森の中の廃聖堂(前編)
「このたびは侍女に抜擢して頂きありがとう存じますティルダ様」
「まぁあライナ!あのような如何わしいお仕事やめられてよかったわね。歓迎いたしますわ!」
深く頭を下げるライナを人懐っこい弾んだ声が包み込む。
服装は青から濃い枯れ草色のワンピースに変わったが、コルセットや白いエプロンやデイキャップは変わらない。
アンダーソン家の召使いのお仕着せだ。
「わたくしのことは姫様って呼んでね。あと3年したら王家に嫁ぐ予定ですの」
「承知致しました姫様」
「下級貴族のあなたには侍女のお仕事は荷が重いかもしれないけれど、わたくしはライナの味方ですからね。頑張って頂戴」
ティルダは今日もこの国では手に入らない豪華なドレスに、色とりどりの様々な宝石をあしらい、孔雀の羽でできた扇子を手におっとりと微笑んでいた。
頭にはダイヤモンドをたっぷり使った繊細な細工のプラチナのティアラ。
本当はこの国では王族以外はティアラをつけないのだが、長い金の髪に豪奢な装いはよく似合っている。
どうせすぐに王族入りするので、許されているのだろう。
挨拶が済んだライナは先輩侍女に連れられて使用人ホールへ移動した。
アンダーソン家は古いが、王宮に匹敵するレベルの豪邸であった。
元々は女神の子と言われ王家のアドバイザー的な存在を務めた偉人の屋敷であるらしい。
その屋敷の女主人が亡くなったあと長く放置されていたところを数年前に移住してきたアンダーソン家が買い取り改修したのだ。
あちらこちらに大きな肖像画や金の壷、宝石の沢山埋め込まれた刀剣などが飾られ、隣国の財力の高さを思わせる。
「悪いのだけれど、急なお話だったのであなたの部屋が準備できていないの。でも徒弟ですし構いませんわよね?」
「構いませんわ」
使用人ホールへ着くと二十代後半の先輩侍女はにっこり笑んで振り返った。
侍女には個室が与えられるものだが、ライナは王宮でも庶民と同じホールを使っていたので特に気にしない。
徒弟期間なので住み込みではなく毎日家に帰れるのだから関係ないのだ。
「良かった。それじゃ早速だけれど中庭の池の掃除をお願いできるかしら?」
「…あの、他の皆様へのご挨拶は?」
「皆さん忙しいのです。池の底のゴミをさらって頂戴ね」
「畏まりました」
その言葉になんとなく悪意を感じつつライナは頭を下げた。
一緒に働く同僚へ挨拶をさせて貰えないのもそうだが、池の掃除はいくら徒弟中だからと言って侍女の仕事ではない。
しかし、ライナの場合は相手に悪意がない場合も多い。
天性の不運が働いて、のっぴきならない事情でライナがしなくてはならなくなったという可能性も十分ありえる。
学生の頃もよく池に物が落ちて泥まみれでそれを拾うというシチュエーションがあったが、貴族特有の嫌がらせだったのは半分だけで、残りの半分は風で教科書が飛んだり人とぶつかって筆箱が落ちたりと言った不運が原因だった。
案内された池は濁りきり、溝溜のような匂いを発していた。
仕方ないとは言え初日からこれは心が折れそうになる。
用意されていたのはゴミを入れる為の麻袋だけだった。
白いエプロンを脱ぎ、スカートを腿まで上げて結び、腕まくりをする。
素足をヘドロへそっと突っ込むと、ひやりとした冷たさが体の芯を走る。
ライナはふむ、と気合いを入れ直すと、言われた通り池のゴミを拾い始めた。
「まぁ見て、汚い」
「あらあら、あんな格好ではしたないわ」
通りかかる使用人から嘲笑が飛んでくる。
時にはご丁寧に、ライナの目の前で池にゴミを投げ入れる者もいた。
途中、先輩侍女が昼食を運んできた。
「ライナさん、食事よ。その格好では使用人ホールに入れませんから、お持ちしましたわよ」
「お気遣い頂きありがとう存じます」
「大変でしょうけれど、今日中にすべて終わらせてくださいね。明日姫様のご友人が遊びにいらっしゃるそうですから」
午前中いっぱい池の底をさらったが、まだ一部しか掃除できていない。
気が遠くなる。
魔力さえあればここまで苦労はしないのだろう。
しかし苦労すればできることなら、ライナはするしかない。
魔力がないために、苦労することさえできないことが侍女の仕事にはたくさんあるのだ。
できないことが多い分、できることはなんでもやらなければならない。
初日の厳しい洗礼が終わったのは、日付の変わる直前だった。
「あら、ライナまだお仕事中だったの?徒弟中なのだからちゃんと帰らなければだめよ」
泥だらけでどうやって帰ろうか途方に暮れていると、夜の散歩を楽しんでいたティルダと付き添いの先輩侍女が通りかかる。
ティルダは清潔そうな白い絹の夜着に身を包み、柔らかなストールを羽織っている。
ライナは、ティルダと対照的な自分の姿を恥じて両手でスカートを握り深く頭を下げた。
敬意を示したというよりは自分の姿がティルダの目にできる限り入らないように隠したというほうが正しい。
「恐れ入りますがどこかで体を洗って着替えさせて頂けませんでしょうか。このままでは帰れません」
「魔法で体の汚れを落としたら宜しいのじゃない?…あっ魔力がないのでしたわね、ごめんなさい」
ティルダは気遣わしげに眉を寄せて白魚のような手を頬に当てた。
「庭師の手洗い場が温室にあるのだけれど、今日はもう庭師が休んでいて、開けてあげられないのよ。みんな魔法を使って綺麗にできるから、使用人用の入浴場は用意していないし、困ったわねぇ」
「姫様、今日は申し訳ないけれどこのままお帰り頂いたらいかがでしょう。もう夜遅いですから泥だらけでも人の目には触れませんでしょう?」
「そうね。ライナ本当にごめんなさい。今日のところはそうして頂ける?」
背後から先輩侍女が提案し、ティルダは顔を綻ばせた。
ライナは深く頭を下げたまま承知するしかなかった。
やがて、気を付けて帰ってねと優しい声をかけてティルダが去る。