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王子の召使いをクビになりました(後編)

部屋の中にはアッサムの豊かな香りが広がっていた。


「あの、わたくし粗相を?いえ、いつもかなり不敬とは存じますが…」

「いやそうじゃない。というか不敬の自覚があったのか」


ライナは震える指をもう片手で握り込み、目を瞬かせた。

それがライナの精一杯の動揺であると知っているフォルクハルトは頭を抱える。


「半年前に私に婚約者ができたのは知っているな?」

「えぇ、アンダーソン家のティルダ様ですね」


アンダーソン家は隣の大国ナスタージャ帝国の大商家だ。

数年前にイーゼンハイム王国に移住し、この国の交易を一手に担うやり手である。

爵位こそないものの国王からの絶大な信頼があり、アンダーソン家と王族の婚約は誰にとっても至極当然といった雰囲気だった。


末の娘であるティルダは十八歳。貴婦人大学を卒業したばかりで今は自宅の屋敷で花嫁修業中だ。

いつも最先端のドレスに身を包み、豪奢な金の長い髪をゆるふわウェーブにして気品溢れる笑顔を振りまく美人である。


当然魔力も申し分なく、ライナはこんな完璧な人が世の中には存在するのかと嘆賞したものだ。


「そのティルダ嬢が、婚約者のいる身でお前を部屋付き女中で使うのは破廉恥だと言い出したそうだ」

「…ごもっともですわね。本来は男性の近侍が身の回りの世話をすべきでしょうから」

「あぁ、陛下も、第一王子になって一年経つのだからもう王宮にも慣れただろう、と仰せだ。私に拒否権はなかった」


フォルクハルトは次期国王に内定していた腹違いの兄が失踪して、一年前に第一王子になった。

それまでは離れにある鈴蘭の塔に幽閉されていた。

王子になる時、環境が変わるのに見知らぬ者の中に一人で置かれるのは負担が過ぎるだろうと国王の配慮により好きな従者を一人選べることになり、ライナを部屋付き女中に指名したのだ。


ライナも丁度大学を卒業した所で徒弟先に困っていた為、喜んで承諾した。

しかし、その配慮ももう限界なのだろう。

本人達が姉弟のようにしかお互いを思っていないとしても、年頃の男が年頃の女をそばに仕えさせていれば邪推する人間がいて当然である。


「それは仕方ないですね」

「それでだ。ティルダ嬢がお前を侍女に迎え入れたいと申し出ている」

「はい?わたくしが、侍女ですって?」


ライナは眉を寄せた。

普通なら喜ぶべきところだろうが、ライナの場合は事情が違う。


「わたくし侍女としてできることはほぼございませんが」


侍女は魔力で主人を着替えさせたり化粧をしたりするのだ。

魔力のないライナに勤まるとは思えない。

話し相手にくらいはなれるかもしれないが、相手は隣国の大金持ちだ。貧乏下級貴族のライナが相手できる話などないだろう。


何よりも侍女の世界は貴族の世界である。

大学でも魔力がない為に散々虐められてきたライナが、侍女仲間達と上手くやっていける気が全然しない。


「それは私も言ったのだがな。ライナは魔力がない上無能で気も利かずティルダ嬢のような高貴な女性には似つかわしくないと」

「酷い言い様ですね」

「だが、ティルダ嬢は、魔力がないとは言え貴族なのだから女中などという平民の仕事をさせておくのは外聞が悪いからと譲らなかった。男性の部屋付き女中などして、婚姻に差し支えたら可哀想だと」

「まぁ、有り難いことですわ。そういうことならば謹んでお受け致します」


侍女という仕事には不安が尽きないが、着の身着のまま王宮から放り出される訳ではないことがわかり、ライナはひとまず安心した。

あっさり受け入れたライナが不満なのか、フォルクハルトが睨みつける。


「私としてはアンダーソン家で迷惑をかけるくらいなら結婚してくれたほうが安心なんだがな…」

「絶対に魔力のない子供が産まれると分かっていてわたくしを貰ってくださる殿方がいらっしゃる訳ないでしょう。ご存知の通り我が家は父が鬼籍ですので、わたくしが稼がなければならないのです。今は母が家庭教師で細々と食いつないでおりますが、これから母も歳を取っていきますから。侍女ともなれば正式に就職した暁にはそれなりのお給金が約束されますでしょう?有り難いお申し出です」

