26.選ばれた人物
受け取った黒革のファイルの中身を凝視したまま固まってしまったハロルドだが、目の前のローゼリアも両手でギュッとスカートを握り締めて深く俯いたまま動かなくなる。そんな状態が15秒ほど続き、その間耳が痛くなる程の静寂が室内に広がった。
すると、ハロルドがゆっくりとファイルから顔を上げる。しかし表情は先程と同じく驚いたように瞳を見開いたままだ。そんなハロルドの視線から逃れるように、更に深く俯く事をローゼリアは貫く。
そのローゼリアの様子に一瞬、ハロルドが息を呑んだ。
感情が顔に出にくいローゼリアだが、今は頬に薄っすらと赤みが差し、本来色白で透明感のある彼女の肌の白さが、その瞬間のみ際立っていたからだ。清楚な雰囲気の中に密やかに艶っぽさを覗かせてくるローゼリアの様子にハロルドの視線が釘付けになる。
だがすぐに我に返ったハロルドは、手にしていた黒革のファイルを無意識でゆっくりと膝の上で閉じた。そして今度は射殺さんばかりの鋭い視線を空気のように壁際に佇む自身の側近に向ける。
「イース……。お前か……」
地を這うような声でハロルドに呼びかけられたイースは、スッと目を逸らした。
だがその表情は明らかに笑いを堪えており、結んだ口元が微かに震えている。側近の態度にますますハロルドの怒りが増幅し始める。
「お前は――っ!!」
「恐れ入りますが、私はハロルド殿下の指示通り行動しただけです。その事で何か問題でもございましたか?」
「問題しかないだろう!! そもそも私は、このような指示など出した覚えはない!! 私がお前に頼んだ事は、今までローゼリア嬢に紹介した婚約者候補の釣り書の予備を母が持ち出してしまったから、それらの回収をしろ……と……」
そこまで口にしたハロルドだが、急に何かに気付いたようにピタリと口を閉ざし、今度は落胆するように両手で頭を抱え始める。
「母上か……」
「残念な事に陛下とリカルド殿下も結託なさっておられます」
「父上と兄上もか……」
側近があっさり白状した黒幕達の存在にハロルドが自棄を起こしたように自身の髪をわしゃわしゃと掻き乱す。そんな二人のやり取りを俯いたまま耳にしていたローゼリアが、ゆっくりと顔を上げた。
すると、先程までキッチリと後ろに流されていた髪を何故か乱している動揺気味なハロルドが、両手で頭を抱え込んでいる姿が目に入る。その斜め後ろには、片手で口元を押さえ、必死で笑いを堪えている側近イースの姿も確認出来た。その様子から、瞬時に今の状況を察したローゼリアが顔を青くする。
「もしや……殿下は、そのファイルの中身をご存知なかったのですか……?」
真っ青な顔で唇を震わせながらローゼリアが問うと、その呼びかけでハロルドが勢いよく顔を上げた。するとローゼリアの真っ青だった顔色に再び赤みがさす。だが、それを隠す様に今度はローゼリアの方が両手で顔を覆い始める。
「も、申し訳ございません!! 知らなかったとは言え、身の程知らずな要望を口にしてしまいました!! 先程のわたくしの発言は、どうかお忘れください!!」
「い、いや! 待ってくれ! 確かに先程まで私は、このファイルの中身を知らなかったが……。その……あなたの要望には、全力で応えたいと思っている!!」
かなり焦った所為か、思わず本音をぶちまけたハロルドが軽く腰を浮かすと、その反動で膝上の黒革のファイルがバサリと大きな音を立てて床に滑り落ちた。その衝撃でファイルに挟まっていた資料が床に散らばる。嫌でも視界に入る状態となったそれらの資料が、再び室内に気まずい沈黙を招いた。
すると控えていたイースが、無言で床に散らばった資料を回収し始める。その行動を切っ掛けにローゼリア達の時間も再び動き出した。そんな気まずい状況下で最初に口火を切ったのは、盛大にため息を吐いたハロルドだった。
