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5.

 怒られ罵られることばかりで、ありがとうなんて暫く言われたことがなかったフィンにとって、ジューンからもらったその言葉は、傷つき弱りきった心を救う魔法の言葉だった。

 そしてその日から今日までの二年間、孤児院での冷遇された環境の中、週に一度二度ほど手伝いに訪れるジューンの薬屋は、フィンが唯一息の吐ける場所となったのだ。



 *



 店の奥でジューンが作業をしている間に、フィンは店内の掃除と薬草園の世話を終わらせ、ジューンが以前用意してくれたフィン用の小さな籠を背負うと、腰にナイフなどの七つ道具を入れた小物入れを巻き付けた。


「ジューンさーん。モーギとシュビュレの芽がだいぶ少なくなってきたので、森にいってきますー」

「ああ、気を付けて行ってくるんだよ」


 手が離せないだろうジューンに向かって大声で出掛ける旨を告げると、同じように大きな声で返事が戻ってきた。


「何度も言うが、あんまり奥には行くんじゃないよ! 毒蛇や凶暴な獣に遭遇するかもしれないからねっ」

「はーい」


 何度も薬草を採取に行った慣れた森だが、ジューンは毎回必ず森の奥には入らないよう注意をする。心配されているのだとわかるから、フィンは決して言いつけを破ることはない。

 いってきますと店を出て、町の外れの森に向かう。森までは大体四半刻ほどの距離なので、フィンは長閑な景色や小鳥のさえずりを楽しみながら歩いてゆく。

 途中の畑でピーターの息子のジャッシュに会い、頼んだ塗り薬は出来ているかと訊ねられたので、掃除の際に確認した店の書付を思い出し、出来ていると伝えた。


「いやあ、助かるよ。昨日畑を荒らしていた獣を追っ払っていたら、うっかり毛虫まみれの低木に突っ込んじまって。…ほら、ご覧の通りさ」


 苦笑いしながら左袖を捲って見せたジャッシュの手の甲から肘上までは、赤い湿疹でびっしりだった。


「うわ…これはツラいですね」

「そうなんだよ。いくら洗っても両手両足が痛いの痒いのって、堪らないんだ」


 掻き毟りたいくらいに痒くて仕方がないのに、触るとチクチクしてびりびりと痛むらしい。

 昨夜はほとんど眠れなかったという彼は、確かに目の下に立派なクマが居座っている。

 症状を聞いて頭の隅っこに何かが引っ掛かった。赤く爛れた腕を見つめて難しい顔をするフィンに、夕方、家に帰る途中で薬屋に寄ると言うと、ジャッシュは畑へと戻ろうとした。


「あの! 毛虫は何色でした?」

「え? ああ、白だよ。頭と腹は真っ黒なのに、わさっと生えた毛は真っ白だった」

「あ、それなら…」


 それを聞いた途端フィンは早足でジャッシュに近寄り、試したいことがあると言って小物入れから小さな薬瓶を取り出すと、突き出してもらった左腕の患部に瓶の中身をそうっと、満遍なく流し掛けた。


「! それはなんだ?」


 ツンと鼻を衝く刺激臭にジャッシュは顔を顰めたが、患部の状態に気を取られていたフィンは気が付かない。


「”酢”です。たぶんジャッシュさんが刺されたのって煤蛾だと思うので、刺さったまんまの毛を酢で溶かしてしまえば…」


 この辺りではよく見かける(すす)のように真っ黒い蛾の名前を出すと、彼は苦手らしくうええっと顔を顰めた。

 少ししてから水筒の水で酢を洗い流す。見た目は変わらず(ただ)れは治まっていないものの、チクチクした痒みも、びりびりした痛みも無くなったようだ。


「すげぇ! あっという間に痛痒くなくなった!」

「やっぱり。煤蛾の幼虫の毛は水で洗ったぐらいでは取れないそうなので、酢を掛けて刺さった毛を溶かしてから水で流すといいらしいです」


 以前ジューンに教えられたことを思い出しながら助言すると、ジャッシュは本当に嬉しそうに笑ってお礼を言った。


「ありがとう! 早速家に帰って酢をぶっ掛けてくるよ!」


 今すぐにでも走っていきそうな彼に、フィンは慌てて声を掛けた。


「あ! 痛みや痒みが無くなっても治ったわけじゃないので、ちゃんとジューンさんに作ってもらった薬を塗ってください! 湿疹をそのままにしておくと、水膨れになってなかなか治らなくなっちゃうので!」

「わかったわかった!」


 本当にわかったのか、ジャッシュは軽い返事をしながら道端に停めてある荷車へと向かうと、大人の拳ほどの赤いものを二つ持って戻ってきた。


「森へ行く途中だったんだろ? 水をだいぶ使わせちまったから、代わりにポムルをやるよ」


 熟していて果汁がたっぷりだというポムルは、つやつやとしていて甘い香りがする。


「あ、ありがとう!」

「おう、気をつけてな」


 上機嫌で手を振るジャッシュと別れ、フィンはやっと森へ向かう。歩きながらポムルの一つを手ぬぐいに包んで背中の籠に放り込み、もう一つを服にこすりつけて汚れを落とすと、そのままがぶりと齧り付いた。

 ジャッシュの言っていた通り、完熟のポムルはとても甘く、唇の端から溢れるほど果汁がいっぱいだ。

 孤児院では果物など滅多に食べられない。たまに領主が慰問に来た際に差し入れで持ってきてくれても、夕飯に一切れずつ振舞われるくらいだ。

 こんな風に丸々一つを食べられる贅沢にほんの少し後ろめたさを感じつつも、フィンは森に着くまで、久々の果物を心ゆくまで味わった。






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