第11話 冬の始まり
「じゃ、ここに置いとくよ。」
アミエリウス王国北部から届いた花の桶が店先に置かれた。
「ジェームズさん、いつもありがとう。」
ラナの朗らかな声が響く。
水色の髪をスカーフで覆い、胸当てのついた大きなエプロンを薄青の襞のたくさんあるドレスにつけている。
花屋のラナは、店先に置かれた新しい花桶の中の一輪を取り上げた。
真っ白な花だ。
白いガク片が五つ、大きく開いている。
これは花びらではないがそのように見える。
中心には細く白い花びらがぐるりと囲み、その中に花粉をつけたおしべと白のめしべがある。
少し固めで、一本咲きだ。
「これは、初めてみるお花だわ。」
「ああ、そりゃ『エゼルローゼ』だ。
冬の花で、これが咲くと北部じゃ『冬が来た』っていうんだ。
でも、この花は、北のヴェズレイ領でしか咲かないんだよ。」
「『エゼルローゼ』…」
(ヴェズレイ領… ロシュ様のところね。
そうだ、今度、お屋敷にお届けしよう。)
◇◇◇
「おや、珍しい所でお会いしますね、ギルバート様。」
声をかけてきたのは、赤毛のロシュだった。
王宮の回廊の一角だ。
ギルバートはいつもの黒の騎士服だが、今日のロシュは、騎士団のチュニックの制服に帯剣姿だ。
ロシュは、ランバート陛下の『目と耳』という役目を負っている。
四つの騎士団のどこにも属せず、王の直属だ。
彼の騎士服は、上着の左肩に銀糸で片翼の刺繡がしてある。
かつての『銀翼騎士団』のもの。
「まだ、それを着ているのか。」
「よその騎士団の制服は、着られませんからね。
登城の時だけ。」
ギルバートが渋い顔をした。
「奥宮から出てこられましたけど?」
「王妃様の呼び出しだ。」
「珍しい。」
「…。」
「なにかありました?」
「…再婚話をされた。」
「え、お相手は?」
「これから探すそうだ。
私に話を進めていいかと聞かれた。」
「なんて答えたんです?」
「お任せします、と。」
「えー!」
「声が大きい。」
「再婚、するんですか!」
「公爵家が絶えるのは困るといわれた。」
「だから?」
「そうだ。」
「ちょっと、ギルバート様、ちゃんと考えて答えないと。」
「考える?」
「彼女、どうするんです?」
「彼女?」
「もう! ラナ嬢ですよ!」
「ラナ?」
「仲良しでしょう!」
「違うと思うが?」
天を仰いだのはロシュだった。
「会ってないんですか?」
「屋敷を出ていってからは一度も会っていない。
役目も一緒のことはない。」
「…。」
「フィイも知っていることだが。
聞いてないのか。」
ロシュがうな垂れた。
(フィイも話せないわけだ。)
「てっきり、付き合っていると思っていました。
『みかわ糸』の君と。」
「いい加減にしろ。」
ギルバートが少し声を荒げた。
「彼女に触れると溶かしてしまうんだ。
つきあうも何もないだろう。」
「溶かす?」
「ランバート様に切りつけたとき、彼女の手首を掴んで止めた。
その手首が溶けてなくなった。」
ギルバートが気持ちを落ち着かせるように言った。
「そんな相手と付き合うことはない。」
「かわいくないなぁ…」
ロシュが自分の三つ編みをいじりながら、肩をすぼめた。
「ロシュは、ランバート様のところへ?」
「ええ、内々の調査報告をね。」
「どこの?」
「イゼーロ。」
「湖沼領?
何かあったのか?」
「まだ、何もありませんよ。」
「まだ、ね。」
ロシュが言葉を濁した。
イゼーロ湖沼領とは、王都から北西、ヴィーデルフェン王国と国境を接する複数の湖沼を持つ領地である。
ダーナ河の西岸でもあり向かい側はダーナクレア領である。
ダーナクレア領がたびたび洪水被害を受けるのに対して、少しばかり高台になる湖沼領にはそういう被害がない。
領主は、イゼーロ・アイン、先祖代々、イゼーロ湖沼領を治めている。『一年戦争』の際には、中立を守り、戦後はランバート王の配下となり、引き続き領主を務めている。
ランバート王の即位の後では比較的安定した領地経営を行っている所なのだが。
「イゼーロ・アイン殿の問題じゃなくてね。」
「?」
「陛下の嫌いな『偶像礼拝』の問題。」
「面倒な話だな。」
「そ。」
ロシュは、ギルバートの肩に腕を回した。
「なんだ?」
「今日はもう、何もないんでしょ?
