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第13話 湖沼領

 望月の『合の月』が過ぎて、二つ月は別れた姿で空にあった。

 イゼーロの領主館から望む湖沼群は、百とも二百ともそれ以上ともいわれる数で点在し、一つ一つの水面は風で小さな波を立て、そこにあたる自然の光が昼夜とも色彩を放っている。

 二つ月の明かりの下、館の庭では、小さなランタンを足元に置いたイゼーロ・マチュアがチェロを奏でていた。

 低い音の静かな優しい旋律が湖沼群の表面に拡がり、音に響くように水面が彩を変えていく。

 美しい光景だと言われている。

 マチュアは、三十半ばの男で、茶色の短い髪にまあるい顔をして、正直、凡庸な容姿だった。

 背は低く、足は短い。

 チェロを弾く姿は、カエルが膝を拡げているようにしか見えない。

 チェロという楽器もヴィーデルフェン王国の古道具屋で見つけたものだ。

 ヴィーデルフェン国では時折、『流生』という現象が起こり、そこに異界の物が流れ込んで来るといわれる。

 物であったり、人であったりするという。

 チェロというのもそのように流れ込んできたものらしい。

 マチュアは『伯爵』を名乗る家に生まれたが、跡取りでもなく、生活のために騎士団に入った。

 が、剣の腕が立つわけでもなく、いつも後方の兵站部あたりの仕事をしていた。

 所属は『左翼』だったが、仕事の中身は調達業務を兼ねた偵察のようなものだった。

 凡庸すぎる容姿では、誰も偵察任務をしているとは思われない。

 偵察と言っても彼には物見遊山的なもので、ヴィーデルフェン王国へもそのために出かけていたが、店先で見つけたチェロに心惹かれて手に入れてしまったのだった。

 扱い方もわからなかったが、たまたまチェロの教本を見つけ、独学で演奏できるようになっていた。

 趣味として鳴らしていた音が、いつしか団を和ませる音に変わっていった。

 苦しい戦闘が一段落すると団員はマチュアのチェロをねだり、皆、その音色を枕に安息を得るのだった。

 いつしか『安息のチェロ』と呼ばれるようになっていた。

『リュート大平原』の大戦の後、除団し、王国各地でチェロを弾き、悲しみを悼んでいた。

 いつしか『鎮魂のチェロ』と便りにされ、請われては演奏の旅を続けていた。

 イゼーロに来たのも領主に請われてのことだった。

 領主イゼーロ・アインは、前領主イゼーロ・ギースの妹であり、心臓に病を持っていた兄に代わり、領地経営を担っていた。

 兄イゼーロ・ギースが亡くなったのは、二年前になる。

 兄は一子を残していたが、その赤子が生まれると同時に赤子の母も亡くなってしまった。

 イゼーロ・アインは、領地と赤子を抱え、途方にくれた。

 そのころの王国は、国王派と王太子派に分かれ、にらみ合いを続けていて、イゼーロごときの問題に手を貸す余裕は双方ともなかった。

 イゼーロ・アインは、赤子と楽になることを考え始めていた。

 そして、最後に兄達の鎮魂のために『鎮魂のチェロ』を領地に招いたのだった。

 現われたチェロ弾きは、背の低い凡庸すぎる容姿で、持っていたチェロの方がはるかに整った容姿だった。

 マチュアが最後の音を引き終わるとイゼーロ・アインは自分の涙を拭った。

「今日は、あまりうまく弾けなかったよ。」

