第12話 北へ
イゼーロの湖沼群へは、王都からダーナ河に沿ってコルトレイ領ダリスまで下り、渡し船で対岸のコルトに渡り、北上して向かう。
その行程だけで三日はかかる。
久しぶりのコルトの街は、夏が終わり、秋の収穫で賑わっていた。
バードン・コルトの死去により空席になっていた領主の席も近々、決まるらしい。
「さて、馬を調達しないとね。」
薄青のドレスのラナの隣で、ロシュが大きく伸びをした。
◇◇◇
ランバート王の今回の王命は、イゼーロ湖沼領内の不穏な動きについてだ。
アミエリウス王国を含め、この大陸では、『勇者』とともに戦った四神が信仰の対象とされている。
ラナを「下僕」と呼ぶ、大河の女神ダーナ・アビス、大地神アルス・ガイア、風霊神ウインダリア・スピア、そして、火神ファイエ・ノルト。
ダーナ・アビス以外の三神は、それぞれの国の守り神とされている。アミエリウス王国は大地神アルス・ガイア、ヴィーデルフェン王国はウインダリア・スピア、火神ファイエ・ノルトをいただくのはフィアールント国である。
ダーナ・アビスはこれらの国に水の恩恵を等分に分け与えている最上神でもある。
ギルバートの中にいる『冥主』は、神ではない。
国を守護している四神を信仰しているのは『勇者』の時代からの習わしなので問題はないが、特定の偶像の崇拝は、それぞれの王家、ひいては古の『勇者』の否定につながり、『勇者』の末裔によって束ねられている人々を瓦解してしまう。
それゆえ、ランバート王は過敏に反応する。
イゼーロ湖沼領で起きているのは、大河神ダーナ・アビスではなく、湖沼を『水神』といただき、その『水神』の使いとして『教祖』が現れた信仰集団の問題だ。
集団の中心人物『教祖』は、『アーデン』と名乗っている。
◇◇◇
「ここ…」
「今はねえ、兄貴が責任者。」
コルトレイ城の正門でラナは城を見上げた。
半年ほど前は、城の外観を見るほどの余裕もなく、ギルバートやフィイ達とともに王都に引き上げた。
今、改めて見上げると随分と大きな城だ。
ロシュは門番に通行証を見せるとすんなり中に入った。
ラナも肩の水筒を担ぎ直して小走りに後に続く。
「厩舎はこっち。」
半年前まで魔獣が巣くっていた建物は一度、焼け落ち、現在は新しい建物になっている。
厩舎とされる建物の前には、訓練用の馬場が拡がり、何頭かの騎馬が訓練されていた。
その中で1頭、どうにも人の言うことを聞かない馬が前足を高々と上げ、背中の人物を振り落とそうと躍起になっていた。
赤毛の馬だ。
背中の人間も振り落とされないように手綱を絞り、馬胴を膝で抑え込んでいる。
彼の長い赤髪が宙に跳ねる。
「ジェイドでも苦労する馬がいるんだ。」
ロシュが柵に腰掛けると笑って兄を見た。
「こいつが特別なだけだ。」
手綱を引きながらジェイドが弟に答える。
赤毛の馬は、前足を上げるだけでなく、柵を飛び越えにかかると、さすがのジェイドも手綱を目いっぱい絞り、馬から飛び降りた。
赤馬は柵を越えなかったが、首を大きく振り、ジェイドから手綱を奪った。
自由になった赤馬は馬場の中をぐるぐると駆けていった。
「全く! とんだじゃじゃ馬だ!」
「昔からそういうの好きだよね。」
ロシュが笑いながら言うと、フッとジェイドも笑う。
ジェイドはラナを見ると、柵を飛び越えてきた。
肩に緑のラインがあしらわれた王立騎士団のチュニックの上着を直す。
「貴女が、ラナ嬢?」
「は、はい。」
ジェイドは、薄青のドレスに水筒を肩にかけた水色の髪の少女を見下ろした。
彼はギルバートよりも少し背が高い。
長い赤髪の先を革ひもで結んでいる。
「半年前は、ほとんど話も出来ず、でしたね。」
ジェイドは、頭を下げるとラナに片膝をついた。
騎士が貴婦人にする挨拶だ。
