はじめまして不運です
カラーン、カラーン…
街外れの鐘楼が高らかに鐘を鳴らし辺境の小国イーゼンハイム王国は朝を迎えた。
中央広場から放射状に伸びる街路では次々に国民が起き出してきて、慌ただしく一日の準備を始める。
由緒正しいバルヒェット男爵家の一人娘であるライナは鏡の前で女中に髪を整えられながら清らかな鐘の音を聞いていた。
「ライナ、早くなさい!もう仕事に行く時間でしょう」
「今行きますお母さま」
階下の母親の声に答えながら最後に鏡をチェックする。
ウェーブのかかった黒髪は右側に寄せてみつ編みにし、白いリネンのデイキャップをかぶっている。
服装はコルセットで締めた足首まである青色のワンピースの上から白いエプロン。
これはライナの勤めている王宮の召使いのお仕着せだ。
乱れがないのを確認すると、ライナは階下へ降りた。
「もう、昨日がお休みだったからって、気が抜けているのではなくて?みんな既に外に出ていますよ」
「 はぁ…短いお休みだったわ。仕事に行く気が全く起きません」
一階では母親が女中の出した紅茶に口をつけている。
ライナはテーブルには付かず、立ったまま母親の朝食の中から果物を摘んで食べた。
そして窓際の祭壇へ向かうと女神像にササッと簡易的な祈りを捧げ、一緒に置いてある亡くなった父親の肖像画にキスをした。
「何を言ってるのこの子は。昨日は第一王子の誕生祭で特別休暇だったのでしょう?臨時でお休みが頂けただけ有り難いとお思いなさいな」
「分かっております。きっと今日は一日晩餐会のお片付けで終わるんだわ」
「朝食はどうするの?」
「広場で買っていきます。いって参りますお母さま」
「気をつけていっていらっしゃいライナ。心を込めてお仕えするのよ。フォルクハルト様によろしくね」
母親の頬にキスをして玄関ホールへ向かうと、バルヒェット家の騎士であるスヴェン・マイヤーが扉の前に立っていた。
「おはよう、ライナ嬢。昨日はよく休めましたか」
「おはようございます、スヴェン。あなたこそ」
スヴェンはライナより九歳歳上の騎士だ。
元々は代々王家の騎士団に所属している中級貴族でバルヒェット家よりも身分が高いのだが、大恩あるというライナの父親が死んだあと、その代わりを務めたいと言って八年前にバルヒェット家の騎士に志願したのだ。
なので地位があべこべで、スヴェンはライナに気安く話すしライナはスヴェンに敬語を使っている。
「私はライナ嬢の護衛をしている方が気が楽です。貴女という人は目を離すとどんなことに巻き込まれているか分かりませんからね。休みの日のほうが心配で胃が痛い」
「スヴェンは職業ノイローゼだと思いますわ。いい年なのですからそろそろ家庭を持てば心休まりますでしょうに」
「ライナ嬢が一人前になったら考えますよ」
ライナが歩き出すとその後ろをスヴェンがついてくる。
小さな庭を通って砂利と石灰を敷いただけの通りに出るとすでに街は活気付いていた。
狭い道を貴族たちの乗った馬車が絶え間なく行き交う。
昨晩降った雨を馬が盛大に蹴り上げてライナにかかるのをスヴェンはマントで阻止した。
下級とは言えライナも貴族なので馬車を使うべきなのだが、家長を失ってお金のないバルヒェット家ではもっぱら移動手段は徒歩だ。
そう大きくない国の小さな王都だ。
馬車を使わなくても特段不便はない。
「バルヒェット様!先日は誤った商品を届けてしまい大変失礼致しました!」
「いいのよ。わたくしは慣れていますから」
「おやバルヒェットのお嬢様。この間欠品だった刺繍糸仕入れましたよ」
「ありがとう。今日は間に合っているわ」
ライオンを象った車避けの置物を通り過ぎると中央広場に続く市場だ。次々に商人達が声をかけてくる。
朝食の材料を求める庶民や遊び回る子供たちと、物を売り歩く商人がごった返して朝の市場はお祭り騒ぎだ。
「きゃあ!ごめんなさい!」
「大丈夫?気を付けて」
一人の女性がぶつかってきたが、これもいつもの事なのでライナは軽く流して、お目当てのパン屋へ向かう。
「おはようザクセン。今日はライ麦パンはある?」
「申し訳ねぇバルヒェット様。今日の分は今さっき売り切れちまった所で、昨日焼いた分ならあるんですけど」
「それで結構よ。あっ」
いささか固くなったパンを受け取ってエプロンのポケットから銀貨の入った頭陀袋を取り出そうとすると、それが無くなっていることに気付いた。
すられたのだ。
おそらくは先程ぶつかった女性であろう。
これもよくあることなのでライナは溜息をついてスヴェンを振り返る。
「悪いのだけれど、お支払いしてもらえます?」
「…さっきの女を捕まえてきましょう」
「いいです、放っておいて。時間の無駄ですから」
元々、こういう時の為にライナの頭陀袋には大した金額を入れていない。
同じようにチーズを買って歩くと、宿屋を兼ねた酒場の前で茶トラ猫が足にすり寄ってくる。
