20.自覚
弟の爆弾発言にお茶を噴き出しかけたハロルドは、辛うじて堪えるも盛大に咽せ始めた。
「あ、兄上!? 大丈夫ですか!?」
普段はどっしりと構えている兄の動揺した様子にフィロルドが焦り出す。
「……っ! お、お前はっ、何故考え方がっ、そう突飛、すぎるのだっ!」
どうやら飲み干そうとしたお茶が気管に入ったらしく、苦しさで涙目になったハロルドが鋭い眼光で弟を睨みつけた。そんな兄からの刺すような視線にフィオルドが一瞬だけ怯むが、すぐに持ち直して反論する。
「で、ですが! この間のエレムルス侯爵邸でのお二人の様子から、兄上とローゼの婚約説が社交界では出回っておりますよ!?」
「なっ……何だと!?」
「気付かれていなかったのですか……?」
未だにゴホゴホと咽ているハロルドに珍しくフィオルドが、呆れた様子で白い目を向ける。
「あの夜会で兄上達のダンスを見た者達には、第二王子の最有力婚約者候補はマイスハント伯爵家の令嬢だと深く印象付けられたようです。実際、私も叔父上の屋敷での訓練中に何度もその事を周りから確認されました。世間ではローゼとの婚約を希望している令息達が多いので、もし兄上との婚約話が噂のみであるのならば、名乗りを上げたいと言う者がかなりおります」
「そ、それは理解出来る……。だが、何故私との噂が……」
やっと落ち着いて呼吸が出来るようになってきたハロルドが、咽た所為で目じりに溜まってしまった涙を軽く拭う。その様子を眺めながら呆れ気味のフィオルドが更に言葉を続けた。
「何故も何も……。私がローゼと婚約を解消をした後、兄上は頻繁に彼女を登城させ、面会されていたではありませんか……。その様子はどう見ても兄上がローゼを気に入られたという状況にしか見えないというか……」
訂正されないのをいい事にフィオルドが何度もローゼリアを愛称呼びしているのだが、その事にも気付けない程、ハロルドは動揺していた。
「違う! あれは……彼女に次の婚約候補者を紹介する為に登城して貰っていただけだ!」
「ですが世間はそのようには取らなかったようですよ? 実際僕もあの夜会で兄上達がダンスをされている様子を拝見した際、同じような印象を受けました。その際の兄上達はまるで二人だけの世界に浸っているかのように踊られていたので……」
「浸るも何も、あの時はローゼリア嬢と雑談をしながら踊っていただけだ! そのような誤解を招く雰囲気を醸し出した覚えはない!!」
「ですが、どう見ても仲睦まじい婚約者同士にしか見えませんでしたが……」
「何故そうなる!!」
弟の呟きに盛大に肩を落したハロルドは、両膝に肘をついた状態で腕を組み、その上に額を押し付けながら項垂れた。そんな兄に訝しげな表情を向けながら、更にフィオルドが追い打ちをかけるような質問をする。
「その……実際のところ、兄上はローゼと婚約されるご予定なのですか?」
「そんな訳ないだろう!! そもそも弟のお前が信じられない程の非礼をこのマイスハント家に対して行ったのだぞ!? どの面を下げて、そのような世迷言を望めると言うのだ!!」
勢い任せで言い放たれたハロルドの言葉にフィオルドが大きく瞳を見開く。そして更なる爆弾発言を投下させた。
「それは……私とローゼの事がなければ、兄上は彼女との婚約を望んでいたという事ですか?」
弟からの予想外な問い掛けに今度はハロルドの方が、大きく瞳を見開く。
「お前……何を……」
「ですが、今の兄上の発言では、そのような意味に取れますが……。そもそも兄上はローゼの事をどう思っているのですか?」
「どうもこうもない! 彼女はお前がしでかした失態の被害者だ! よって我々王家は彼女に謝罪しなければならない立場だろう! そんな状況で私が彼女に好意を抱くなど……」
そう言いかけたハロルドだが、急に何かに気付いたように動きが止まり、何故かその言葉は最後まで言い切る事が出来なかった。そんな反応を見せた兄にフィオルドが更に白い目を向ける。するとその視線に屈するようにハロルドが前屈みになり、両手で頭を抱え込み始めた。二人の間に一瞬だけ気まずい沈黙の時間が訪れる。しかし、その沈黙を最初に破ったのは弟のフィオルドだった。