 マチュアが少し残念そうにいった。

 イゼーロ・アインは、膝の上のハルを抱き直した。

ハルは兄の遺児で、今年三歳になる男子だ。

「ハルが眠ってしまいましたわ。」

「じゃあ、今日はもう仕舞いにしよう。」

 マチュアがチェロを片付け始めた。

「今夜も、湖沼群が綺麗です。

 貴方の音に喜んでいるみたい。」

 イゼーロ・アインが景色を見渡して笑みを浮かべた。

 マチュアはそういう妻を優しく見つめた。

 二年前、彼の演奏が終わると同時に、イゼーロ・アインはハルを抱いて湖に入っていった。

 マチュアが気づかずにいたら二人は沈んだままだったと思う。

 今、思い出しても、とても怖い。

 助け出せたのはとても嬉しかった。

 それまでは、死せる仲間を葬ることしかできなったから。

 そのまま二人のそばにいたら、イゼーロに落ち着いてしまった。

 彼を頼みにしていたアインの求婚を何度も断ったが、ハルが彼を『とうさま』と呼んだところで根負けした。

 彼は領主としての地位を断り、領地経営にかかわる一切を負わないとし、アインと結婚した。

 それからは、毎日、妻と子と湖沼のためにチェロを弾いている。


 ◇◇◇


「おや、湖面が静かになった。

 マチュアのチェロが終わったのかな。」

 宿屋の二階の窓から外を眺めていたマリーが呟いた。

「マリー様?」

 ラナがマリーに声をかけた。

「何か?」

「ん?

 ああ、静かになったな。」

「ええ。

 不思議ですね。

 さっきまで、湖沼のささやきが聞こえていたのに。」

「湖沼のささやき?」

「えっと、そんな風な感じがしたんです。」

「ラナ嬢は、ダーナ河と話ができるって聞いたぞ。

 河だけでなく、湖沼も?」

 ラナが困った顔をした。

「いえ、別に話ができるわけじゃなくて…。

 感じるというか。

 喜んでいるとか、嫌だとか、そんな感じがわかるっていうか…。

 この水筒が教えてくれるんです。」

 ラナが自分の水筒を撫でた。

 水筒には古い模様が描かれている。

 マリーは、前にそれをどこかで見たような気がしていた。

「ふーん。」

 マリーが微笑んだ。

「それより、マリー様、一緒に来ちゃっていいんですか?

『右翼』の皆さん、困っているんじゃ…」

「問題ない。

 副団長補佐のウォードに任せてきたから。」

 ロシュとラナに付いてマリーもイゼーロにやってきていた。

 本人曰く、「休暇」だというが…。

 マリーは騎士の旅装ではなく、普通の女の旅人姿だ。

 引きずるような長い丈のスカートに手こずっているのはラナと同じだ。

「部屋着以外で、こんな格好は久しぶりだ。

 動きづらくて困るな。」

 スカートのすそを気にしながら、マリーが立ち上がった。

 窓を閉める。

「そろそろ、ロシュが戻るかな。」

 部屋の扉が叩かれた。

「入ります。」

 男が入ってきた。

 声はロシュだが、見た目が違う。

 髪を黒くしている。

 顔の火傷痕も何かで塗りつぶしているように消されている。

 毛織りの黒っぽい長いローブを着て、袖先で手を組んでいる。

 俯いていると、どこかの巡礼者のようだ。

 驚いているラナに彼は微笑んだ。

「似合ってない?」

「え、えっと、感じが違うので。」

「彼の真似して黒くしてみたんだけど。

 似合ってない?

