ややこし人魚のおまじない②
その夜は、みんなでおまじない屋に泊まりました。
パパナッシュさんは家の前に樽を置いて、その中で眠りました。
リスミンさんはリンゴ籠の中で丸くなりました。
ミミルは汗を流すために、お風呂で体だけ洗おうと思いました。
「オジャマしても、いいかしら」
と、お風呂のドアをノックしました。
「女同士ですもの」
とココナッツが答えて、ミミルはお風呂場に入りました。
ココナッツは元の人魚の姿に戻っていました。
「あなたのご飯はどうすればいいのかしら」
ミミルはココナッツがまだ夕飯を食べていないことに思い当たりました。
「私はさっき昆布を嫌というほど食べましたから、夕飯はいりませんわ。それより、私の方こそ、お邪魔ではありませんでしたこと?」
「いいのよ、夏だから。冬にお湯に浸かれないのは、風邪引いちゃうけどね」
「私はしばらくここに居させてもらえるのでしょうか?」
「もちろんだわよ。明日になったら、街の中心まで行ってみない?おいしいパン屋さんがあるのよ。そこのクリームパンが、すっごくおいしいの」
「それは素敵ですわね。でも私、王子様を探さなきゃいけないんですのよ。パン屋さんというところには、王子様がいるんですの?」
ミミルはヤギのマークのニコニコパン屋のご主人を思い浮かべました。
とても優しい人でしたけど、王子様というには、ほど遠いと思いました。
「ねえ、ミミルさん」
「なあに」
「あの、パパナッシュさんという方は、王子様ではありませんの?」
ミミルはあんぐりと口を開けてしまいました。
今まで王子様に会ったことはありませんが、パパナッシュさんが王子様から最も遠いタイプの人だということはわかりました。
「びっくりさせないでよ、もう。王子様っていうのは、大っきなお城に住んで、とっても綺麗なお洋服を着ている人よ。パパナッシュさんが王子様なわけないじゃない」
ココナッツは、ちょっぴり残念そうな顔をしました。
「もしかして、あなたの読んだ絵本では、ヒゲモジャの王子様が出てきたのかしら」
と、ミミルはココナッツの顔色を伺いました。
もしかしたら傷つけてしまったのではないかと思ったのです。
「いいえ。私の読んだ絵本でも、王子様は大きなお城に住んで、綺麗な格好をしていましたわ」
「じゃあ、どうしてパパナッシュさんが王子様だと思ったの?」
「王子様だとは思いませんでしたわ。王子様だったらいいな、と思ったんですの。だって、昆布にからまっていたのを助けてくれたのは、あの人ですのよ。こういった場合、女の人は、その人を好きになるものじゃなくって?私、王子様が助けにきてくれたのだと思って、喜んだのですけど、絵本の中の王子様とは全く違っていたので、ちょっとガッカリしたんです。でも、それを面に出すのは、悪い気がして。それに、あの人が助けてくれたのは本当なのですし、あの人が王子様だったら、一応うまくいくのかと思ったんですのよ」
実際には、パパナッシュさんは魚を獲ろうとしていただけで、人魚を助けるつもりはなかったのです。
大きな魚が昆布に引っかかっていると思って引き上げたら、それがたまたま人魚だっただけなのでした。
「あなたって、とってもフクザツなのね」
ミミルにとって、ココナッツの話はすごく混み入ったものに聞こえました。
それと同時に、まだ何か秘密がありそうな気もしました。
「パパナッシュさんは、本当に王子様ではありませんの?」
「本当に王子様だったら、あなたは嬉しいのかしら」
ココナッツは俯いて水の中を見つめました。
まるでそれは、お風呂の中のどこかに、彼女の本当の気持ちが沈んでいるかのようでした。
「あの人はパパナッシュさんだわ。王子様じゃないわよ。樽のお家のパパナッシュさん。仮にあの人が王子様だったとしても、あの人はお城になんか住まないわ。お風呂にだって入らないもの。ヒゲも剃らないわよ。パパナッシュさんは、いつまでたってもパパナッシュさんのままだわ」
「私、王子様で、綺麗で、お城に住んでいる人が好みですの」
ココナッツは、ようやく本心を言えたようでした。
「この街にそんな人はいないわよ。いるのは、おまじない屋のミミルとか、樽に住んでるパパナッシュさんとか、リスのリスミンさん。他には白猫のネコヤナギさんに、狼のオオカミラさんに、牛のような人のようなウシマロさん。そういう人たちはいても、綺麗なお城の王子様なんて、ここにはいないわ」
「まあ、それは残念ですわ。私、王子様を探しに旅に出て、偶然この街に辿り着いて、昆布にからまっていたのを助けてもらって。まるで物語に出てくる人魚姫みたいだなって、運命を感じていたんですのよ。助けてくれたのがパパナッシュさんで、なんか思っていたのと違うなと思ったのですけど、ミミルさんもリスミンさんもいい人のようですし、きっと私はここで暮らすんだと思ったんですの」
