自分の顔を拭った。

「たくさんの人が苦しんでいました。」

「皆、療治院に連れてきていいのよ。」

 ラナの足が止まった。

 アインが彼女に振り返る。

「ご領主様、

 一人の友達を、たくさんの人を、助けるために…

 誰かを殺せと言われたら、どうすればいいんですか。」

「そう言われたのですか。」

「誰かを殺すなんてできない。

 友達も、大勢の人も助けたい…」

 ラナの言葉が雨に飲み込まれそうになっている。

「…。」

 答えができない。

「療治院の灯りが見えるわ。

 まず、薬を手に入れましょう。」

 アインが少し微笑んで、歩き出した。

 裏道の最後の石段を上がると湖沼群が見下ろせる高台に出た。

 雨降りの夜だというのに湖沼群は虹色の水面を見せている。

「珍しいわ、雨だといつもは暗くてよく見えないのよ。

 マチュアのチェロも鳴っていないというのに…」

 ラナも湖沼群を見下ろした。水面がざわついている気がする。

『セイレンの娘、何をしているの?』

『アインは、私たちの味方なのよ。』

『傷つけないで!』

 たくさんの声がラナを責めていた。

「うるさい!」

 思わず声が出た。

「ラナ、

 着いたわ。」

 アインは療治院の小屋根の下で、スカートの裾を絞った。

 水が床に落ちる。

「随分、濡れたこと。」

 ラナが再び、アインに切っ先を向けた。

「薬を!」

 アインが頷いて、療治院の奥の部屋に入った。

「アイン!」

 妻の姿に驚いたマチュアが椅子から立ち上がった。


 ◇◇◇


「なんでまた、あの小娘が領主に剣を向ける?」

「人斬りなんざ、できんだろ。

 まだ、教えてもない!」

 雨の中、馬を全力で駆けさせながらグレンは口の中で文句を言った。

 鞍に差し込んだ槍が道の先を照らす。

 並走して、ジェイドが暗騎で走っている。

「アイン殿が時間を稼いでくれてると思うけど、急がないと!」

「領主に護衛をつけてないのか!」

「彼女は、マリー並みに強いんだよ。」

「見かけに、よらんということか!」

 グレンが笑った。

「療治院だ!」

 門の前で馬の足を緩め、二人が飛び降りた。


 ◇◇◇


 マチュアは、アインとラナに乾いた布を差し出した。

 アインは、それで濡れた顔と髪を拭った。

 ラナは受け取らず、布は床に落ちた。

 アインに向けられた剣はそのままだ。

「馬車も使わなかったのかい?」

「歩いてきたの。」

「冷えただろう。

 火を起こすよ。」

 マチュアが火桶のそばに歩み寄った。

「動かないで!」

「ラナ嬢?」

「薬を下さい。

 たくさん!」

「薬?」マチュアが不思議そうな顔をした。

「流行り病の薬です、マチュア。」

「あ、」

 マチュアが困惑した。

「あなた?」

「それは、薬というより、『浄化した水』のことなんだよ。」

「『浄化した水』…」

 ラナが呟く。

「療治院の水瓶にそれを足して使ってみている。

 他の病気にも効くんだよ。」

「まあ。」

「ラナ嬢、剣を下ろしてもらえないかな。」

 マチュアの口調は穏やかだった。

「危ないよ。」

 ラナは動かない。

「君の言う『薬』を用意しよう。」

 マチュアが微笑んだがすぐに真顔に変わる。

 彼は妻に頷いた。

 アインは素早く身体を横に向けると剣を握るラナの手首に手刀を入れた。

「いっ!」

 ラナが顔を歪めて、剣を落とした。

 その剣をアインは部屋の隅に蹴りだした。

 アインがラナの手を逆手に締めた。

「アイン! やりすぎだ!」

「あ、

 ごめんなさい。」

 思わず、アインが手を放す。

 ラナが床に膝をついた。

「大丈夫かい?」

 マチュアがラナに駆け寄る。

 痛めた手首をみた。

「殺せ、と言われました。

 領主を殺して、薬を手に入れろと。」

「ラナ嬢…」

「そんなことできません…」

 ラナの身体が震えた。

「私は、どうしたらいいのでしょうか。」

 ラナがうな垂れた。

「人質をとられているようなの。

『水神教』の者たちだと思うわ。」

「ラナ嬢を巻き込んで何のつもりなんだろう。」

「困ったわ。」

「そろそろ、『お知らせ』が必要かな。」

 マチュアが続けた。

「『右翼』『左翼』『王立』と揃ったしね。」

「マチュア様?」

 ラナが顔を上げた。

「お知らせ?」

「何でもないよ。」

 マチュアが微笑んだ。

「痛むかな。」

 マチュアがまた手首を見た。

 アインも心配そうにラナの手首をなでた。