 マリー、どう?」

「なかなかに男前だがね。

 ギルには負ける。」

「えー!」

「だって、ラナ嬢がときめいてないよ。」

 マリーが笑った。

「面白くないなぁ。

 ラナ嬢、ときめかない?」

 ラナが少し迷っていった。

「ごめんなさい…」

「…いいですよ。

 あなた方にときめいてもらえなくても。

 でも、これでどうです?」

「…そうだな、殺気は消した方がいい。」

 ロシュが苦笑いした。

「気を付けます。」

 ラナは暖炉の湯沸かしからポットに湯を注ぎ、二人にお茶を入れた。

「温かいねぇ。」

 部屋のテーブルにつきながら、ロシュが嬉しそうにいう。

 冬の始まりのイゼーロの夜は冷たさもやってくる。

「ラナ嬢の分は?」

 マリーがいった。

「私は熱いの苦手だから。」

「彼女は、猫舌なんですよ。」

 ロシュが助けてくれる。

「で、マリーは明日、領主殿の所へ?」

「ラナ嬢を紹介しに行ってくる。

 アインとも久しぶりだしな。」

「ご領主様とお知り合いですか?」

 ラナがマリーに顔を向ける。

「双方の親が友人でね。歳もそう変わらないから、私たちも昔からの友人なんだ。

 彼女の婚姻の裁可を届けに来たから、二年ぶりか。」

「相手、チェロ弾きの人でしたっけ。」

 ロシュの言葉に毒が入っている。

「今更、見合いを断られたことに腹を立てるな。

 縁がなかったんだ。」

「お見合いのお相手?」

 ラナがロシュを見る。

「ロシュの…

 何回目だったっけ?」

「十一回目。」

「釣書きだけで断られたんだったな。」

 マリーがくすくす笑い、ロシュが渋い顔をした。

 ラナもマリーにつられて笑顔になる。

「傭兵が集められています。

 イゼーロは私兵がいませんから。

 王国騎士団は入れたくないのでしょうね。」

 ロシュがマリーに言う。

「マチュアはわかっているからな。」

「チェロ弾きが?」

「彼は『左翼』の索敵だった。」

「え?」

「昔の話だ。マチュアが嫌がる。」

 マリーがカップに両手を添える。

 ラナが話についていけなくて黙ってしまった。

「傭兵と言っても親方がいるだろう?」

「中心になっているのは、『魔槍のグレン』とその部下たちです。」

「元『左翼』か…」

 マリーが大きく息を吐いた。

「『魔槍のグレン』は平民の出だが、『左翼』の将軍まで務めた男だ。

 除団しているが、昔の部下や今でも慕う連中がやってきて、ちょっとした傭兵集団を率いていると聞いた。

 ここに来ていたか。

 呼んだのは…マチュアだな。」

「でも傭兵って、何をするんです?