「おはよう野良猫ちゃん。今日もチーズを貰いに来たの?」
ここを通るといつも餌をねだる馴染みの猫だ。
しゃがみこんでその頭を撫でてからチーズを千切って食べさせてやる。
ゴロゴロと喉を鳴らす猫が可愛くて、いつもチーズを少し多めに買ってしまうのだった。
「昨日は来られなかったけれど、ちゃんとご飯にありつけたかしら?」
「この子はいつも酒場で、ライナ嬢よりよっぽどいいご飯を客から貰ってますよ」
「ふふ、世渡りが上手なんだから」
一生懸命チーズを食べる姿を見ていると、真上でカラスが糞をした。
スヴェンがいち早く気付いて傘を広げそれを受け止める。
「ほら、早く行きますよ」
「分かりました、また明日ね猫ちゃん」
スヴェンの差し出した手を取って立ち上がる。
少し歩けばもう中央広場。
木々には花が咲き乱れ、まだ朝だというのに旅芸人がヴァイオリンを弾いていて賑やかだ。
中央広場の中心には大きな噴水がある。
庶民達の生活を支える公共の水汲み場であり、豪奢なライオンの石像から水が流れ落ちる様が目を楽しませてくれる装飾設備でもある。
ライナはその縁に腰掛け、パンとチーズで簡単な朝食をとった。
中央広場は王都中の街路が集約する場所である。
その中で一番大きな道路が王宮に繋がっている。
王宮に出仕するのであろう馬車が続々とその道路へ向かっていた。
パンを鳥に取られたライナは早々に朝食を諦め、徒歩でその後を追う。
「では、行って参りますスヴェン」
「仕事が終わる頃また迎えに参ります。私がいなくても怪我をしないように」
「えぇ、ありがとう」
門に着くとスヴェンと別れ、ライナは衛兵にお辞儀をして中に通して貰った。
使用人用の通路を使って裏口から使用人ホールへ入ると、すぐに同僚達が駆け寄ってきた。
「おはようライナ様。昨日のお休みは満喫できた?」
「おはようヘッダ。お母さまとピクニックに行く予定だったのだけれど、雨が降ってしまったから」
「もう、相変わらずとんでもなく不運なんだから」
「せっかくの誕生祭に雨だと思ったら、ライナ様がお出かけしようとしていたからだったんだね」
クスクスと笑い合う彼女達は皆、女中として働く平民の娘である。
王宮の召使いは、侍女や近侍など貴族が勤める職業もあるが多くは平民が担っている。
普通、召使い達の中でも貴族は個別に部屋を与えられているのだが、ライナの場合少し事情が特殊で平民の召使い達が共同で使う部屋を一緒に使っているのだ。
貴族にタメ口をきくなど本来有り得ないが、それではライナは孤立してしまうので平民の同僚達には友達として接して欲しいとお願いをしている。
「あたし達はお祭りを観に広場に行ったんだよ。でも雨でパレードは中止だったの。きっと王子殿下は怒っていらっしゃるよ」
「また八つ当たりされてしまうわね。ふふ」
「いつもお優しい王子殿下だけど、ライナ様には厳しすぎるよね。でもライナ様は全然へっちゃらだからすごいよ。貴族様ってみんなそうなのかな?」
「皆さん!そろそろ仕事を始める時間ですよ!お喋りはおしまい!」
雑談をしていると使用人ホールに家政婦長が入ってきた。
一人の女性を従えている。
「仕事の前に新しい従業員を紹介します。ほら、ご挨拶して」
「今日から侍女の徒弟になりました、ノルデン子爵家の三女リビーです。どうぞよろしく」
この国では、貴族の子供達は家庭教師などに勉強やマナーを教えて貰いながら育ち、十五歳になると三年間自分の将来に合わせた大学に通う。
それは騎士大学であったり従者大学であったり貴婦人大学であったり魔法大学であったりするのだが、どの大学に通ったとしても十八歳で卒業したのちは二年間自分の就職したい現場で「徒弟」というものを行う。
要するに見習いである。
無給で親元から職場に通い、雑用などをしながら将来自分のする仕事を覚え、適正を見るのだ。
二十歳になると成人とされ親元を出て、徒弟先に住み込みで就職したり、女性であればそこで知り合った男性と結婚したりする。
就職をする可能性のない身分の高い女性であれば徒弟期間中親元で花嫁修業を行うこともあるが、修道院などに徒弟することもあった。
このリビー・ノルデンも下級貴族として将来侍女になるべく、徒弟に入ったようだ。
ライナも現在十九歳で、徒弟中である。
ただし、侍女見習いではなく、平民の仕事である部屋付き女中をしている。
それも、第一王子であるフォルクハルト・シュトラウスの部屋付きだった。
「それじゃ仕事を始めて頂戴!あぁ、ライナ・バルヒェット。あなたは王子がお呼びですからすぐに向かうように」
「承知致しました」
早速部屋に呼びつけられ、ライナは内心溜息を吐きつつ、家政婦長にカーテシーと呼ばれる淑女のお辞儀をした。
スカートをつまみ、片足を引いて膝を曲げて深く頭を下げる礼だ。