「『公爵夫人』に失礼をいたしました。」
「は?」ラナが目を丸くした。
「ジェイド、まだ、『公爵夫人』じゃないよ。」
ロシュが笑いながら続けた。
「『公爵』がそれに気づいてないから。」
「なんだ、あの仲の良さは『お手付き』だと思っていたぞ。」
ジェイドが笑いながら立ち上がった。
呆気に取られてラナが柵から下りてきたロシュを見る。
「彼は兄のジェイド。
王立騎士団の副団長補佐。」
「『補佐』はこの間とれて『第三副団長』、今は『コルトレイ臨時行政官』兼務だ。
ようこそ、ラナ嬢。」
「は、はい。えっと…初めまして。」
「初めてではないけどね。」
呟きながらジェイドが微笑った。ロシュに似ている。
「で、入り用なものは?」
弟に尋ねる。
「馬と路銀を少々。」
にこやかに弟がねだった。
「彼女、馬は?」
「ラナ、馬に乗れる?」
「…乗ったこと、ない、です。」小声になる。
兄と弟が顔を見合わせる。
「…人慣れしたのを用意しよう。
だが少しは、騎乗訓練がいる。」
「馬、見ていてもかまいませんか?」
「ああ。」
ジェイドが答える。
ラナが柵に近寄った。柵に手を置いて馬場の中を見渡す。
ダーナクレアの父も兄も騎乗が出来たが、ラナが馬に乗ることは許していなかった。
そのころは、馬に乗る二人がとてもうらやましかったのだ。
「イゼーロは、馬車じゃ小回りきかない土地だから。
彼女にもね、いるでしょ。
良さそうなのを頼みます、兄さん。」
「お前はどうする?」
「兄さんの『暗騎』借りられればいいんだけどな。」
「全く…」
ジェイドが腕を組んだ。
「しばらくは、奴を駆ることもないからな。
ケガをさせるなよ。」
「了解!」
「で、彼女の…」
ジェイドが柵のラナを見た。
ラナの前に、暴れ馬の赤馬が立っていた。
前足を上げるでもなく、鼻づらをラナに向けている。
頭を垂れ、目線をラナの頭の高さまで落としている。
「何で…」ジェイドが声を失う。
ラナが恐る恐る赤馬の鼻づらを撫でた。
そして、微笑む。
赤馬はされるがままにラナに従っている。
「懐いていますよ…」ロシュがいう。
「兄さん、嫌われていました?」
「誰にも懐かん馬だ。」
「…さすが、ダーナの姫君。」
「えっ」とジェイドが弟を見た。
「彼女、ダーナ・アビス様の姫ですよ。
ダーナ様の恨みを晴らすために遣わされたそうです。
この国で、唯一、ランバート陛下に剣を向けるお嬢様ですよ。」
「…陛下に三度、剣を向けたという噂は本当?」
「ええ、三度とも、ギルバート様が阻止しました。」
「『お手付き』にするのも大変なお相手だな。」
「どうも、彼でも難しいようですよ。」意味深に弟が言う。
ラナが二人に振り返って訊ねた。
「この赤い馬に乗れますか?」
ジェイドに苦笑が浮かんだ。
◇◇◇
夜も更け、コルトの下町では、陽気な音楽が鳴り響き、うるさいぐらいの酒場でロシュはジェイドのジョッキに樽の麦酒を注いだ。
「そんなに飲ませて大丈夫?」
ラナがロシュの袖を引っ張って耳元で言った。
「大丈夫だよ。」ロシュが笑う。
「この前みたいなの、勘弁してほしいもの。」
「何?」ジョッキを空にしてジェイドがロシュに訊いた。
「この前、ギルバート様を酔いつぶしたもんで。
ラナ嬢にも迷惑かけちゃってね。」
「ギルが酔いつぶれ?」
「珍しいですよね。」
ロシュがジェイドのジョッキに注ぎ足した。
「そりゃ、日が悪い。」
ロシュとラナが顔を見合わせる。
「一年のうち、冬の始まる『風の月』の頭がギルバートにとって一番つらい時期なんだよ。」
ジェイドの目が少し遠くを見た。
「でも、この時期、王都にいたって珍しいな。たいてい、リュート大平原辺りで黄昏ているんだが。」
「公爵様のこと、よくご存じなんですか?」
「ん? ギルのこと?
