06
入島してすぐ、私と照葉は一通りの研修を受け、それぞれ役割に慣れるよう必死だった頃。
その時点で天聖師は六人いた。
だけど塔に入ったばかりの、しかも聖師でもない私にとって天聖師は雲の上よりも遥か遠くの、おとぎ話とそう変わりないほど現実味の無い存在だった。
まさか少し後に照葉が七人目になるとは知らず。
そんな遠い遠い存在である天聖師の中でも、お名前をよく耳にする唯一といっていいほど『実在』を感じさせてくださったのが黄丘天聖ギドルシュウェルト簾下だ。
といっても当時は『噂でよく耳にする』とか『米粒ほどの大きさに見えるほど遠くから眺めたことがある』程度だけれど。
そんなギドルシュウェルト簾下と対面することになったのも、その関係でアレイスバルクさんにお世話になったのも、照葉がきっかけだった。
聖下侍従の先輩方に仕事を教えてもらっていたある日のこと。
塔の管理部の方が私に用があるということで、すぐに仕事を中断して赴いた。
執務室にはほとんど見かけることはなかったけれど顔は知っていた管理部の方と、見たことのない役職付きのバッジをつけていた聖下侍従の方――アレイスバルクさんがいた。
二人の表情は硬く神妙で、きっと良くない話であるということは自ずと察せられた。
「初風聖下侍従は聖師照葉の専属で姉でもあるということですが、間違いありませんね?」
挨拶もそこそこに尋ねられ、私はすぐさま頷き肯定した。
続けられた言葉はにわかに信じがたく、そうしてどうしようもないほどとんでもないもので、私はその時の記憶がぼんやりしている。
分かっているのはあまりの衝撃に顔を真っ青にして魂が抜けたような私を、アレイスバルクさんがとりなしてくれたということ。
少しだけ落ち着いたところで理解できたのは、その日、照葉がたまたま塔内を散歩していたギドルシュウェルト簾下を間近に見かけたこと。
普通の聖師なら黙って頭を下げるなり距離をとるなりするけれど、照葉の場合は違った。
ギドルシュウェルト簾下が照葉の前を通りすぎる瞬間に、ぼそっと「獣人だ」と呟いたらしい。
後で聞いたことには、照葉には全く悪辣な意図をもってしたことじゃなかった。
聞かせようなんて一寸たりとも思っていなかったし、むしろ無意識のうちに呟いて、それが相手や周囲に伝わって初めて自分が声にだしたことに気づいたくらいだった。
でもその言葉は無い。
ギドルシュウェルト簾下がぎょっとして振り向くより先に、周囲が顔を真っ青を通り越して真っ白にして、どうにか照葉の頭を無理にでも下げさせた。
照葉はその場で頭を下げさせた先輩聖師からほとんど怒鳴るような叱りを受けて、本人は訳が分からないまま、だけど『どうしようもなく良くないことしでかしてしまった』ことは理解できたらしい。
その叱られ方があまりにも不憫だったからか、ギドルシュウェルト簾下から特別お叱りを受けることもなく、その場の『謝罪』は一応受け取ってもらえた――ということに落ち着いた。
だけどギドルシュウェルト簾下には分かってしまったのだろう。
照葉が本当の意味で、その言葉をなぜ言ってはいけなかったか、未だ分かっていなかったことに。
それで、ギドルシュウェルト簾下の筆頭聖下侍従であるアレイスバルクさんを通じて私に連絡が来たということだった。
私はすぐさま照葉と話をすることにした。
その様子があまりにも情けなかったからか、なんとアレイスバルクさんが照葉の謹慎している聖師寮まで送ってくれたのだ。
当時はアレイスバルクさんのことを同じ聖下侍従ではあるけれど、天聖師の侍従だから雲程とは言わなくても遠い存在に思っていた。
だからどんな方かも知らなかったし、明らかにこちらが一方的に悪い件だったので、もしかしてギドルシュウェルト簾下に暴言を吐いた聖師がどんな人間か見定めるつもりなのかしらなんて穿って考えてしまった。
いま考えればありえない勘違いだけれど。
そんな考えもあって、私はアレイスバルクさんとの会話をとても慎重に、慎重に交わしていたと思う。
