やさしきオオカミのおまじない
ある日のこと、ミミルはうんと朝寝坊をしました。
起きた頃には太陽はもう既に西に傾きかけていて、トロトロとした黄色い光になっていました。
「ふぁあ、ああ。やだ、こんな時間に起きちゃったわ。もうお昼寝する時間ね」
もう一度布団を被ろうかと思ったとき、おまじない屋のドアに取り付けられたベルが、チリンチリンと音を立てたものですから、ミミルはパッチリと目を覚ましました。
こんな鳴り方をするのは、狼のオオカミラおじいさんに決まっています。
この人は、おまじない屋によく来る人で、ミミルのことをとっても可愛がってくれる人です。
オオカミラさんに言わせると、ミミルは、食べちゃいたいくらいかわいいんだとか。
「待って、待って、オオカミラさん。今行くわ」
店の方に向かって声を上げると、急いでベッドから飛び出しました。
洗面所に行って顔を洗うと、鏡の前でニカッと笑いました。
ミミルミルミル ミミルミル
アサノダイジナ オマジナイ
タトエアサスギ ヒルスギテ
ヨルスギイトスギ アキタスギ
ワスレチャナラヌ コレダケハ
レディノシタクハ イロイロト
タシナミフジナミ ウスゲショウ
オジカンヨウカン アセラズニ
ミミルミルミル ミミルミル
オチャデモイップク オマジナイ
どんなに急いでいようと、朝のおまじないを忘れるミミルは、ミミルではありませんね。
それはさくらんぼの乗っていないプリン・ア・ラ・モードと同じです。
◇
「オオカミラさん、いらっしゃい。お久しぶりですこと」
大慌てでいつものお気に入りの赤い服に着替えてお店に出ましたが、そこはレディのミミルです。
急いでいたことなど微塵も感じさせない優雅な動きで、スカートの裾をちょいとつまんでお辞儀をしました。
これで髪の毛がピンピンと跳ねていなけりゃね。
「おおお、ミミルや。起こしてしまったみたいじゃのう。すまんのう」
オオカミラさん、しばらくぶりにミミルに会うのがよっぽど嬉しかったのでしょう。
若い頃はさぞかしモテたであろう、狼らしいキリリとした目元が、でれーんと垂れ下がってしまいました。
大きなお口もだらしなく開いて、鋭い牙の間から、ヨダレがダラダラと床に落ちました。
「あら、シンガイですこと。レディの朝はゆったりこんですのよ」
これで時間が昼過ぎじゃなかったら良かったんですけど。
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。そうじゃった、そうじゃった。ミミルはこの街一番のレディじゃよ」
「あら、エリーゼちゃんよりも?」
「ふぉ、ふぉ。エリーゼよりもミミルの方がレディじゃのう」
エリーゼちゃんというのは、オオカミラさんのお孫さんのことです。
全く、オオカミラさんときたら調子がいいんだから。
この人、きっとお孫さんの前でも同じことを言っていますよ。
「そうそう、ミミルや。いいものを持ってきたよ」
と、手にしていた袋をおまじない屋のカウンターの上に置きました。
小っちゃなミミルも、椅子の上に立ち上がって中を覗き込みます。
それは、はちきれんばかりにたわわに実った、ビワでした。
「んまあ、ビワがいっぱいじゃないの。こんなにたくさん、どうしたの?わたし、ビワが大好きなのよ。果物は、すもももももも大好きだけど、ビワの方がもっと大好きよ。オオカミラさんってば、よくわたしの好みを知っていたわね」
「ふぁ、ふぁ。前に来たときに、ビワが食べたいと言うとったじゃろうに」
おやまあ。ミミルもあざといですね。
でも、オオカミラさんにしてみたら、ミミルの喜ぶ顔が見られて大満足です。
それに、オオカミラさんの家の周りには、ビワの木がたくさん生えていますから、このくらいどうってことないのですよ。
二人は皮をむいて、ひとしきりビワを食べるのに夢中になりました。
あんまりたくさん食べたものですから、ミミルの指はビワの汁でオレンジになってしまいました。
◇
「ほんにビワはおいしいのう。来年もこうしてミミルとビワを食べられるといいのう」
と、オオカミラさんはしみじみと言いました。
「食べられるわよ。ビワだってさくらんぼだって。もっと暑くなったら、スイカも食べたいわね。秋にはブドウがあるし、栗に梨にサツマイモよ。冬だって、みかんにリンゴにイチゴもあるわ」
あらあら、ミミル。これはリクエストですか?