騎士見習の同期でね。ロシュは一つ半後輩。」
フフとジェイドが笑う。
「気になるの? 彼のこと、興味深々?
いい男なのは確かだ。
もっとも私ほどじゃない。」
ジェイドが微笑む。
「あの方に…酷い目にばかり合わされるので、ちょっと弱みを握りたいだけです。」
横でロシュも笑いをかみ殺している。
「お似合いでしょ。」
「悪くはないな。」
「なんですか、二人して!」
ラナは足元の水筒が微かに揺れ始めているのに気付いた。水筒を手にする。
「どうした?」
「…水魔。」
ラナが小声で言った。
「え、」ロシュが思わず周りを見回す。
「外へ行きます。」
ラナが水筒を手に席を立つ。
「わかった。」
ロシュも後に続く。
ラナは水筒を担ぐと、酒場の外に出た。
ダーナ河の見える場所に移動したが、河面は穏やかだ。
周りに魔物の様子もない。
だが、水筒は微かに揺れ続けている。
いったいどこで?
二つ月の明かりが彼女と水筒を照らしている。
「ラナ?」
ロシュがラナに追いついた。
「水魔、出るの?」
「ここじゃないみたい。」
「水魔って?」
ジェイドもゆっくりと後を追ってきた。
「わかるのか。」
「魔物が近くにいるとこの水筒がカタカタ動くんです。
特に水魔だと中の水が音を立てるぐらい。」
ジェイドが水筒をまざまざとみる。
「水筒だろう?
大きいけど?」
ラナがダーナ河の方へ歩き始めた。
「ラナ?」
「聞いてみます。」
ラナが河岸の波が打ち寄せるそばまで、降りていく。
後を追おうとしたジェイドをロシュが止めた。
ラナの足元の河の水がもくもくとせり上がってきた。
ラナは肩の水筒を月明かりの宙へ放り投げた。
水筒が半円を描いて姿を変える。
『熔水剣』が彼女の手におさまる。
「綺麗だな…」ジェイドが呟く。
ラナは『熔水剣』の刀身を河面に向ける。
「どこから流れてきたの?」
せり上がった水の天辺に剣の先を押し付けた。
斬るのでも刺すのでもなく。
しばらくその時間が続き、せり上がった水の塊は溶けてもとの流れに戻っていった。
「何がおこった?」
ジェイドが弟に尋ねた。
「ラナ嬢、ダーナ河と話ができるらしいよ。」ロシュが答える。
ラナの手の『熔水剣』が水筒の姿に戻る。
水筒を担いで、ラナが二人のもとに戻ってきた。
ロシュが心配そうに彼女を見た。
「ダーナ河の上流、ダーナクレアの対岸がイゼーロですよね。」
「ああ。」ジェイドが答える。
「イゼーロの手前は?」
「コルン領。今は王国直轄領扱い。」
「大きい街がありますか?」
「大きいのはないな。
街道筋にコネルという街がある。
宿屋とちょっとした店屋のあるだけのところだ。
その郊外に先月から演習のために『右翼』が駐屯している。」
「人がたくさん?」
「全軍じゃないだろう。
新兵の訓練だからそう多くはないはずだ。」
「それが?」
「…洪水。」
「ラナ?」
「水が人を飲み込んだといいました。」
「!?」
「おかしいです。
ダーナ河があふれる時期じゃないし。
あふれる水は、こちらではなく、ダーナクレア側に行くはずです。」
「それにダーナ・アビスの命令じゃない…。」
ラナが暗い顔をした。
「別のものが…」
「副団長!」
王立騎士団の制服を着た騎士がジェイドの姿を見つけて走ってきた。
「早馬が着きました。」
騎士は副団長以外の人物を一見した。報告の許可を待つ。
「彼らは大丈夫だ。私の身内だから。
早馬の内容は?」
「はっ、