「最悪だな……。このように周りからお膳立てされた上、あのような言葉をあなたの口から先に言わせてしまうとは……。自分の不甲斐なさに心底嫌気が差す……。こんな事ならば体裁や立場など気にせず、自分の気持ちに素直になり、早々に動くべきだったな」
盛大に肩を落としたハロルドが左手で両目を覆いながら、まるで後悔するかのように天井を仰ぎ見る。その様子を不思議そうにローゼリアが見つめた。すると気持ちを落ち着けるように左手で顔を撫でおろしたハロルドが、ゆっくりとローゼリアに視線を合わせてきた。
何故か切なさを含む笑みを浮かべているハロルドに更にローゼリアが首を傾げると、ハロルドは小さく息を吐いて一呼吸置くように苦笑した。そして先程イースが回収した黒革のファイルを受け取り、中身の資料を一枚ずつテーブルの上に並べ始める。
すると本来ルシアンの縁談用の資料が一式入っているはずのファイルから、何故かハロルドの釣り書と臣籍に下った際に受け取る領地の資料、そして最近宮廷画家に描かせたと噂されていた姿絵等の見合い資料が次々と披露される。
その状況を茫然としながら眺めていたローゼリアだが、先程自分が口にした要望を思い出してしまい、再び羞恥心から俯いてしまう。その反応に気付きながらもハロルドは、全ての資料をテーブルの上に並べきり、気まずそうな笑み浮かべながらローゼリアに再確認をしてきた。
「ローゼリア嬢。改めて確認させていただくが……。次の婚約者として選ぶ相手は、本当にこのような男でよろしいのか?」
そう言ってローゼリアにテーブルの上の資料の方へ視線を向けるように促す。
するとローゼリアが俯いたまま、蚊の鳴くような小さな声で答えた。
「………はい。もし許されるのであれば、是非こちらの男性とのお話を進めて頂きたいです……」
恥ずかしさから小刻みに震え出したローゼリアに罪悪感を抱いたハロルドが、決まりが悪そうな笑みをしながらボソリと呟く。
「私は、つくづく卑怯で情けない男だな……」
そしてサッと席を立ち、ゆっくりとローゼリアの方へ歩み寄る。その空気の流れで気配を感じたローゼリアが仄かに頬を赤らめながら、ゆっくりと顔を上げた。
するとハロルドがおもむろに膝をつき、ドレスをギュッと握りしめていたローゼリアの右手を取る。そのハロルドの行動に一瞬だけローゼリアが身体を強張らせると、更にハロルドは苦笑を浮かべる。
しかしローゼリアと目が合うと、その表情が一瞬で柔らかい笑みに変化する。
その表情にローゼリアが釘付けになっていると、今度は逆に瞳を覗き込まれた。
「ローゼリア嬢。この男は、自身の気持ちを先に伝えるよりも、まずあなたの気持ちを確認してから動こうとする臆病者だ。しかも体裁や立場を気にし過ぎて、周りのお膳立てがないと一切動けなかったという情けない男でもある」
自身を戒めるようにバツが悪そうな笑みを浮かべたハロルドだが、それでも真っ直ぐに視線を注ぐ事はやめない。そんな瞳は、更にローゼリアを強く捉える。
「だが……そのような男でも許されるのであれば、今一度あなたに想いを伝える機会をいただきたい」
「想い?」
ハロルドが言わんとしている事が全く想像出来なかったローゼリアは、力強い光を宿した瞳に魅入られながら茫然とした様子で聞き返す。するとハロルドがローゼリアの右手の甲を親指で優しく撫で始めた。
「この約三ヵ月間、共に過ごす度にあなたに惹かれて行く自分がいた。だが、弟の非礼や立場上、無意識にその想いに気付かないふりをしていたらしい……。そんな状況が続く中、いざあなたが他の男性を選ぶ状況に直面した時、ようやく己の気持ちを自覚した。しかし、その後は自分でも信じられないくらい動揺してしまい、その気持ちを押し殺して逃げようとしてしまった……」
