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弟・ドア・姉

作者: ユリウス卿

カタカタカタ・・・カタカタ・・・


 ドアの向こう側から軽快にキーボードを叩く音が響き渡る。

姉の顔を最後に見たのはいつだろう。思い出の中の優しかった顔を思い浮かべようとするも、思い出すのに時間がかかりそうだったのでデスクに立てている家族写真を覗き込むと、そこには確かに笑顔で僕の頭を撫でている姿があった。

 この頃はこんなに明るく写るのに、今じゃキーボードの音しか聞こえてこない。たまにトイレには降りてくるようだけど、それも僕らが寝静まったのを見計らって、だ。そんな姿を夢想して僕はふと思った。そもそも寝ている間以外はトイレに行けないという生活は、可能なものなのだろうか。例えば僕が学校から帰ってくるのが17,8時だとして、寝るのが24時だとするのと、約7時間の間はトイレを我慢しなければならない。でも、水分を極力取らなければなんとかなるのか?

 水分で思い出したが、食事はというと、親が部屋の前にお盆ごと運んでいる。あまり刺激しないようにと言われているから僕が持っていくのを手伝ったりしたこともない。常に母さんが持っていっているように記憶している。父さんは仕事が忙しいようで、あまり家にはいない。よくある、核家族の風景である。実際父さんがそれほどまでに忙しいのかは知らない。コロナ渦の情勢にもなれた2021年も中盤で、リモートワークも一切無しに切り詰めて仕事している状態に少しは疑問を抱くべきなのではないだろうか、と考えたところで止めにした。この話はどう転んでもいい結末を産まないからだ。

 そんなことを考えながらも、今この時間帯に彼女のキーボードを叩く音が聞こえてくるということは、活動しているということの指標になっている。つまり、彼女は僕ら日常生活を送っている人間とは逆転した昼夜を過ごしているのだから、18時から7時間眠ることを考えれば、むしろ日中トイレに行く必要がないことに気づく。いや、でも、夜中に催して起きることもたまにはあるよな。僕は姉がペットボトルにする派なのではないかという線を捨てきれなかった。いや、諦めたくなかったというほうが正しいのかもしれない。とにかくそれを確認する意味も含めてこの時間まで起きているのだ。気分はさながら受験勉強のためにラジオを垂れ流しながら、そのラジオを聴くのがメインになってしまっている状態だ。僕は隣の部屋に対して耳を澄まし続けた。

 4人しかいない家族の中で、唯一の姉に対して倫理の欠片もない想像をしているだけ罰当たりというか、姉弟の絆に対する裏切り行為なのかもしれないが、僕からすれば最初に家族を裏切ったのは姉のほうだった。むしろ、彼女は刑期を全うしているといっても過言ではないのだ。

 姉は、僕より2個上で、20歳になる。本人によれば、行きたかった大学に行けずランクを落とした先でやっていけるのか不安もあり、最初からやる気はなかったとのことだが、彼女は弟の僕からしても可愛い部類であり、モテていた。実際に早い段階で彼氏を家に連れてきたこともあり、顔を合わしたことがある。長らく彼氏の家に泊まっていたみたいだから、まぁ今の顔を合わせない生活には大分慣れている。

 彼氏から一度だけ電話があった。「彼女は脆い、やさしいが故に社会に適応していけないかもしれない。だからそのときは弟君、きみがちゃんと受け止めてあげてほしい」。今思えば反吐が出るほどキザな台詞だが、僕はそのとき当たり前なこと言うなよ、とも思っていたし、これは裏切りの代償だとも思っていた。そのあと当然の帰結のように姉は学校を辞めた。

 彼女は誰かとチャットでもしているのだろうか。今は夜中の2時頃だが、ただひたすらキーボードを叩く音しか聞こえてこない。もしかするとヘッドフォンをつけてFPSゲームでもしているのかもしれない。ただそれにしたってリズムがまばらだ。ゲームで使うキーなんて今時限られていてAWSDを中心とした移動と小指でシフトを押して走るのに使ったり親指でスペースキーを押すくらいだ。大体のキーは移動のためのものだから押しっぱなしにして、離すことが少ない。さらに付け加えれば、基本的に先ほど挙げたキーは左手のみで操作し、空いた右手はマウスで敵のポイントに努める。右クリックで銃を構えて左クリックで射撃だ。むしろ右手の攻撃関連の操作を快適に進めるために左手に移動関連が集約されているといっても過言ではない。クリック音がほぼ聞こえないことから察するに、彼女はゲームをしているのではなく、何かテキストを打っているに違いない。そして声も聞こえてこないためボイスチャットではなくテキストチャットのはずなのだ。何か文章をしたためているのだろうか。

 でも、それにしては止まらずに打ち続けている。普通、物書きといえば定期的に手は止まり、今するべきでないことを全うな理由を自分に散々言い訳したのち、どうでもいいことに集中しがちだ。この時間ともなれば自然と人恋しくなり、巣にかかった蝶に這い寄る蜘蛛よろしく舌なめずりして吟味する、いうなればブックマークしているお気に入りサイトに無意識にポインターを合わせる。ナニかを期待しているときの人間の顔ほど醜悪じみているものはない、と思う。そういうとき人は何かに獲り付かれている顔をしている。男女に違いはあるのだろうか。姉みたいな清楚と柔和を体現しているような女性でも、鼻の下を伸ばしたような顔つきになるのだろうか。