じゃ、働き者の部下のために、飲みにつきあってくださいよ。」
ロシュがひとなつっこい笑顔を見せた。
ギルバートが溜息をつく。
「…私の財布をあてにしているのだろう。」
「話が早い!」
「…まったく。」
「下町にね、ちょっといい飲み屋があるんですよ。
そこの女の子が、なかなかにいいもんで。」
ロシュが手で示した身体つきにギルバートが渋い顔をした。
◇◇◇
花屋の二階がラナの下宿だった。
一階が花屋の店舗で、外階段を上がると住み込みの店員の下宿になる。
いまのところ住み込みの店員はラナだけなので、いくつかある部屋のうち、暮らしているのは彼女だけだ。
一間の小さな部屋だった。
奥に寝台が一つ。
窓際に小ぶりの文机、食卓と椅子が二脚。
水回りはなく、薬缶をかける鉤型の爪が下がった小さな暖炉が隅にある。
市場の傍なので昼間は騒がしいが、夜も更けて、飲み屋が店じまいするような頃には静かになる。
公爵家を出て、ここで暮らすようになって、ひと夏が終わった。
ランバート王の命によって、ダーナ河で悪さをする水魔を討伐する役目も何度か務めていた。
ラナの場合は、ほぼ一人で役目果たし、王立騎士団が事後の片づけをすることが多かった。
彼女と真逆の魔物を葬るギルバートとは、東屋で話した以降、会ってはいない。
週に一度、公爵家に切り花を納めに行っているが、彼はいつも留守だ。
窓の外を見る。
今夜はいつもの夜より少しばかり暗い。
二つ月が一つに見える珍しい『合の月』の夜だった。
食卓に置いていた小さなろうそくの明かりを落とそうとしたとき、部屋の扉を激しく叩かれた。
「ラナ! ラナ嬢! いるんでしょ! 開けて…」
最後は苦しそうなロシュの声だった。
「え? ロシュ様!」
ラナが慌てて扉を開ける。
開けると同時にロシュの赤毛が黒い塊を背負って部屋に雪崩れ込んできた。
「ロシュ様!?」
ロシュは、背中の黒い塊をラナの寝台に投げ出した。
それを見てラナは頭を振った。
水色の髪が激しく揺れた。
「重っ!」
ロシュが大きく息を吐いてしゃがみ込んだ。
寝台に投げ出されていたのは、黒い髪のギルバートだった。
小さな灯りでも彼の黒いのはとても目立つ。
うつ伏せのギルバートは眠っている。
投げ出されるようなことをされても少しも動かない。
長い黒髪が背中から脇へ落ちている。
顔が少し隠れる。
「ラナ嬢、水、もらえる?」
ロシュが情けない笑顔を浮かべた。
ラナがコップの水を差し出すとロシュが一気に飲みほした。
「あー、生き返った!」
「何のつもりです?」
ラナが怒ったように言う。
「ギルバート様とね、飲んでいたんだ。
そしたら、ギルバート様がつぶれちゃってね。」
「なぜ、私の所に!」
「飲み屋から一番近い、友達の家だったから。」
「理由になりません!
連れて帰ってください!」
「まあ、そう言わないで…」
「彼だって、酔いつぶれたいこともあるんだよ。」
「迷惑です!」
ロシュが立ち上がった。
「とりあえず、一晩、預かって。
朝にはフィイに迎えに来させるから。」
「え?」
左肩の片翼の刺繡の皺を伸ばす。
「俺も次の約束があるのでね。」
「ちょっと待ってください!」
「ね、頼んだよ!
あ、既成事実、作ってもかまわないから!」
捕まえようとしたラナの手をするりとかわし、笑顔のロシュは部屋を出て行った。
後に残されたのは、黒い塊。
「どうしろって!?」
ラナが困惑する。
「そなたのそばで、眠らせてくれれば良い。」
男の声がした。
ギルバートの声に似ている。
思わず振り返る。
うつ伏せのギルバートのそばに、彼にそっくりな男が腰掛けていた。
その手がギルバートの頭に触れる。
ラナが後ずさりして、水筒に手を伸ばした。
水筒を握る手に力を入れると『熔水剣』に変わる。
男は、小さな灯り越しにラナに優しい笑みを向けた。
「彼は、君といるとき『幸せ』を感じていたようだ。
だから、ここへ連れて来させた。」
「あなた、誰…?