もしかしたらとても態度が悪く映ったかもしれない。
それでもアレイスバルクさんは「あまり気に病まないで。廉下も気にしたわけじゃないんですけど、一応ってことなんですよ」なんて声をかけてくれさえもした。
当時の警戒心を裏切り、アレイスバルクさんは寮の前までで帰ってしまった。
本当に、動転してしまった私を心配してくださっただけだった。
ろくな感謝も謝罪もできないまま、私は照葉が談話室に下りてくるのを待った。
「おねえちゃああん……」
案の定、照葉は小さな迷子のように泣きはらした顔で途方に暮れていた。
照葉からも事情を聞いてみたけれど、大まかなところはアレイスバルクさん達の言う通り。
そして照葉はどうして「獣人」と言ったのが悪かったのかを知らなかった。
照葉はただ、ギドルシュウェルト簾下の狼のような耳を見るのが初めてで、驚いてふいに呟いてしまっただけなのだ。
そこになんの悪気も、蔑む意図もなかった。
だけど、悪気がなければ全て許されるわけではないのが社会生活というもの。
「あのね、照葉。人に向かって『獣人』って言うのは侮辱している、差別した言葉なんだよ」
ギドルシュウェルト簾下の故郷では、耳の形が狼や猫のように三角の形をしていたり、翼を持っている人がいたりするらしい。
私たちの浮島では猿のような形の耳をした人ばかり。照葉は違う形の耳があるのだと知らなかった。
まだ国や浮島同士で戦争をしていたほど大昔、人は互いの耳の形や翼が有るか退化してしまったかなど、身体的な特徴もとに差別していがみ合っていたらしい。
なかには風習や信仰とからめて迫害したり、重大な領土問題になったりもしたという。
今でこそ、同じ人間なのにやれ形が違うとか色が違うとかで争っておかしなことだ、と笑われるような歴史。
だけどその名残は言葉や文字に少しだけ残っていて、その一つが『獣人』だ。
歴史ものの小説や劇などの物語や、当時の歴史書に触れるとたまに出てくるのが、混血や移民などに対する「獣人」や「亜人」といった侮蔑の言葉。
獣人や亜人とはつまり、『普通ではない人間の亜種』のこと。
そこには自分を普通の人間だと認識している人が、意識的にせよ無意識的にせよ、他者を人間以外の何かだと認識している差別意識が潜在しているわけで。
その言葉が悪い言葉だと、私はいつどこで誰に教わったのだろう?
まるで記憶が無いし、きっと学院で習ったわけではないのだと思う。
だけど「人に暴力をふるってはいけない」とか「人の物を盗んではいけない」とか、いつの間にか身にしみついた常識として頭の中に息づいている。
きっと他の人も同じように。
それが照葉には無かった。
今回、照葉にギドルシュウェルト簾下を蔑む意図は無かった。
でもギドルシュウェルト簾下の耳を見て、『普通ではない』と感じたのはそうなんだろう。
本人が普通ではないと感じていることを、無理に普通だと感じろというのも難しいことだし、それが正解ではないと思う。
それは私たちの故郷の人たちを含め、私自身も照葉をどこか『変わった子』だと思うように。
「『獣人』って相手を人間として尊重しませんとか、知性も理性も無い動物だって言っているようなものなの」
照葉はやっぱりそんな意味だと分かっていなかったようで、申し訳なさそうに眉を下げる。
「言いようにもよるけど、人を動物に例えることはあるよね。『ライオンみたいに勇ましい』とか『鹿みたいに目がくりくりしてる』とか。でも、私たちの耳が猿みたいだからって『猿の獣人だ』って言われたら、とても傷つくと思う。だからギドルシュウェルト簾下に『狼みたいな耳』っていうのは……信頼関係あってのことなら身体の特徴を言っても問題にならないと思うけど、どれだけ信頼関係にある人でも『獣人』って言うのは駄目なの。それが初対面なら一層ダメだよ」
照葉は私が話すのをじっと黙って聞きながら、呆然とした表情でぽつりと「……猿?」と呟いた。
「猿?」
「お姉ちゃん、なんで猿の獣人なの?」
「え?」
「だって獣人って……え? あたしたちの耳、猿なの?」