 陛下は、戦さをしませんよ。」

「グレンの槍は、魔槍でな。

 おおかたは魔物退治だ。

 民に請われれば、魔物を退治する。

 村同士の小競り合いに顔をだして、仲裁料を稼ぐ。

 盗賊まがいのこと以外は、そこそこやっているんだろうな。」

 マリーが笑い、ロシュが首をすぼめた。

「魔槍って…?」

 ラナがそっと口を開いた。

「奴のは背丈の二倍はあろうかという槍でな、穂先には魔力が封じられている。

 一突きすれば、魔物を倒せる威力がある。」

「公爵様以外にも、魔物を退治する人がいるんですね…」

「アレは特別だが、一般的に、イノシシや熊を追い払う程度の魔物退治はあるし、請け負うのは力自慢の連中だ。

 力技で魔物を叩きつぶす。

 そういえば、グレンには水魔を倒せる能力があったな。

 水魔の心臓をついて四散させると聞いた。

 ラナ嬢の倒し方と同じだな。」

「…。」

「じゃ、俺は行きます。

 お二方とも、お気をつけて。」

「うむ。

 ロシュも。」

 ロシュはマリーの言葉にうなずくとラナに笑いかけた。

 ラナも笑顔を返す。

 ロシュはそっと部屋を出て行った。


 ◇◇◇


 結局、マリーは婦人服を騎士の旅装に替えてしまった。

 動きづらくてかなわないとの理由で。

 さすがに『右翼』とわかるような恰好ではなかったが。

 ラナもいつもの薄青のドレスに水筒を担いでいる。

 水色の髪をスカーフで包み、髪色が目立たないようにしている。

 二人が通されたのは、ガラスで覆われた領主館の温室だった。

 イゼーロ・マチュアは、妻の客人のため、ゆっくりと茶葉を開かせた紅茶をふるまった。

 マリーはおいしそうに口にし、ラナはおそるおそるカップに口をつけた。

 熱いが、自分が溶けることはないようだ。

 表面に息を吹きかけ、早く冷まそうとする。

 その姿を見て、マリーは笑い、マチュアは申し訳ない表情をした。

「ラナ嬢は、本当に猫舌なのだな。」

「すみません…」

ラナが小さくなる。

「じき、アインが参りますので。」

 ラナは、小さな手が膝に触れたのに気付いた。

 小さな男の子がラナを見上げている。

 大きな緑の瞳。

 ラナが笑いかける。

「こんにちは。」

 それに気づいたマチュアがあわてて、ハルを抱き上げた。

「すみません、子供が。」

「いえ、」

 ラナが微笑う。晴れた空のような明るい笑顔だ。

「マリー!」

 温室の扉が大きな音を立てて開かれた。

 イゼーロ・アインは、黒に近い深い緑の髪を揺らして、旧友のもとに駆け寄った。

 彼女より少しばかり背の高いマリーの首に抱き着く。

「アイン、元気そうだね。」

 マリーは、アインの手を首から離しながら言った。

「マチュアが驚いている。」

「ああ、ごめんなさい。嬉しくて。」

 マチュアがハルを抱いて立ち上がった。

「私達は席を外すよ、アイン。

 ハルと散歩の約束をしているから。」

「わかりました、マチュア。」

「あ、あの!」

 ラナが立ち上がる。

「私もご一緒してよろしいですか!」

 マチュアが少し驚いたが、笑顔で頷いた。

「マリー様、すみません。

 行ってきます。」

 ラナが水筒を肩にかけるとマチュアたちの後を追って温室を出て行った。

 二人だけになってマリーは、紅茶を一口、飲んだ。

「マチュア殿は、聡いな。

 さりげなく席を外してくれる。」

「はい、いつも助けられています。」

「それを領主として発揮されればいいのにな。」

「嫌なのだとおっしゃいました。

 そんなことをお願いしたら、わたし、離縁されてしまいます!」

 アインが真顔で訴える。

 マリーが笑う。

「イゼーロにおいでになったのは、『水神教』の話ですか。」

「『水神教』というのか。

 ロシュが陛下のお使いで調べに来ている。」

「はい。

 マチュアが気にしておりました。

『水神教』はダーナ・アビス様を祭っているものではないのです。

 水を汚すものは悪だとか、水を祭るために金品を出せとか、巷ではよくない話ばかりです。

 この領主館にも寄付をねだってきました。」

「どうした?」

「もちろん、陛下の許しが無ければできないと追い払いました。」

 アインが溜息をついた。

「それから、水魔が出るようになったのです。」

「…。」

「対岸のダーナクレア領で水魔が出ることは知っておりましたが、こちら側ではいままでなかったので。」

「故意?」

「わかりません。

『水神教』を認めなかったから罰を受けているのだと領都に張り紙をされました。」

「それで傭兵を?」

「傭兵は、水魔退治のためです。

 王国騎士団も、今は水魔退治ができるところはありません。」

「陛下は、その『水神教』が面白くないらしい。

 その上、傭兵はな。」

「まずかったですか。」

「先に王国騎士団に声をかけるほうがよかったな。」

 アインが溜息をついた。

「どうにも、王都を信頼できなくて。」

「わからないでもないが。」

 マリーが微笑んだ。

「でも、陛下も気にしているんだよ。

 今回、ロシュの他にも水魔退治の者をこちらによこした。」

「え?」

「さっき私と一緒にいたラナ嬢だ。」

「…あのお嬢さん?」

「水魔を一刀のもとに切り捨てる方だ。

 私も目の前で見せてもらった。」

 アインが困った顔をした。

「傭兵、どうしましょう。」

「困ることはないだろう?