 はぁっと息をつく。身内を女性と表すのは、汚らわしい。妙に、いやらしい。自分でもそう思う。僕は清楚というカテゴライズから大分遠のいた場所にいるが、それでもオンナ、とか女性とか、遠慮して言い切った表現はするべきではないと思う。特に家族に対しては、急に血の繋がった尊い存在が切り離されて一つのセクシャリティを含んだ記号にしか思えなくなる。僕には唯一血の通った姉弟なのだ。いけないことなのだ、これは。

 僕の鼓動はいつの間にか早くなっていく。隣の部屋の様子が変わったからだ。すでに勉強机からは立ち上がり、壁に耳を近づけていた。下腹部が大きく膨れては、ゆっくりとしぼんでいく。自分の呼吸一つが聞かれている可能性も考慮して、口を閉じ鼻で息をするように意識していた。反比例するように、彼女の呼吸が強くなっている。声を抑えているのか吐息が混じるようになり、ところどころ荒々しさも感じられるタイピング音に変わっていく。

 何をしているのだろう。気になる。早く、覗きたい。実際、2年ぶりくらいになるだろうか、どんな声をしていたかすらも忘れかけていた。その点では姉は本当にプロだ。プロの引きこもりといってもいい。諜報か暗殺か、とにかく隠密行動に長けていることは間違いない。彼女は現代のくのいちだったのかもしれない。色気は十分にある。あとは今の社会に諜報活動が必要になれば、いくらでも需要がやってくるだろう。どうでもいいことを考えていると、波は収まっていた。今にして思えば姉は常に人を引き付けるプロだった。中学、高校と僕が1年の頃に姉は常に3年で、同級生からもからかわれた。忖度なく言っても姉は人気者で、かなりモテた。僕の同級生があれだけ紹介してほしいと下心で接してくるのだから、当時の姉の同級生や、姉が下級生のころの先輩方は放っておかないだろう。でも、中高一貫のエスカレーターだったから僕はいつも姉と帰った。姉の進路に蜘蛛の糸があればいつでも追い払った。姉は蝶だった。

 しかし、姉は裏切った。これは裏切りに違いない。いや、いつかは人と付き合うときもくるだろう。高校を卒業して進学すれば、ずっと一緒だった学校生活はなくなる。僕の世界から色が失せた。

 あるとき、一人で帰っていたときのことだった。家の近所にあるくら寿司の駐車場には一人の警備員が常駐しているほど、道に出るのが困難だった。大通りから脇道が伸び、そこにくら寿司は建っていた。大通りからは大きな看板が見え、徒歩や自転車で来る客はそのまま歩道から入っていくのだが、駐車場は店舗の裏手にあり脇道から入っていかなくてはならなかった。たまに駐車場に入ろうとする車の列で道が埋まってしまうほど。一通ではないものの、寄せないと対向車がつっかえてしまうこともしばしばある、住宅地の中に存在したため、リスクヘッジも兼ねて警備員が置かれていた。もちろんすし屋なのでメインの客層は家族連れが大半であり、家族4人小さな園児くらいの男の子と、少し気取った年長くらいの女の子、父、母。平凡な家庭の姿であったが、小さな男の子はふと立ち止まって警備員に敬礼のポーズを取る。警備員は少し考えてから同じようにぴっしりと敬礼をする。男の子の手を引いていた母親は、「警備員さんは警察ではないのよ」と笑いながら教え、警備員は少し照れたように視線を落とし笑う。無知な子供の前では少々誇らしげに町の安全を守っていますとばかりにポーズをしていたのが、なんだか虚を突かれたように現実に戻されたのが、目を合わせられないほどにそれほど悔しかったのだろうか。男の子は両手をそれぞれ父と母につかまれ、お姉さんの背中を追いかけながら、店の中に吸い込まれていった。幸せを絵に描いたような家族の後姿を一礼して見送る警備員の目には涙が溜まっていた。それから僕は一瞬、快晴だったはずの青色がねずみ色にしか捉えられなくなった。世界から色がなくなってしまう瞬間は、急に訪れるのだ。

 彼女は確かに、蝶だった。しかし今や蛾のように見つからないように隅でじっとして、暗くなったら活動する。行く先はただ光っている場所を求めて。

 いや、そうか。そうだったのか。僕は何も分かってやれなかった。僕はただ自分の幻想を彼女に照らし合わせていただけに過ぎなかった。彼女は何よりも、ずっと前から、蛾だった。窮屈そうに隠れ、それでも尚、光に向かって、求め続ける。彼女はいよいよ光に到達できなかった。全て僕のエゴで縛り付けていただけ。そこには倫理も何も最初から存在しない。自分に都合の良い偶像として、姉を汚していた。

 今その扉を開けよう。時間やタイミングじゃない。あるとすれば、今がその絶好のタイミングに違いない。彼女はずっと光を待っていた。ドアをノックしてみる。もちろん返事はなく、タイピングの音もいつしか止んでいた。彼女は待っている。僕のお姉ちゃんのために、ドアを破壊してでも介入してやろう。

 

 勢いよく全身から体当たりしていった僕の体はそのまま木製の扉と共に倒れこみ、中に入ることが出来た。姉は一糸纏わぬ姿だった。全身が汗ばみ、こちらを振り返る頬は紅潮し、手は秘部を覆っていた。少し水気が滴り、香しさも漂ってくる。電気もつけず真っ暗闇の中、パソコンのモニターの明かりに照らされた彼女の身体は、こちらからは昔お風呂場で見かけたままの可愛らしい背中と尻だった。身体の向こう側も、向こう側から見えるようだ。

 どうやら既に彼女は、光の当たる場所を見つけていた。翌日から僕は向こう側の住民となった。

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