どうやって入ってきたの?」
「私は、彼の中にいるものだ。」
「『冥主』と呼ばれている。ダーナの娘。」
「…。」
ラナの『熔水剣』を持つ手の力が抜けた。剣が水筒に戻る。
「私は、彼の空洞に捕まっている。
私の意志だけでは、彼から解放されない。
でも、私を抱えている彼は『人』であり続けることに『力』を使いすぎる。
消耗してしまうのだ。
彼が『人』であり続けるためには、私と離れて休む必要がある。
安全な所で。」
「だからって…」
「彼はいま、安心して眠っている。」
冥主はギルバートを見た。
「迷惑です…」
ラナの声が小さい。
「『合の月』の夜だけだ。」
冥主の表情はとても優しいものだった。
「彼は、『一生の孤独』という呪いを生まれる前に与えられてしまった。」
「彼の『孤独』に私は取り込まれ、その隙間を、そなたが埋めたのだよ。」
「私は何も…」
「『自分を好きになる勇気』を教えただろう。
その『勇気』が埋めた。」
「…どうしてそれを。」
「私は、彼の中にあって、すべてを共有しているからだ。」
「…。」
「今夜は、望月の『合の月』だ。
彼が普通の『人間』である夜だ。」
「ダーナの娘、そなたが彼に触れることを許される夜だ。」
「え?」
「火傷を負わせることはない。」
「…。」
「身体を重ねても許される。」
「じょ、冗談じゃない…」
ラナが顔を赤らめて否定する。
「まだ、早いか…」
冥主が小さく呟いて微笑んだ。
冥主の姿が揺らめくと、黒の腕輪になってギルバートのそばに落ちた。
「あ、」ラナに言葉がない。
眠っているギルバートに少し近づいた。
髪の色が違う。
ギルバートの髪が銀色になっていた。
小さな灯りに白く浮かぶ。
そっと彼を覗き込んでみる。
眠っている顔がラナの方を向いていた。
彼の唇が少し動いた。
「アデル…。」
ラナは、酷く痛みを感じた。
◇◇◇
(頭が痛い…)
ギルバートは、顔をしかめてから、ゆっくり目を開けた。
知らない部屋だ。
(どこだ?)
狭くて、何もない。
うつ伏せの状態から、仰向けに身体を動かした。
木の板の天井、それも低い。
顔にかかった髪の毛を払い、大きく息をした。
「おはようございます、公爵様!」
その声に驚いて、飛び起きた。
ラナが彼を見下ろしていた。
「なぜ、君がここにいる?」
ラナは腰に手を当てて口を尖らせた。
「あなたに言われる筋合い、無い!
ここは、私の下宿。
貴方が転がり込んできたのよ!」
「え?」
事情が理解できない。
ラナが窓を開けた。冷たい風が流れ込んで来る。
「お酒臭いし!」
ラナは、コップに水を注ぐとそれをギルバートの目の前に突き出した。
「どうぞ!」
かなり怒っている。
水色の髪が揺れている。
「すまない。」
ギルバートが受け取って一気飲みする。
少しむせて咳き込んだ。
空のコップにラナが水を足した。
「今度はゆっくり飲みなさいよ。」
一口、飲み込んだ。
「…その…、迷惑をかけたようだ。」
「ええ、私、一晩、床で寝たわ。」
ギルバートがうな垂れた。
「申し訳ない。…その、覚えていないんだ。」
もう一つ頭を下げた。
「ロシュに付き合わされて、飲まされた。
いつもはこんなことないんだが、昨日は度が過ぎたようだ。
店を出たことも覚えていない…。」
「お幸せなことで。」
「本当に申し訳ない。」
「ロシュ様が担いできたのよ。
次の用事があるから、預かってほしいって。
嫁入り前の娘の部屋に連れてくる?
信じられない!