 他の地方では、彼らを雇って魔物退治をさせているじゃないか。

 どうせ、マチュア殿のことだ。

 領都の商工なんとかってとこの名で雇っているのだろ?」

 アインが頷いた。

「元『左翼』の『魔槍のグレン』と聞いた。

 大物だな。」

「マチュアの知り合いなんだそうです。」

「かのラナ嬢もなかなかの大物だよ。」

「?」

「あの『公爵』の『お手付き』、と噂されている。」

「え、ギルバート様の!?」

 マリーが笑った。

「どちらも遅く手でな。

 手も握ったことがないくせに彼女は『公爵』の『お手付き』だそうだ。」

「まあ。」

 二人がくすくす笑った。


 ◇◇◇


 ハルはラナの手をぎゅっと握っていた。

 ラナも小さな手を握り返す。

 先を行く二人をマチュアが微笑んで見守っている。

 マチュアはラナの肩の水筒に何か見覚えがある気がしていた。

 領主館の庭から見える湖沼は、ひとつひとつは小さいが数は多い。

 百の単位で数えられる。

 湖沼の表面がさわさわしている。

 ラナ達が湖沼に近づくとそれが大きくなった。

 マチュアが不思議そうに湖面をみる。

 強い風もないのに、こんなに湖面が波立つことはない。

『セイレンの子だわ。』

『セイレンの子よ。』

『セイレンの子!』

『セイレンの子ね。』

 さわさわした湖面がラナに呼びかけてきた。

 たくさんの声がする。

(セイレンって…)