コルン領コネルで、『水魔』だそうです。」
「!?」
「『右翼』の第二副団長が一掃されているそうですが、洪水に巻き込まれ被害が出ました。」
「右翼第二副団長からです。」
騎士がジェイドに書簡筒を渡した。
ジェイドは中身を取り出し、一読する。
「至急、薬材と復旧の資材を送れ。
軍馬車を出して、ケガの酷いものはコルトに移送せよ。
城の部屋を開けておいてやれ。」
「はっ!」
騎士が急ぎ、立ち返る。
「城に戻る。」
ジェイドが二人に言った。
ロシュとラナが頷く。
「ラナ嬢、」
ジェイドがラナに顔を向ける。
「はい。」
「『右翼』と言っても、水魔の退治はできない。
頼めるか?」
「もちろん。
私の役目です。」
ラナが答えた。
「ロシュ、マリーに手紙を書くから、持っていけ。」
ロシュが兄に頷いた。
◇◇◇
マリー・ケリー・アナスンは、背中の長剣を引き抜くと、泉からせり上がった水魔を横に薙いだ。
水魔の胴体は二つに分かれるが、しばらくするとまた元通りになる。
泉との境を断っても一筋でもつながっていれば元に戻ってしまう。
屈強の騎士できこえる右翼騎士団でも水魔には歯が立たない。
王国騎士団の『右翼』『左翼』が相手にするのは人間であり、魔物ではない。
魔物討伐の騎士団は、国王直属の『銀翼』だったが、今はない。
マリーの亜麻色の長い三つ編みが左右上下に揺れる。ヘイゼルの瞳は水魔を捕えているが、足元は翻弄されている。
それでも急襲された夜営地から連絡を受けて駆け付けてから、ほぼ休みなしで何体かは消滅させていた。だが、それらは兜の大きさぐらいしかない小物だ。
マリーの長剣は、『右翼』には珍しく、魔力が込められた魔剣である。
対魔物では効果が高いはずだが、水魔には効いていないようだ。
その上、水魔相手で地面はぬかるんでしまい足場が悪い。
それも退治できない理由になるかもしれない。
「チッ、」思わず舌打ちしてしまう。
マリーと共に戦っている騎士達も疲労の色が濃い。
今回の訓練遠征は新入団騎士ばかりで、戦力としては心許なかった。
水魔が退いた瞬間、泉を土で埋め、水魔の出現場所を減らしてはいるのだが。
「あっ!」
マリーのそばの騎士が足をとられて転倒した。
そこに水魔が覆いかぶさる。
マリーは騎士の襟をつかんで、水魔から引き離す。
顔にまともに受けたら溺れ死んでしまう。
マリーの剣先が地面に引っかかってしまった。
滑って剣を落としてしまう。
「しまった!」
長剣に手を伸ばしたマリーの前に、水色の髪をたなびかせた娘が宙から飛び降りてきた。
手には、弓のように反った剣が握られている。
二つ月の光にキラキラと輝いていた。
「!?」
ラナは『熔水剣』を両手で握り、水魔の胴を切り裂いた。
返す刃で中に見えた黒い塊を突き刺す。塊は瞬間で弾け、水魔の体は雫となって辺りに降り注いだ。
ラナもマリーもずぶ濡れになっていた。
「君は?」マリーが問う。
「ラナ=クレアと申します。
国王陛下の命より、水魔を葬りに参りました。」
「!」
ラナが『熔水剣』を握り直し、次の泉の水魔を葬りに立ち上がった。
そのまま、点在する泉に現われる水魔を一撃で倒していく。
『熔水剣』で斬られた水魔は雫となって辺りに降り注ぎ、地面をぬかるみに変えていた。
やがて水魔のいくつかが泉に沈み、水面が静かになる。
ラナの『熔水剣』が水筒に姿を戻した。
ラナは、腰を落とし、水魔の残滓を手ですくうと水筒に入れた。