本当、面倒くさい!」
「…。」言葉がない。
「フィイが迎えに来てくれるそうよ。」
「…。」
ラナが微笑った。
「お屋敷に戻ったら、エバンズ夫人に見つかる前に、身体を拭った方がいいわ。」
「…そうする。」
扉が三度叩かれた。
「ラナ様、フィイです。」
ラナが扉を開けた。
「おはようございます、旦那様をお迎えに上がりました。」
「おはよう、フィイ。
とっとと連れて帰って。」
フィイがギルバートを見た。
離れていても、酒の匂いで顔をしかめる。
お師匠さまだって、こんなにひどい姿を見せたことがない。
「お迎えに上がりました。
動けますか?」
「ああ。」
フィイに促されて、ギルバートが立ちあがった。
「帰る。
迷惑をかけて済まなかった。」
ギルバートの背中を見てフィイが口を開こうとした。
ラナが口元に指をあててそれを制する。
フィイがにっこり笑って頷いた。
部屋を出ようとしたギルバートにラナが声をかけた。
「公爵様、」
ギルバートが立ち止まる。
「よく、眠れましたか?」
ギルバートが微笑んだ。
「とても、ゆっくり眠れた気がする。」
◇◇◇
前日の夕刻、ラナは王城からの呼出状を受け取っていた。
(また、水魔退治?)
謁見は、今日の午後。
今日は、公爵家に切り花を届ける日だ。
(間に合うわね。)
ギルバート達を送り出してから、ラナは『みかわ糸』のドレスを身にまとい、背中に剣を備え、水筒を肩に担いだ。
(しばらく帰れない気がする…)
「行ってきます!」
無人の部屋にそういうと後ろ手に扉を閉めた。
◇◇◇
花屋の荷馬車はロバを使っているので、ゆっくりと石畳の上を進む。
冬の花が届き始めた季節、空気が冷たくなる。
街を横断して公爵邸に向かった。
週に一度、切り花を届けている。
エバンズ夫人との約束だった。
花屋も常連の上客を持てて、店も繁盛している。
上手く手を回されているのだろうが、皆がよければそれでもいいと思う。
公爵邸の勝手口に荷馬車を停めて、屋敷に入って花を活け替えるのが仕事だった。
その合間に、フィイやエバンズ夫人や皆とおしゃべりする。
客間で厄介になっていた時より、ずっと楽しい。
今日もお屋敷の花を活けかえて、最後にいつもの部屋に寄った。
主は『いつも留守』のギルバートの執務室だ。
「失礼します、花屋がお花を活けかえにまいりました。」
大きな花桶を下げてラナが部屋に入る。
主は不在だが、いつもこう声をかけている。
花瓶に向かおうとして足をとめた。
執務机にギルバートがいた。
「どうして、居るの?」
思わずラナが言う。
ギルバートが顔を上げた。
「私の屋敷だ。」
「そ、そうね。」
「げ、元気そうで。」
「今朝あったばかりだ。」
ギルバートがバツの悪そうな顔をして少し視線をそらした。
ラナが急いで、花瓶の花を抜き、新しい花と活けかえる。
「いつも、君が?」
「はい、御贔屓にしていただいています。」
「それで、最近は屋敷に花がたくさんあるのか…」
ギルバートがラナの手元を見ている。
「じろじろ見ないでください。」
「あ、いや。」
ギルバートがまた視線を外した。
ラナはふわっと広がるように花を生けた。
最後にエゼルローゼを一輪、差し込む。
「エゼルローゼか。」
「ご存じでしたか。
今年最初のものです。」
「冬になるのだな。」
「そうですね。」
椅子を引く音がした。
ギルバートが立ちあがって、花瓶のそばに歩いてきた。
黒の長衣を着ている。足首まで隠れるような部屋着だ。衣の擦れる音もする。
ギルバートがラナの隣に立った。
「エゼルローゼ…。
まだ残っているだろうか?」
「あ、はい。荷馬車の方に、少しあります。」
「では、ある分を全部。
運んでほしい所がある。」
「え? お屋敷の中なら。」
「外だ。」
「はい?」
「庭の東屋で待っていてほしい。ここを片付けたらすぐに行く。」
「はい、わかりました。」
ギルバートは机に戻り、ラナは花桶をもって部屋を出た。
荷馬車にあるエゼルローゼや残っている分を花桶に入れ、庭園の東屋に向かった。
ギルバートはまだ来ていない。
剪定の鋏の音がした。
ラナは、鋏の音をしたところをのぞいてみた。
白髪頭の老人が伸びた枝を切り落としている。
「こんにちは。」ラナが声をかけた。
老人が手をとめた。
「おや、」
「エゼルローゼだね。」
「はい。
あの、お会いするの初めてですね。
私、生花を飾らせていただいている花屋のものです。」
「ラナといいます。」
老人が微笑んだ。
「庭師のアルスだ。」
「冬じたくですか?」
「そうだね。
少し、整えて、足元に藁を敷く。」
「ここは、雪は積もらないのでしょう?」
「少しは降るのだよ。
積もらない雪は地面を濡らし、根を凍らせてしまう。」
「水が多すぎても良くない。」
「難しいんですね。」
「ラナ!」
垣根の向こう側でギルバートが彼女を呼んだ。
「はーい!