「痛かったでしょう。ごめんなさいね。」

 ラナが首を振る。

「アイン様にご無礼をいたしました。

 申し訳ありません。」

「お友達はどうするの?」

 ラナは答えなかった。

「お薬はいただけますか。」

 マチュアが立ち上がった。

「とってくるよ。」

 マチュアが奥へと入っていった。

 アインの手がラナの肩に添えられた。

 ラナの震えを感じる。

 奥の部屋で何かが割れる音がした。

「!?」

 ラナが先に奥に向かう。

「マチュア!」

 アインが夫の名を呼びながら後に続く。

 ラナは次の間で黒装束の男に襲われているマチュアを見た。

「マチュア様!」

 ラナは、机の上の本や椀を黒装束に投げつけた。

 黒装束は簡単にそれをよける。

「チッ!」

 ラナは舌打ちをする。

 とにかくマチュアを庇うように間に入った。

「こんな程度で手を止めるな。

 役立たずの小娘。」

 声はアンバー・エイリークのものだ。

 アンバーの手にはラナのストータの剣が握られている。

 アンバーの振り下ろした剣先がマチュアの上着を裂く。

「マチュア様!」

 ラナがアンバーに飛びついた。

 剣を取り戻さないと!

 男の手にしがみつき剣を取り戻そうとした。

「マチュア!」

 アインの声にラナが振り返る。

「来ちゃだめ!」

 ラナの手が剣の柄を掴んだ。

 取り戻せると思った瞬間、その手をアンバーが上から握った。

 手の自由が奪われる。

 アンバーは、ラナの剣をマチュアに突き出した。

 ラナの手に鈍い重みがかかった。

(何の感触!?)

 腹部にラナの剣を突き立てたマチュアが呻きながら倒れた。

「マチュア!」

 アインが悲鳴を上げる。

 マチュアに駆け寄り傷口の周りを手で押さえた。

 滲む血で両手が真っ赤になる。

 目の前に倒れたマチュアにラナが呆然とした。

 ラナの手にマチュアの赤い血がついている。

「君が彼を刺したんだよ。

 君が彼を殺した!」

 アンバーがラナの耳元に吹き込んだ。

 ラナが蒼白になる。まるで透きとおるように。

 アンバーが声をあげて笑う。

「『セイレンの娘』がチェロ弾きを殺したぞ。

 泡の者ども暴れ出すといい!」

 そのアンバーに半月の穂先が振り下ろされた。

 アンバーは簡単によけたが、その先はラナの脇をかすった。

『みかわ糸』の服が裂かれ、滲む血のかわりに水でぬれた。

 脇腹に痛みが走って、膝をついた。

「ラナ、悪りぃ!」

 グレンが謝りながら、またアンバーに切りかかった。

 その間を通り過ぎ、ジェイドはマチュアに駆け寄った。

「マチュア! マチュア!」

 取り乱したアインが何度も夫の名前を叫ぶ。

 ジェイドは手近の布を何枚もマチュアの傷口に押し当てた。

 マチュアの意識がない。

 首筋に手を当てる。まだ脈は触れている。

 グレンはアンバーを部屋の隅に追いやったが、槍が動かなくなった。

「『シーラ』、止まるな!」

 グレンは槍を叱ったが、槍は動こうとしなかった。

 膝をついたラナから青い血が滲み始めていた。

 槍はそちらに気をとられたようだ。

「なんだ、その槍も『水魔』か。」

 アンバーが鼻で笑った。

「たいしたことないな。」

「何を!」

 グレンが槍を手放すと大剣を抜いた。

 アンバーも自分の剣を抜いていた。

 彼は空いた方の手でラナの背中を掴んだ。

「小娘を離せ!」

「これはまだいるのでね。」

 アンバーはラナを抱えると、廊下に出た。

 グレンの剣と打ち合いになる。

 ラナを抱えている分、動きが悪くなるが、グレンをかわしながら、アンバーは療治院の建物を出た。

 土砂降りの雨の中、足場が悪い。

 グレンも滑りそうなる。

 アンバーはニヤリと笑うと、ラナを抱えて高く飛び上がった。


 ◇◇◇


「金貨三百枚!

 金貨三枚ぽっちじゃ割が合わないわ!」

 領都の掲示板に、賞金首の掲示がある。

 特徴は水色の髪、瞳。

 人相書きの姿はラナのものだ。

 罪状は領主暗殺未遂。

 娘は、自分の手の中の金貨を見た。

『ラナを連れてくれば金貨三枚。』

 賞金首を告発すれば、金貨三百枚。

 百倍の差だ。

「情報だけでも十枚、もらえるのにね。」

「稼がせてもらわないと割が合わないわ。」

 サラは口をとがらせて賞金首の掲示を見上げていた。


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