「分かった、お前がそう言うなら話を進めよう。いつから異動になるかはまた追って伝える」

「承知致しました」


新聞を握り潰してテーブルへ置いたフォルクハルトが立ち上がり、ライナはその背中に用意されていたジャケットを着させた。

家庭教師が来る時間だった。


フォルクハルトは一年前まで王子教育を受けずに育ってきた為、現在大学へは通わず王宮で将来国王になる為の教育を受けているのだ。

ライナはすぐに勉強道具を揃えて護衛に手渡す。


「いってらっしゃいませ」


カーテシーで部屋から送り出すとフォルクハルトは振り返ることなく勉強部屋へと向かっていった。


静かになった王子の自室を見渡す。感傷に浸る暇はない。

ライナは部屋の掃除を始めた。

魔力さえあれば魔法で簡単に済む掃除も、ライナでは人の何倍も時間がかかる。


物を片付け、埃を叩いて、家具や調度品や窓を一つ一つ丁寧に拭く。床に箒をかけてモップで磨けば完成だ。

洗濯係に洗い物を持っていって、調理場に寄り勉強で疲れたフォルクハルトの為に午後のティータイムに出す甘味を指示する。

使用人ホールへ戻るともう昼食の時間だった。


午後は他の女中と共に昨夜の晩餐会で使用した薔薇の宮殿の片付けと掃除だ。

賓客の泊まる客室まである広い宮殿をすべて掃除し終えると、フォルクハルトが夕食の為に食事の間へ行っている間に再度王子の居室の片付け。

自室に戻ってきたフォルクハルトにお茶を淹れたら、入浴の準備をし、寝室に香を焚き本や就寝中の飲み水を準備する。

夜間担当の近侍に引き継ぎをして、一日の仕事は終了だ。



「じゃあ、また明日ねライナ様!」

「また明日ね」


住み込みの女中仲間と別れ、使用人通路を使って宮殿の脇へ出た。

奥には鬱蒼たる森が広がっている陰鬱な場所だ。

門まで出れば朝別れたスヴェンが迎えに来ているはずだった。

スヴェンと共に家に帰り、母親と夕食を取り、ゆっくりお風呂に入ってお気に入りの本を読みながら就寝する。


これがライナの一日。

しかし、この日は少し違った。


「遅い!何していたんだ」

「王子!?」


木々の陰に黒いマントを羽織ったフォルクハルトが立っていたのだ。

ここはライナの他にも、自宅に帰る徒弟中の使用人が多く通る場所なのだが、有り得ない光景を想像だにしない他の者達は気付かなかったようだ。


思わず大きな声を出してしまったライナは口を押さえた。

人に見つかれば王子と逢い引きしていると誤解されかねない。

小声でフォルクハルトを問い詰める。


「お一人で何をなさってるんですか。そろそろ王子として自覚を持たなくてはなりませんよ。護衛もつけずに出歩くなんて」

「うるさい。行くぞ」

「どこへ?わたくし表で騎士が待っていますので…」

「あの男なら帰した。今日は私が屋敷まで送る」

「困ります。王子だって自室にいない事がバレたら大変ですよ」


いつも通りライナの話を微塵も聞いていないフォルクハルトが指を鳴らす。

するとどこからともなく重く乾いた羽音が聞こえてくる。

そして森の奥から巨大なフクロウのような生物が現れ、フォルクハルトの隣で羽根を畳んだ。

フクロウはフォルクハルトの身長ほどもある。

クルル、と小鳥のような声を出して頭を振りながらお辞儀をする姿はフォルクハルトによく懐いている事を示していた。

これはフォルクハルトの使い魔で名前をベアテと言った。


「伏せろ。…いいこだ」


ベアテはすぐに言われた通り羽根を広げてその場に伏せる。

人を乗せる為の体勢だ。

ライナは諦めて溜息をついた。

ここで問答をして誰かに見つかるよりはフォルクハルトの言う通りにした方がましだ。


羽根のちょうど中心の頭側にライナを座らせるとその後ろからフォルクハルトが手綱を握る。