では、また。」
ラナは庭師に一礼するとギルバートのもとへ向かった。
アルスは笑みを浮かべるとまた垣根の手入れに戻った。
「どこにいた?」
「庭師の方にご挨拶してました。」
「アルス師か。」
「冬支度だそうです。」
「そんな時期か。」
「で、どちらへ?」
「この奥だ。」
ラナが花桶を持ち、ギルバートは手ぶらだ。
「か弱い娘に荷物持たせるの?」
ちょっとふくれてラナが言う。
ギルバートが眉間に皺を寄せる。
「な、何よ。」
ギルバートが花桶に手を伸ばすと、水に浸かっているエゼルローゼやほかの花が首をもたげた。
「あ、」
「そういうことだ。悪いな。」
ラナは、花桶を両手でしっかり持った。花が再び、生気を取り戻す。
ギルバートが先を歩き、手入れのされた庭園を過ぎ、その奥の森の中に入った。
少し行くと、開けた一角に出た。
そこだけ木々がなく、真っすぐ空が開けていた。
短い芝が絨毯のように広がり、その中央に平たい石が三つ並んでいる。
ギルバートはその一つにしゃがみ込むと素手で石の表面の枯れ草や汚れを拭った。
「ここに、エゼルローゼを手向けてほしい。」
「…。」
ラナは花桶からエゼルローゼを取り出した。
水を拭い、丈をそろえて藁紐で一つ結えると、石のそばに置いた。
ギルバートが優しい顔をしていた。初めてみる表情だ。
「エゼルローゼが好きだった…。」
「どなたかのお墓?」
「妻の。」
「!?」ラナに声がない。
髪を長くしているし、お屋敷でもそれらしい話は聞いたことがなかったから、てっきりギルバートは独り者だと思っていた。
「あ、あの、墓碑がありませんが。」
「…墓碑は建てられない。」
「?」
「礼をいう。
やっとエゼルローゼを供えてやれた。」
「…。」
「さっきも見ただろう。
私では花を運んでやれないんだ。」
ギルバートは、隣の二つの石もきれいに拭った。
「こちらは、フィイの兄と両親のだ。
彼らも墓地には葬れなくて。」
ラナは、花桶に残っていた花をかき集めて、二つの石の間に置いた。
「ありがとう…。」
「…墓地に葬れないって?」
「妻とフィイの兄は、心中した。
二人でダーナ河に身を投げたそうだ。
見つかった時、二人は手をつないで、手首を妻の髪飾りのリボンで結んでいた。」
ギルバートはしばらく黙った。ラナも黙って彼を待った。
「…遺体の確認をしたんだ。」
ギルバートの声は、冷静さを振り絞っていた。
ラナが唇を噛む。
「フィイの両親はその責めのために自死した。小さなフィイを残して。
フィイの家族は、妻の実家の使用人でね。
彼女がここにきて、困っていたようなので、私が頼んで来てもらった。
そのころは、王国もキナ臭くて、私は殆ど屋敷にいなかった。
気心のしれた使用人がいると心強いだろうと。
彼女のためだと思っていた。」
「二人は… 想いあっていたの?」
「わからないな。」
ギルバートが黙った。
「…なんで、結婚したの。」
「先王陛下が決められた。」
「はあ?」
「高位の貴族の結婚はそういうものなんだよ。」
「信じられない!」
「彼女は、物静かな、しとやかな女性だった。」
「…。」
「自死した人間の亡骸は、街の外に捨て置かれる。
それが嫌で、二人を連れてきてしまった。」
「ここに葬った。
フィイの両親も、外にやられる前にここに連れてきた。」
「まさか、一人で?」
「まだ、アマクのいない時だった。」
ギルバートの横顔がとても辛そうだ。
「ときどきでいいんだ。
花を手向けてくれるかな。」
「…仕事のご依頼としてなら。」
「…では、そのように頼む。」
「承りました。
でも、なぜ私にそんな話を?」
「君なら…」その先は聞こえなかった。
ラナは、花桶を持ち上げた。
「先に戻ります。」
「ああ。ありがとう。」
ギルバートは動かない。
「公爵様、
奥方様がお好きだったんですね。」
「え?」
「泣いていますよ。」
ラナはギルバートの一筋を見た。
一礼すると彼女は足早に立ち去った。
胸が痛い…、と感じながら。