「兄上……その、差し出がましい事をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「差し出がましいと思っているのならば、口を開くな……」
「ですが、こればかりはハッキリさせた方がよろしい事かと……」
「世間ではハッキリさせない方がいい事もある。お前はまず空気を読むという事を覚えろ……」
「私は空気を読むという行為が苦手なので、そのご要望にはお応え出来ません。なので敢えて空気を読まずに伺うのですが……」
そこで一度、フィオルドは兄の心の準備を促すように間を取る。
「兄上は今この瞬間まで、ご自身のローゼに対するお気持ちに気付いていなかったのですか?」
弟から遠慮も配慮もない言い回しで問われ、更にハロルドが頭を抱え込む。
「もう不覚としか言いようがない……。何故よりにもよって私にその事を指摘してきたのが、愚弟のお前なのだ……」
「ここ最近の兄上は私を愚弟呼ばわりされてますが、恋愛事での経験は兄上よりも私の方が勝っていると自負しております。何故なら私は兄上よりも先にシャーリーという運命の女性に出会っているので『恋心』という感情を実感しておりますので!」
何故か誇らしげに主張してくる弟にハロルドが、部屋中に響き渡る程の盛大なため息を返す。
「その『恋心』とやらの所為で、お前は王族という立場が危ぶまれる愚行に走ったのではなかったか……?」
「確かにその影響で私は公の場で婚約破棄という血迷った愚行に走り掛けましたが、シャーリーに抱いた恋心に関しては、一切後悔などしておりません! むしろこの気持ちを大切に抱き続けていきたいです!」
「その恋心を大切にする前にお前がローゼリア嬢に対して行った事が、男としては最低な振る舞いであったという事を自覚し、反省しろ……」
論点がズレ始めた弟の言い分を聞かされたハロルドが、更に深く項垂れた。だがそんな兄の様子に気付かないフィオルドは、初めて動揺する兄の姿を見た事で更に調子付く。
「しかし兄上、もしあのままローゼが私と婚姻していたら、お互い幸せな夫婦生活など訪れなかったと思われます。そう考えますと、私の愚行が招いた婚約解消はローゼの未来を良い方向に導いたと思うのですが?」
「どこがだ!! お前が公の場でローゼリア嬢に婚約破棄を行おうとした事で、彼女は王家より蔑ろにされたという印象を植え付けられたのだぞ!?」
「ですから……それは兄上がローゼと婚約をし直せば撤回出来るのでは?」
「簡単に言うな!! そもそもどの口でそのような無責任な発言をしている!! 彼女の名誉を傷付けたお前の兄である私が婚約者となれば、ますます王家が彼女を軽視しているという印象を世間は受けるだろうが!!」
ハロルドの言い分に納得がいかないフィオルドは、眉を顰めた。弟のその反応にハロルドが苛立ちを覚える。
「何だ……。その反応は……」
「兄上、失礼を承知の上で敢えて言わせて頂きます。もしや兄上は私が彼女に行った愚行による後ろめたさを理由にし、ご自身がローゼに惹かれている状況から目を背けようとしてませんか?」
普段は思慮の浅いフィオルドだが、たまに鋭い観察眼を発揮する事が稀にある。それがどういう訳か今回発動してしまったようで、そのタイミングの悪さからハロルドが忌々しげに弟を睨みつけた。
「お前は……普段周りへの配慮が皆無で自分の感情のまま行動している事が多いというのに……。何故、こういう時だけ他人への観察眼が冴えるのだ?」
「何故でしょうか……。もしかしたら普段は冷静な兄上が、珍しく動揺なさっている様子に興味が集中してしまったのかもしれません」
「こういう時だけ無駄に人間観察眼を発揮するのは、やめろ!!」
吐き捨てるように弟に当たり散らしたハロルドだが、再び頭を抱え込んでしまう。そんな兄に優越感を抱いてしまったのか、この時のフィオルドは何故か強気な姿勢を見せた。