その告白を聞いたローゼリアが、思わず驚きから目を見開く。
真っ直ぐな気性のハロルドが『逃げる』という行動を選択する事が、あまりにもイメージとかけ離れていたからだ。すると、ハロルドが気まずそうに眉を下げた。
「そんな私の情けない状況に周りの人間も業を煮やし、このようなお膳立てをしてくれたのだと思う……。そのお蔭で私に対するあなたの気持ちを先に知る事が出来た。だが、それでは私自身は納得出来ない。肝心の私の気持ちをまだ、あなたに伝えていないのだから……」
そう言って、今度は射貫く様な強い視線でローゼリアの瞳を見据える。
真剣な眼差しを向けてくるハロルドの深い青の瞳がローゼリアの心を捉えて離さない。そんなローゼリアは、次に発せられるハロルドの言葉を待つ事しか出来なくなった。
するとハロルドが瞳を閉じて一呼吸吐いた後、ゆっくりと口を開く。
「あの婚約破棄未遂以降、面会する度にあなたの魅力的な部分を無意識に見つけ出す事に夢中になっていた……。気丈に振る舞うあなたの姿も、ふとした瞬間に見せる不安そうな表情も。無防備に向けられた柔らかい微笑みも。たまに向けられる庇護欲をそそられるような視線も。兄君と軽口を叩き合って少し生意気な一面も。そして……」
何故かそこでハロルドは言葉を切ったかと思うと、次の瞬間今までで一番の柔らかい笑みを浮かべる。
「今のように感情が出にくい中でも、ほんのりと頬を赤らめる様子も」
その瞬間、ローゼリアが更に頬赤らめながら息を呑む。
その事を堪能しながらハロルドが、ローゼリアの右手の甲にそっと口付けを落とした。
「ローゼリア嬢。どうか私の婚約者になっていただけないだろうか……」
包み込むような柔らかな笑みを浮かべつつも、けして逃さないと主張してくるハロルドの強い瞳が、ローゼリアを優しく飲み込んでいく。その瞳に自ら囚われに行くようにローゼリアが、柔らかく目を細めた。
「はい。喜んで……」
そう答えたローゼリアの淡い水色の瞳には、いつの間にか薄っすらと涙が溜まり始めていた。それを零れ落ちる前に優しくハロルドが左手の指で拭う。しかしその反動でローゼリアの瞳から一筋の涙が零れ落ちてしまう。すると、ハロルドが「余計な事をしてしまった」と苦笑した。
それにつられるようにローゼリアも瞳に涙を溜めながら幸福そうな笑みを返す。
その笑みを堪能しながらハロルドがゆっくり立ち上がり、名残惜しそうにローゼリアの頬を優しく撫でる。するとローゼリアが心地よさそうに目を細め、ハロルドも今まで見た事もないような幸福に満ちた笑みを浮かべた。
そして愛おしげにローゼリアに小さく呟く。
「こんな私を選んでくれて……心より感謝する」
普段は毅然とした様子のハロルドの受け身的な呟きにローゼリアが驚きながら目を見開くと、ハロルドが何ともバツが悪そうな笑みを浮かべた。
「すまない。逃げに走り、先に私からあなたへ想いを伝えられなかった後悔が強すぎて……」
気まずそうに嘆くハロルドの言い分にローゼリアが思わず吹き出すと、瞳に溜まっていた涙が再び零れ落ちた。それが喜びから流される涙だという事を理解しているハロルドは、再びローゼリアの涙を優しく親指で拭いながら、再び愛おしそうにその頬に手を添える。
すると、ローゼリアが頬に添えられたハロルドの手に自分の手を重ねた。
そして二人は手を重ねたまま、幸せそうに微笑み合う。
そんな甘い世界に入ってしまった二人に対して空気に徹していた側近のイースは、やっと思いを成就させた主君達を半ば呆れ気味な表情をしながら見守っていた。