「そうじゃといいがのう。この歳になると、こうやってビワを食べていても、もうあと何年食べられるかのぅ、なんて思うのじゃよ」
「寂しいこと言わないで。オオカミラさん、まだまだ元気じゃない」
「いやいや、若い頃のようにはいかんものじゃよ。昔はビワなんか、いっぺんに百も二百も食べれたし、スイカだってミミルくらいの大きさのものをバリバリと食べておったもんじゃが、最近じゃ歯はグラグラするし、胃もたれもする。いつまでも若いつもりでおったが、わしも歳は取るんじゃて」
オオカミラさんは、ふう、と一つ大きなため息をつきました。
若い頃は本気になればレンガ造りの家だろうと簡単に吹き飛ばせたものですが、その息はシルクハットに差してあるバラをクルリとさせただけでした。
「こないだものう、実はここしばらく来れなかったのも、そのせいなんじゃが、エリーゼを抱っこしてやったときに、ギックリ腰になってしまってのう」
恥ずかしいのか、オオカミラさんは両手で顔を覆いました。
でも大きな口と牙は隠れませんでした。
「ああ、言ってしまった。ミミルの前では、いつまでもカッコいい狼でありたかったんじゃが」
それは無理な話ですね。この街の人たちは、ミミルの前に来ると、人に言えない恥ずかしい話も、包み隠さずに何でも話してしまうのですよ。
「エリーゼにも馬鹿にされてしもうて。おじいちゃんてば、もう歳なんだから、あんまり無理しないでね、なんて言いよるのじゃ。わしゃ、悔しくて悔しくて。むしゃくしゃしておったが、腰は痛いし、どうにもやり切れんような気持ちになっておったが、ミミルと話せて良かったわい。なんだか気が楽になったの」
「エリーゼちゃんも、もう大きいものね」
と、ミミルは微笑みました。
「わしにはエリーゼなんて、ほんの一昨日生まれたばかりのような気がするんじゃよ。コロコロとして小さなグレーの毛糸玉のようじゃったのが、いつの間にか一端の口を聞くようになったわい」
「エリーゼちゃんはいくつになったのかしら」
「確かお前さんより、一つか二つ下じゃったと思ったが、ミミルはいくつじゃったかの」
オオカミラさんは首を傾げました。
「あーら、自分の歳なんか、忘れちゃったわよ」
と、ミミルは芝居がかって言いました。
「今、問題にしてるのはエリーゼちゃんの歳よ」
「はて。最近、新しくできた学校に行き始めたんじゃが、いくつになったかの。ほんに月日の経つのは早いもんじゃて」
オオカミラさんも、結局、歳がいくつかなんてことには、あまり関心がないようでした。
「学校って、街の中心にできたってところね」
「そうじゃよ。別の街から一人先生がやって来ての。この街に学校がないからといって、空き家になっておった、前の町長さんの家で学校を始めたのじゃ。そこに行くようになってから、エリーゼも熱心に勉強するようになった。じゃが、そのおかげで、わしと遊んでくれんようになったから、こっちとしては、ちと寂しいのう」
「わたしも行ってみようかしら。学校って、なんだか面白そう」
「おやおや。ミミルまでわしと遊んでくれんようになったしもたら、わしはどうすりゃいいんだね」
オオカミラさんも、そうやってミミルを縛り付けておこうなんていうつもりは全然ないのですけど、ちょっとすねてみたくなったのですよ。
男の人って、意外と甘えん坊さんなんです。
「平気よ。面白そうなときだけ行って、面白くなさそうだったら、途中で帰ってきちゃえばいいんだから」
でも、ミミルは学校に興味を引かれました。
「いやいや。そのうちミミルも、わしとは遊ばなくなるよ。わしのことなんか、ちいとも思い出さんでも平気になる。わかっておるよ。そういうもんじゃて。オオカミラさんって誰だったかしら?ああ、あの、小さい頃によくおまじない屋に来てた人ねっていうときがきっと来る。わしゃあ、それでもいいんじゃよ。こうして会えるときに楽しく過ごせれば。時というのは、移り変わるものなんじゃ。春が来れば夏が来る。やがて秋になって、とうとう冬じゃよ。その冬だって、少しもじっとしとらん」
ミミルは、真っ白な雪に包まれた冬の光景を想像して、なんだか胸がきゅうんとしてしまいました。
「それより、オオカミラさん。とってもおいしかったわ。ご馳走さまでした。それで、そろそろおまじないをしようかしら。ここに来ておまじない無しってわけには、いかないのよ」
「そうじゃあのう。わしとしちゃ、ミミルのニコニコ顔を見られただけで満足なんじゃが、どうしようかのう」
「何も思いつかないのなら、おまかせでどうかしら」
出ました。ミミルのおまかせコース。
もし自分で何も出来ないときがあれば、人におまかせしてしまえばいいのですよ。
それがおまじないで、相手がミミルであるなら、尚更です。
べベンベンベン
ミミルミルミル ミミルミル
サリユクトキノ オマジナイ
タケキオオカミ イマムカシ
カネガナルナル ビワホウシ
オゴリオゴラレ ハライッパイ
ケダマハイイロ ハナノイロ
ウツリニケリナ アマエンボ
タダハルノヨノ ユメマクラ
べベンベンベン
ミミルミルミル ミミルミル
ショギョウムジョウノ オマジナイ
ビュウウ、と強い風が吹いて、桜の花びらを散らしました。
それが街の中心にある時計台の顔に付いて、六時の鐘の代わりに、ヘックションと六回聞こえました。
「この街の時計台も、なかなか味のある音を立てるようになったのう。わしらも風に吹き飛ばされる花びらのようなものかもしれんの。さて、と。あんまり遅くなると家族が心配するかもしれんで、帰るとするかの。ミミルや、また来るよ。今度はスイカを持って来る」
「ほんと?ギックリ腰、大丈夫かしら」
「なあに、心配せんでもええて。ギックリ腰なんて、ミミルにおまじないしてもらったら、どこかに吹き飛んでしまったわい」
と言って、オオカミラさんは暗くなりかけた道を帰って行きました。
それをミミルは店のドアのところで見送っていましたが、一筋の冷たい風が服の隙間から入ってきて、ブルリと体を震わせました。
ドアを閉めておまじない屋の中に入ると、いつもの街外れの静けさが戻ってきました。
ミミルは、どうして春の夜は寂しい感じがするのかしら、と思いました。
まだどこかに冬の名残りが残っているせいだろうか、それとも、散っていった花びらたちの匂いが風の中に染み込んでいるからかしら、なんて思ってみたりもしました。
でも、同時にワクワクするような気にもなってきます。
きっともうじき夏がやって来ることを、体の芯で感じているのでしょうね。
ミルクを沸かして飲もうとキッチンに入ったとき、ミミルはその寂しさがどこから来ているのかわかりました。
「まあ、今年はまだ、つくしを食べていないじゃないの!」