ラナの水筒が何度か光った。
「さんびゃくにじゅうはち。」
彼女が小さく唱えた。
マリー・ケリーは立ち上がると泥だらけの騎士服のチュニックの裾で自分の剣を拭った。
背中の鞘にそれをしまう。
「礼を言います、ラナ=クレア。」
「これが、私の役目なんです。」
ラナはそういうとマリー・ケリーに笑顔を見せた。
◇◇◇
「着替えが入り用だな。」
マリーがずぶ濡れのラナを見て言った。
「ついてきなさい。」
「は、はい。」
マリーは細身でラナよりも背が高い。
でも、ロシュほどもなくて、華奢な感じがする。
大股でラナの先を行く。
水筒を肩にラナが小走りで後を追う。
夜営の天幕の一つに通された。
中に入って、マリー・ケリーは、濡れた三つ編みをほどいた。
長い亜麻色の髪がふわふわに広がり、毛先が揺れると辺りに雫が飛び散った。
マリーの『右翼』を示す肩の赤い徽章も濡れている。
「水魔とは、厄介なものだな。」
マリーはそういうと、背中の剣を下ろし、騎士団のチュニックを脱いだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。
いきなり脱がないで!」
「え、なぜ?」
マリーが不思議そうに言う。
「だって!
殿方の!」
ラナが赤面しながら目をつぶった。
「なんだ、君にもそう見えるのか。」
マリーが大声で笑った。笑いながら木箱から乾いた布を取り出すとラナの頭から被せた。
「こう見えても私は女だよ。
マリー・ケリー・アナスン、名乗るのが遅くなった。」
マリーは、ずぶ濡れの騎士服を脱ぐと自分の身体をぬぐった。
ラナは布の間からマリーの背中を見た。
父や兄の背中とは違う、細い肩幅は女性のものだ。
彼女が少し横を向くと胸元の曲線が見える。
騎士服の胸当てではわからないが、たぶん大きい。ラナとは違う…。
ラナは赤くなった顔を誤魔化すようにごしごしと髪をぬぐった。
マリーは、新しい衣服を取り出し、着替え始めた。
騎士服ではなく、長衣のチュニックを頭から被る、丈は足首まである。
細い帯を胴で結んだ。
「君の着替えは…」
マリーがごそごそと箱をかき回していた。
「副団長!」
天幕の外から声がかけられた。
「コルトの『王立』から書簡です。」
幕の隙間から書簡筒が差し込まれた。
部下の手からそれを受け取る。
「それから、こちらを。」
もうひとつ、油紙の包みが差し出された。
「ラナ、着替え。」
ロシュの声だった。
「濡れるの、わかってるんだから、忘れちゃだめだ。」
ラナが苦笑を浮かべて包みを受け取る。
ここは王都ではないので、エバンズ夫人のように彼女の世話をしてくれる人はいない。
「なんだ、ロシュが来たのか。」
「ええ、マリー。
着替えが終わるまで待っています。」
天幕の向こうでロシュの影が背中を向けた。
「相変わらず、律儀な男だ。」
マリーが笑った。
ラナがふっと息を吐くと、薄青の濡れたドレスが『みかわ糸』の布に戻り、足元に落ちた。
「『みかわ糸』!?」
マリーが目を見張った。
「は、はい。
あの、公爵様に用意していただいて…。」
ラナは、『みかわ糸』布を二、三度振る。布から水滴が蒸発して、乾いてしまった。
それを肩にかけるとマリーに背中を向け、肌着を乾いたものにかえた。
再び、『みかわ糸』の布を身体に巻き付けると布はラナの薄青のドレスに変わった。
「すごいものだな、近くで見たのは初めてだ。」
「そ、そうなんですか?
