森の中の廃聖堂(後編)
ライナは顔をあげて自分の姿を見下ろした。
ヘドロに足を取られて何度も転び、あちこち傷だらけで血が滲んでいる。
顔にまで泥が飛び、ワンピースは汚水を目一杯吸って体に張り付いていた。
初夏とは言え日が落ちると気温はぐんと下がり、ずぶ濡れの体は鳥肌と震えが止まらない。
「(このまま帰ったらお母さまが卒倒するわね)」
帰ろうにも夕方に迎えに来たスヴェンはいつ仕事が終わるか分からないからと帰してしまった。
一人で帰るにしてもこのままの格好で帰宅し、母一人子一人で苦労させた親に心配をかけたくない。
しかし、だからと言って屋敷の庭に佇んでいる訳にも行かず、ライナは行く宛もなく歩き出した。
アンダーソン家は円形に作られた王都の一番端に位置し、屋敷の正面はアンダーソン家の所有する森になっていて、裏には運河が隣接している。
近くには国で一番高い建物である鐘楼があり、その向こう側には王宮が少しだけ見える。
運河を渡る方法はないし、王宮方面に行っても入れはしない。
ライナは自然と森の中へ足を向けた。
木こりの小屋でもあれば、体を拭いたり休めたりすることができるかもしれなかった。
王宮ではフォルクハルトの部屋付きで、家でも一応貴族なので、力仕事をしたことがなかったライナはふらふらだ。
フォルクハルトは意地悪だが、魔法の使える召使いにさせたほうが早い仕事でもライナにまかせてくれていた。
非常に恵まれていたのだとライナは思う。
ティルダのほうが主として普通なのだ。
魔力もないライナにさせられる仕事と言えば力仕事くらいしかない。
「あら?」
一刻ほどは彷徨い歩いただろうか。
それまで木と葉と草しかなかった視界に、石造りの人工物が映った。
苔むして半分崩れていたが、何かの建物のようだ。
半周ぐるりと回ると、腐りかけた木の扉があった。
長いこと放置されていたようで錠が錆び固まっているが、シロアリにやられてボロボロの閂に何度か体当たりをすると扉が開いた。
…というよりも扉ごと崩れたわけだが。
かび臭い建物内へ入ると、そこはどうやら聖堂のようだった。
割れた大きな窓から月明かりが差し込む。
その明かりを頼りに建物内を見渡した。
朽ちたベンチが並べられた一番奥には錆びた十字架が見える。
石畳の床には草が生え、枯れ葉と枯れ枝が埃と共に建物内を埋め尽くしていた。
一体いつから放置されているのだろうか。
奥へ向かって進んでいくと、所々に石材の山がある。
上を見上げると天井が崩れているようだった。
十字架の手前に祭壇があり、色褪せた布の上に錆びた燭台や割れた花瓶、風化した聖書が置いてある。
十字架の向こう側はボロボロになってほとんど分からないが巨大な女神の祭壇画が壁にかけられているようだった。
角には聖歌の為のオルガンらしきものが置かれ、反対側の角には洗礼に使うのであろう石造りの水盆に清水が湧き上がっていた。
「…すごいわ、こんな立派な聖堂が敷地内にあるなんて」
思わず呟いた独り言は反響して消えていく。
かろうじて壁は残っているから風は防げるし、落ちている枯れ枝を使えば火が起こせるかもしれない。
冒涜かもしれないが、祭壇の布を使って体も拭ける。それに水盆の水で体とお仕着せを洗えそうだ。
もう夜も遅いし翌日も早くから仕事が始まってしまう。
ライナは帰宅を諦めてこの聖堂に泊まることにした。
それからは王宮の召使いをしていた時とは比べ物にならないハードな日々が続いた。
ライナの仕事は中央広場から一日中水を汲み屋敷に運び続けることだったり、国中を歩き回ってティルダの無茶なおつかいに応えることだったり、煙突や屋根の掃除と言った危険なことまで、様々だった。
それは侍女の仕事でないことは明らかだったが、文句を言うことはライナにはできずにいた。
しかも、どの仕事も一人で行うには時間がかかりすぎて、終わるのはたいてい深夜。
にも関わらず徒弟中であることを理由に屋敷に泊まることは許されず、ライナは週のほとんどを森の中の廃聖堂で寝泊まりした。
週に一度の安息日になると徒弟は休みという決まりがあるのでライナも家に帰る。
当然帰って来るたびにやつれ体中に怪我が増えていくライナを、母親とスヴェンは心配した。
しかし仕事にまだ慣れていないことといつもの不運のせいだと誤魔化し、家に帰って来ないこともアンダーソン家の屋敷に部屋を貰ってそこで過ごしていると嘘をついた。
二人は納得していなかったが、侍女になることは下級貴族にとって誉れであるし、何より本人がケロッとしていた為深入りできずにいるようだった。
そう。
周りの心配をよそに本人はケロッとしているのである。
慣れない力仕事で疲弊してはいるがだんだん体力がついてきて、平民の仕事も体験できることが楽しくなってきた。
"うっかり"ライナの賄いの用意が忘れられることが多くて痩せてしまったものの、そのくらいならよくあることなのでストレスにはならない。
普段から鳥や野良犬に奪われたり腐っていたりして食べられないことがある。
何よりも、初日に見つけた廃聖堂はなかなか居心地が良かった。
聖堂内にある水盆は井戸のように綺麗な水が豊富に湧き続けていて、髪を洗ったり体を拭いたりお仕着せを洗濯するには最適だった。
夏であることも幸いしたかもしれない。
枯れ葉を集め朽ちたベンチと破れたカーテンを使って作ったベッドに眠り、鳥の囀りで目を覚ましたら、冷たい湧き水で顔を洗う。
爽やかな朝の風を感じながら枯れ枝で火を起こして街で買ってきたパンを焼き紅茶を淹れて優雅に朝食を楽しむ。
前夜に洗濯したお仕着せは十字架に引っ掛けて干しておけば朝にはパリッと乾く上に、森のふくよかなアロマが染み込むおまけ付きだ。
きちんと休めるわけではないし毎日全身が悲鳴をあげたが、まるで秘密基地で暮らしているような刺激的な毎日だった。
貴族として生まれた人間には簡単に味わえる幸せではない。
そうして日々を満喫していたので、ライナは侍女としての待遇を一切受けられなくても全然平気だったのだ。
わたくしちょっと逞しくなったかも?とほくそ笑んでさえいた。
ただ、業務の上では必ずしも全てが上手くいっていたわけではなかった。