ココナッツの話の中に、ミミルが知らない言葉が一つありました。
「ウンメイって、なあに?」
「人生がそうなるようになっているということですわ。人魚に生まれた私は、きっと絵本の人魚姫のような運命を辿るのですわ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、人魚って、そういうものじゃありませんこと?」
運命の話は、ミミルには良く理解できませんでした。
「別に絵本の人魚姫の通りに生きなくたって、いいじゃない。もしあなたが牧場に生まれたとしたって、ミルクが好きじゃないなら、飲まなくたっていいと思うわ。それと同じよ」
「それも、そうですわね」
とココナッツは言いましたが、少し寂しそうでもありました。
「ココナッツさんには、ココナッツさんの生き方があると思うわ。だってあなたって、絵本の人魚姫よりもずっと素敵ですもの」
「まあ、そんな」
ココナッツはポッと顔を赤らめました。でも、本当ですよ。ミミルにはお世辞は言えませんから。
「だから、そのウンメイっていうものではないわね」
「そうね。でも、だとしたら、私はどうしたらいいのかしら。新しい絵本がどこかにあるのでしょうか。現実を知った人魚向けの」
「そんなもの必要ないわよ。シゴクタンジュンだわ。パパナッシュさんには、助けてくれてありがとうって言って、王子様を探しに行けばいいのよ」
これで一件落着でしょうか。
でもココナッツは、まだミミルに言っていないことがあるような、でも言えずにいるような、そんな素振りを見せていました。
でも、このおまじない屋にきて、ミミルを前にして、何かを秘密にしておくなんてことは、たとえ人魚であってもできないことでした。
「あのう、ミミルさん」
「なあに」
ミミルは、そろそろお風呂を出ようかと思っていたのですけど。
「私ね。本当は自分の力で昆布を外すことができたのですよ」
ミミルは、まじまじと人魚の瞳を見つめてしまいました。
そこには、果てしなく深い海が広がっていました。
「だって、助けにきてくれるのが見えちゃったものですから。それに、人魚って、そういうものでなくって?」
◇
次の日、ミミルは体が熱っぽくて、だるいのに気づきました。
ココナッツと一緒にパン屋さんに行こうと思っていたのに、どうやら風邪をひいてしまったようです。
海まで行って疲れていたところに、お風呂に長くいすぎたのですね。
「残念ですわ。せっかくミミルさんとご一緒できると思っていましたのに」
仕方なく、ココナッツはリスミンさんと一緒に出かけていきました。
パパナッシュさんは、ミミルの家にバナナがもうないことがわかると、また魚を獲りに行ってしまいました。
夕方、ココナッツがクリームパンをお土産に持ってきてくれたので、ミミルは少し元気が出ました。
病気の間、色々と世話をしてくれる人がいたのは幸いでした。
それにしても、夏に風邪を引くと本当につまらないものです。
ぬくぬくとしたお布団の暖かさに埋もれることはできないし、かといって、森できのこ摘みをするわけにもいきません。
ただミルクを飲んで、家の中でじっとしているしかないのです。
リスミンさんが毎日やってきては、ココナッツを街へと誘い出しました。
ミミルは昼間は窓を開けて、ぼんやりと森の様子を眺めながら、滋養に満ちた夏の風にあたって過ごしました。
夜はココナッツが持ってきてくれたフルーツなどを食べて、早めにベッドに入りました。
ココナッツは、自分でお風呂に水を張れるようになりました。
何日か過ぎて、ようやくミミルが回復した頃に、ココナッツは海へ帰ると言い出しました。
「私、ミミルさんが病気の間、リスミンさんと一緒に色々と街を見てまわったのですよ。人間の世界って、本当にいろんなものがあるのですね。来て良かったですわ。ここに来なかったら、私、海の底しか知らない人魚になるところでしたの」
「ココナッツさんさえ良ければ、もっといてくれてもいいのよ」
とミミルは言いましたが、このおまじない屋は知っているのですよ。
ここに来る人は、必要なときにやって来て、必要なだけいては去っていくのだということを。
「いいえ。お申し出は嬉しいのですけれど、私、一つこの街で満足できないことがございましてよ。街の隅々まで回ってみましたけど、この街には、猫さんや牛さんやヤギさんはいらしても、王子様はどこを探しても見つかりませんでしたわ。私、やっぱり王子様が好きですのよ」
「そっか。どこかで本物の王子様が見つかるといいわね。ココナッツさんは、そんなに綺麗なんですもの。きっと王子様ともお似合いだわ」
「ま、ミミルさんったら」
ココナッツは顔を赤らめました。
「それで、厚かましいお願いなんですけど」
「なあに?改まっちゃって」