皆さん、着ているんじゃ…」
「ラナ嬢、それは特別なものだよ。
普通の人では手に入らない。
たぶん、ランバート陛下ですらお持ちでないかもしれない。」
「え?」
マリーが笑った。
「だから、ギルの…。」
「あ、あの?」
「『公爵のお手付き』と噂されるわけだ。
ロシュ、入ってきて構わない!」
天幕の隙間からロシュが人懐っこい笑顔で入ってきた。
「お久しゅうございます、マリー様。」
「ラナ嬢のおかげで、随分と助かったよ。
それにしても1日で着くとは早かったな。」
「『暗騎』と『赤騎』が飛ばしました。」
「ジェイドの仕込みか。『赤騎』は新しいのだな。」
マリーはさっきの書簡を一読していた。
書状は二枚あって、二枚目を読んだ彼女はため息をついた。
「全く!」
マリーは、二枚目をロシュにつき返した。
「公文書に混ぜるなと伝えておけ。」
ロシュが文書を見て、吹き出した。
ラナもロシュの手元を覗き込む。
『 愛しのマリー
水魔に濡れて、冷え切ったら、この腕に帰っておいで。
君のジェイドより。 』
「なんか、安っぽい…」
ラナが眉を顰める。
「兄貴、文才はないんだよ。」
ロシュも苦い顔をする。
「誰にでも欠点はある。」
マリーが笑った。
「マリーもいけないんだよ。
いい加減、彼を引き取って。」
「えっと?」
ラナがキョトンとする。
「ジェイドは、マリーの許婚。」
「ロシュ、『元』だ。」
マリーが訂正する。
ラナが目を丸くする。
「浮気をしたのでな、解消した。」
「ジェイド様が?」
「私がだ。」
マリーが笑った。
「ラナ、聞き流しなさい。考える問題じゃない。」
ロシュが笑いを堪えながら言う。
「…。」ラナが混乱している。
「こんなつまらん話をしに来たわけではないだろう。
陛下の『目と耳』が。」
「ええ。
少し、火を起こしても?」
「かまわぬ。」
天幕の中央、明かりとりを兼ねた火鉢に火打石で火を起こす。
ラナが少しだけ、火鉢から離れた。
「冷えてくる季節だ。」
マリーが手をかざした。
「イゼーロの城下で、『水神』を祭る『教祖』というのがいます。
この前まで、その勢力は貧民が大半で、資金も人的規模も大したことありませんでしたが、コルン領北部の難民流入で勢力が拡大しました。」
「彼らは耕作地を持たない。
彼らの生活は、イゼーロの負担の上になっています。」
「領主が食われるか。」
「それより、『水神』を掲げて王家にたてつかれることが問題です。
彼らの困窮は、ランバート陛下のせいじゃない。
救済は神の手によってなされるわけじゃない。」
いつもの軽妙なロシュとは違う。
目が笑っていない。
「四神以外の神は認めないというのが大陸の総意です。」
ラナが不思議そうに聞いている。
「イゼーロが謀反の温床になるか…。」
マリーが顎に手を当てた。
「面倒だな。」
「はい、」
「やっと、静かになってきたのに、内戦は勘弁だ。」
「『右翼』はそれで、ここで演習を?」
「たまたまだ。
コルン領が直轄地だから、動きやすい。
領主のお伺いもいらないし。」
マリーが溜息をついた。
「まさか、水魔に遭遇するとは思わなかった。
魔獣だと対処のしようもあるが、水魔は見当がつかない。」
マリーが続ける。
「以前は、こんなに頻繁には出なかったと思うが。」
ラナの手が少し震えた。
「で、ロシュはどうするんだ?」
「イゼーロへいきますよ。」
「『教祖』の嘘、暴きます。」
ロシュが笑みを浮かべた。
「ラナ嬢は?」
「は、はい。
私もロシュ様と一緒にイゼーロに行きます。
イゼーロも水魔が出るというので、それを葬るために。
王命をいただいています。」
「大変だな。」
マリーはラナに微笑みかけた。ラナも笑みをかえしたが、少しぎごちなかった。
「さて、休むか。
ラナ嬢は私と一緒の天幕でよかろう?
ロシュも一緒にどうだ?」
「じょ、冗談でしょ!
そんなことしたら、ジェイドに殺される!」
マリーが笑った。
「俺は、『暗騎』と『赤騎』の所にいますよ。」
ロシュが立ち上がった。
「お休みなさい、マリー、ラナ。」
「お休み、ロシュ。」