ぴぃっと一鳴きしてベアテが飛び立ち、あっという間にイーゼンハイムで一番大きな建物である王宮が小さくなっていく。


「王子、魔力の制御ができないのに乱用するのはいかがかと存じます」

「このくらいならなんともない。ベアテを呼び出すのに魔力はほとんど使っていないからな」


バルヒェット家の屋敷までは徒歩でも二十分かからない。

この分ではすぐに到着してしまいそうなものだが、フォルクハルトはベアテを別方向へ誘導していた。ライナは首を傾げた。


「屋敷へ送ってくださるのでは?」

「お前、本当にアンダーソン家の侍女になる事で納得したのか?」


不機嫌そうな声が耳元に届き、ライナはあぁと合点がいった。

わざわざ寝所に入ったあとにお忍びで抜け出してライナを送ると言ったのは、本音で話がしたかったようだ。

フォルクハルトの自室では、人払いをした所で護衛や最低限の女中は残る為、本音で喋れるわけではないのだ。


「わたくしは次の仕事があるのなら本当に構いません。もともとどこにも雇って頂けなくて王子の召使いになっただけですから」

「可愛くない女だな相変わらず」

「なんですか?王子、寂しいのですか?」


からかうようにニヤついて振り返ろうとするライナを「馬鹿か、前を向け」と制してフォルクハルトはベアテを旋回させた。


ライナは、お姉さんぶってからかうと顔を真赤にして怒るフォルクハルトを見るのが好きだった。

最近は随分大人になってしまって簡単にあしらわれてしまうのだが。


やがて運河が見えてくる。

運河沿いにはアンダーソン家の屋敷があるはずだ。

そこから船を海に出して交易を行っているのだ。


薄い雲を張った春の夜空は爽快だった。

生ぬるい風が頬を滑り、時折咲き乱れる花の香りが鼻をくすぐっていく。

運河まで来るとベアテは高度を落とす。

鈍く光る水面が水の流れを感じさせない程ゆるゆるとうねっている。

水面に揺らめく月と星がベアテの影でかき消えるのをライナは覗き込んでいた。


ベアテに乗せてもらうのは、子供の頃から数えて二回目だ。

自分ではできない体験にライナの心は踊った。


「気兼ねなくいびり倒せる下僕が減るのは、少し不便だな」


耳元で低く早口でまくしたてる小さな声が降ってくる。

ベアテに乗っている分距離が近くて、まるで子供の頃に戻ったようでくすぐったい。

ひねくれた言い方をしているが、離れがたいと思ってくれているのが分かり笑みがこぼれた。


「素敵な婚約者ができて、民から愛されて、騎士達からの人望もあると聞いておりますよ。この一年で王子はご立派におなりです。わたくしはもうお役御免ってやつですわ」


それまで幽閉されていたフォルクハルトが王子になる為には、人には言えない壮絶な苦しみに耐えなくてはならなかった。

ライナは背中を焼かれて激痛に叫ぶフォルクハルトの姿を思い出す。

なりたかった訳でもない王子という立場になる為にフォルクハルトは苦しみ抜いた。

召使いになったとき、その背中を守っていこうと誓ったことは本人には内緒だ。


「そうか。それなら、良い。余計な気を揉んだようだ」

「王子、頑張ってくださいませね」

「お前がな。いつもの調子でティルダ嬢に悪態をつくんじゃないぞ」


それからは早かった。

もともと雑用ばかりしていたので引き継ぎも簡単で、王家が用意した近侍にフォルクハルトのお茶やお菓子や本の好みを伝えるだけで済んだ。

淡々と毎日は進んだ。

ライナもフォルクハルトも何も変わることなく今まで通りの日々を送る。

そして、二人が過ごした鈴蘭の塔が白く小さな花で埋まる初夏を迎えた頃、ライナはひっそりと王宮の召使いを退職した。

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