 ラナが足を止めて湖沼に顔を向けた。

 湖面が色とりどりに輝いている。

 喜びの色、と感じる。

「え、どうして…」ラナが慌てる。

 肩の水筒に手を触れる。

 水筒が微かに震えている。

「珍しいです。」

 マチュアも湖面を見ている。

「こんなに湖面が輝いているのは。」

「えっと…」

「この湖沼は、ひとつひとつに『心』があるといわれています。

 それを水魔だといわれるとかたなしですが。」

 マチュアが続ける。

「ダーナクレアでは、水魔が出るそうですが、イゼーロのは水魔ではなく、精霊のようなものだといわれています。

 人間が彼女らを傷つけなければ、悪いことはおこりません。」

『姿がみたいわ。』

『セイレンの子。』

『セイレンの子、どんな子?』

『見たい!見たい!』

 湖面が波打ち始める。

 表面が盛り上がってきた。

「あ、だめ。出てきちゃ…」

 ラナがハルの手を離した。

 一人で、湖面に向かう。

「ラナ様!」

 マチュアがハルの手を引いて、ラナを呼んだ。

「だめ、出てこないで!」

 ラナが湖面に自分の姿を映した。

 湖面が鏡のようにラナを映す。

 その姿が、次々に湖面に浮かぶ。

 たくさんのラナの姿が湖面に浮かんだ。

「これは…」

 マチュアにも言葉がない。

『セイレンの子!』

『セイレンの子!』

『セイレンの子!』

 波紋のように湖沼に拡がった。

「出てこないで… お願い…」

 ラナは湖面に向かって言った。

『セイレンの子…』湖面が答える。

「出てきたら、水魔に間違われる…」

 湖面が少しずつ静かになり始めた。

 マチュアが心配そうにラナのそばに寄った。

 ハルが彼女の指先を握った。

「げんき?」

 ハルがラナを見上げていた。

「あ、うん、大丈夫よ。」

 ラナは、少し固い微笑みを見せた。

「ラナ様、大丈夫ですか。

 顔色がよくない。」

「い、いえ、大丈夫です。」

「王都から来られると、こちらは寒いでしょう。

 中に戻りましょうか。」

「ご心配かけてすみません。

 私は…、

 ダーナクレアの出なんです。

 この時期の寒いのは慣れています。」

「ダーナクレア!」

 ラナが頷いた。

「洪水ばかりで、落ち着かないところです。

 同じダーナの河岸なのに穏やかなイゼーロがうらやましいです。」

「そう穏やかでもありませんよ。

 さっきも湖面が乱れて、少し心配しました。」

「あ、マチュア様は、わかるんですか!」

「え?」

「湖沼の声です!」

 マチュアが困った顔をした。

「それは… さすがにわかりかねます。」

 ラナが肩を落とした。

「そう… ですよね。」

「ラナ様は、湖沼の声がわかるのですか?」

「…。」

「湖面が乱れたとき、ラナ様が湖沼に近づくと静かになりました。」

「…偶然だと、思います。」

 マチュアが微笑んだ。

「湖面が騒がしいと思ったときは、湖畔でチェロを弾くことにしています。」

「チェロ?」

「とうさま、チェロがじょうず。」

 ハルが笑っていった。

「毎晩、ここでチェロを弾いています。」


 ◇◇◇


 マリーが温室から出るとマチュアとハル、ラナが戻ってくるところだった。

「マリー様、」

 マチュアが頭を下げた。

 マリーが三人の所に駆け寄った。

「アインは、執務に戻ったよ。」

 マリーがそういいながらハルの頭を撫でまわした。

 ハルがちょっと嫌がってラナの背中に逃げる。

 マリーが苦笑を浮かべる。

「このころが一番かわいいのだけどな。

 うちのイリヤは七歳になって、こういうことはさせてくれんのだ。」

 マチュアが微笑む。

 ラナはマリーの言葉に目を丸くする。

「ラナ様が驚いておられますよ。」

「ん? 何か変なことを言ったか?」

「イリヤ様って?」ラナが訊ねる。

「私の息子だ。」

「!」

「ご結婚されて? え? ジェイド様が許婚って? え!」

「落ち着け、ラナ嬢。

 私は婚姻せずにイリヤを産んだ。

 父親はジェイドではない。

 浮気をしたといったろう。

 その相手がイリヤの父だ。」

「…。」

 ラナに声がない。

「もう亡くなったがな。」

 マリーが朗らかな笑顔を見せた。

「さあ、ラナ嬢。宿へ帰るか。」

「マリー様、どうぞ当家でお泊りください。」

 慌ててマチュアが言う。

「いや、私達がいるといろいろと勘繰られる。

 本当は、ここからもそっと外に出たい。」

「マリー様、どうして?」ラナが言う。

「王国騎士団が関わっているとは見せたくない。

 私は、アインの友人だが、『右翼』の人間でもあるからな。」

「アインには、君が水魔退治の者だと伝えておいた。」

 マチュアがラナを見た。

(水魔退治?

 だから、湖面がざわついて…)

「水魔が出るのだろう、マチュア。」

 マチュアが頷いた。

「私もコネルで遭遇した。

 ラナ嬢にはその時、世話になった。」

「水魔が、…チェロの音では、押さえられなくなっています。」

 ラナがマチュアを見た。

 チェロの音で水魔を抑えるとは?

「『魔槍のグレン』を頼むということはよほどだ。」

「…『水神教』と名乗る者たちが水魔を呼び出すのです。」

「水魔は呼び出せるものなのか。」

 マリーがラナに問いかけた。

「…水魔は、誰かに仕えることはないと思います。

 水魔は自分勝手なんです。

 だから… 本当に水魔なのでしょうか。」

 ラナが答えた。

(コルトレイの水魔だって誰かに仕えていたわけじゃない…)

(私だって…)

 マリーが溜息をついた。

「で、マチュア、グレン達はどこに宿営している?」

「領都外れの森との境地です。

 訓練もかねて、魔獣の狩りをされています。

 人集めもされているようですが。

 まさか、グレン様の所に?」

「グレンを避けるためだよ。

 あの中年男は苦手だ。

 ごつすぎる。」

 マリーが眉を顰める。

 マチュアが笑う。

「小舟をお貸しします。

 この湖の対岸に渡れば、領都への街道に出ますから、辻馬車を拾ってください。」

「わかった。」

 マチュアは二人を大きな泉の縁へ案内した。



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