「あのね、リスミンさんから聞きましたのよ。ミミルさんは、おまじない屋さんなんですってね。いろんな人に、その人の願いが叶うように、おまじないをかけてくださるのですってね。私、街を見て回っているうちに、偶然に頼っていては、王子様には出会えないな、なんて考えていたのですよ。それで、もしよろしければですけど、私にも、おまじないをかけてくださらないかしら。そのう、王子様が見つかることを願って」
「オヤスイゴヨウだわ」
ここに来る人は、みんな胸にいろんなものを抱えてやって来ます。
でも帰るときには、おまじないだけを持っていきます。人魚だって、そうなのです。
ミミルミルミル ミミルミル
ココロニジユウナ オマジナイ
メトメガアエバ コレハコイ
ドコカデアッタカ ワタシタチ
イワカンカンジル ナツカシサ
オヒレクネクネ ミトレチャウ
ナツノデアイハ シンキロウ
ウミノソコマデモ キミトナラ
ミミルミルミル ミミルミル
ココロニハナサク オマジナイ
「さあ、もう行かないと。ここに来て、本当に楽しかったですわ」
二人は、海までの道を一緒に歩きました。途中からリスミンさんも合流して、三人になりました。
黄色いトロトロとした光の夏の日の午後でした。
浜辺まで来ると、潮騒が大きな音を立てていました。
何かが崩れて去っていくときの音によく似ていました。
波打ち際でココナッツが人魚の姿に戻ると、膨れ上がった波が、簡単に人魚を海へと戻しました。
人魚というものは、やはり海の生き物なのです。
遠くで一度、ピシャリと尾ひれが水を跳ねたかと思うと、すぐに波の間に消えて見えなくなってしまいました。
「ぼく、あの人と街を歩くの、好きだったな」
リスミンさんが、ポツリと呟きました。
ミミルに言ったような、それでいて、誰に聞かせるのでもないような呟きでした。
「しょうがないわ。夏だって、いつまでも同じところにいないもの」
ミミルは、胸の辺りを涼しい風が通り抜けていったような感じがしました。
短い間ではありましたが、ミミルにとっては、人魚と過ごした日々というのは、やはり特別なものだったのです。
そんな女の子は、きっと世界でわたしだけなのだ、という思いも、少しはあったのです。
けれどそれは、夏の間だけ現れる蜃気楼のようなものでした。
それまで大人しくしていたセミたちが、ジージーと一斉に騒ぎ始めました。
「ああ、暑い。なんだか急に暑くなってきたわね。涼しいところに行きましょ」
二人は木陰を選んで、それぞれの家へと帰っていきました。
このとき実際に、気温が上がっていました。
ミミルが胸の風邪を引いてしまわないようにと、太陽が気を利かせてくれていたのでした。
◇
ココナッツが海に帰ってからしばらくのこと。
ミミルは普段通りに過ごしていました。
朝は大好きなはちみつトーストを食べ、お客さんがやって来たらおまじないをして、麦わら帽子を被って庭に出ては、セミの抜け殻を集めたりしました。
お風呂には、温かいお湯を入れて浸かりました。
「ココナッツさん、王子様に会えたかしらね」
時々、湯船に浸かりながら、ふと、そんなことを考えたりしました。
ある日のこと、ミミルは、コツコツという窓ガラスを叩く音で目が覚めました。
「んぅん、なあに、リスミンさん。こんな朝早くから」
おまじない屋のドアを通らずに入ってこようとするのは、リスミンさんしかいません。
小さ過ぎてドアを開けられないのです。
ミミルは寝ぼけまなこで、窓を開けてやりました。
「もう、とっくにお昼だよ」
ピョコンとリスミンさんが飛び込んで来ました。
「じゃあ、お昼寝しなきゃ」
ミミルはまた布団に潜り込もうとしました。
「待ってよ。これを見てよ」
リスミンさんは手に持っていた何かを差し出しました。
それは、虹のようにキラキラと輝く、大きな魚の鱗でした。
「あら?それって、ココナッツさんの鱗じゃないの。どうしたのよ。あなた、もらっていたの?」
リスミンさんは首を左右に振りました。
「最近、街の人たちが噂してるのを耳にしたんだ。海で人魚を見たって」
「ココナッツさんかしら。戻ってきたのかも」
「それで、僕も海に行ってみたんだ。もしかしたら会えるんじゃないかと思って。そしたらね、砂浜に足跡が二人分ついてた。一つは大きくて太いもの。もう一つは、小さくて細いものだよ。ところが、それを辿って行ったら、途中から小さくて細い方の足跡が、何かを引きずったような跡に変わっていたんだ。それがずっと海まで続いていて、そこにはなんと、パパナッシュさんが一人でじっと海の方を見つめていたんだよ」
「あなたまさか、その跡がついているところで、鱗を拾ったって言うんじゃないでしょうね」
「そのまさかなんだよ。信じられる?」
二人は驚いたような顔で、しばらく見つめ合ってしまいました。