「それで……結局のところ兄上はローゼの事をどう思っていらっしゃるのですか?」
ハロルドにとって非常に答えにくい質問を空気が読めないフィオルドが平然とする。するとハロルドはピタリと動気を止め、無言で弟を睨みつけた。
「兄上、こういった感情はまず向き合う事が大切だと私は思うのです。誰かを想うその気持ちは、本当に幸福であり、素晴らしい感情で……」
「お前の口から聞いても全く心に響かないのだが?」
「ですが、現に向き合えない兄上は、苦悩されているではありませんか」
「………………」
人生で初となる兄より優位な状況から、何故か煽るような言動をフィオルドが始める。だが本人はハロルドを煽るつもりは一切ないのだろう。どちらかと言うとローゼリアに特別な感情を抱き始めた兄の状態に興味津々となっているだけのようだ。
「実際のところ、兄上はローゼの事をどう思っているのですか?」
追及の手を緩めない弟にハロルドが何かを諦めるように深く息を吐いた。
「お前に答える義理はない……。もし仮に私が彼女に好意を抱いているとしてもこれから先どう動くかは、私自身が考えるべき事だ。お前にその心境を語ったところで、何の解決にもならない」
「ですが、私の方が兄上よりも恋愛経験があり、ご相談にのる事も――――」
「お前の幼稚な初恋と、私が彼女に抱いている気持ちを一緒にするな!!」
勢いよく一喝されたフィオルドが、腑に落ちないという表情で不満を訴えてきた。
「…………お互い似たような状況かと思いますが?」
弟のその呟きを聞いたハロルドは、喉を詰まらせ何も言い返せない。
そのまま小さく唸りながら頭を抱えていると、部屋の中にノック音が響き渡る。その音でハロルドがビクリと肩を震わせた。すると、ノック音の後にローゼリアがやや眉を下げた状態で入室して来た。
「お待たせしてしまい、大変申し訳ございません。少々ルシアン様とのお話で盛り上がってしまいまして……」
ローゼリアが謝罪を口にしながら、少し前まで座っていたハロルドの隣の席に向かって歩みを進める。
「ハロルド殿下、再びお隣を失礼してもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ……。もちろん」
先程、ローゼリアへの気持ちを自覚したばかりのハロルドは、動揺のあまり一瞬返答に遅れてしまった。そのハロルドの反応にローゼリアが不思議そうにに小首を傾げる。すると、ハロルドが一瞬、息を呑む。
「ハロルド殿下? どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない! どうか気にしないでくれ!」
早口でそう返答したハロルドは、思わずローゼリアから視線を逸らす。今まで自分に対して小首を傾げるローゼリアの仕草は、何度か見た事があったが……。気持ちを自覚した今現在では、何故かこそばゆい感情が湧きおこり、何とも複雑な気持ちになってしまう。
そんな兄の様子を見ていたフィオルドは、テーブル越しで必死に口元が緩まないように堪えていた。その事に気が付いたハロルドが口元だけに笑みを貼り付け、ゆっくりと立ち上がる。兄のその行動に身の危険を感じたフィオルドは、距離を取ろうと素早く腰を浮かした。しかしそれは、ハロルドの大きな右手に顔面を掴まれた事で阻止されてしまう。
「フィオ……。随分と楽しそうだな……?」
地を這うような声で問い掛けてきた兄の目は弧を描いている口元とは対照的で、一切笑みを含んでおらず……むしろ射貫く様に目を据わらせていた。
「あ、兄上! 八つ当たりは良くないと思います!」
フィオルドが悲痛な叫びで訴えるも、ハロルドは鷲掴みにした弟の顔面をジワジワと締め上げ始めた。しかし、何故そんな展開になったのか全く理解が出来なかったローゼリアは、ただ不思議そうにその状況を傍観するしかなかった。
だがこの日、後半のハロルドは何故かローゼリアと目を合わす事が出来なくなった為、結局フィオルドの内面改善についての話し合いは、何の進展もないまま終了する流れとなった。