酒場の猫と千年生きた葡萄の樹(3)
もしかして酒場のオピーマが流れ出していて、知らない間に吸い込んでしまったのかも?
ライナは何度か目を擦った。
そしてもう一度、そーっと裏庭を覗き込んでみる。
「だぁからー、店が開いてないんだから仕方ないだろー?」
「あたくしの美しい葉が枯れてしまったらどうするの!」
「夜には開くでしょ。どうせ店主が二日酔いなんだって。そしたらおれが取りに行ってやっからさぁー」
「あーた猫なんだからどっかから忍び込んで持ってらっしゃいよ!」
「うるさいなぁー」
やっぱり喋っている。
というか、ちょっと喧嘩している。
猫はめんどくさそうにあくびをして、葡萄の樹は身振り手振り、いや身振り枝振り?猫に何やら訴えているようだ。
「どうしたっていうんです?」
「シーッ」
音をたてないように観察していると、後ろでスヴェンが呆れた声を出した。
ライナは飛び上がる。
スヴェンにはこの声が聞こえていないらしい。
スヴェンの声は猫と樹にも届いたらしかった。
それまで騒いでいた一匹と一本――いや敢えて二人と呼ぼう――は何事もなかったかのように静かになった。
再度覗き込むと、そこには昼寝している猫と風に揺れる樹があるばかりだった。
「……もうどこか行ったかしら?まさか人がいるなんて油断したわね」
「……どうかな。どうせ人間におれたちの声は聞こえてないはずだけど。おれが確認してこようか」
しばらくすると、動かないまま二人は小声で会話を始める。
猫は樹と目を合わせないまま徐に起き出して、あくびをしながら酒樽の上で伸びをした。
そしてぴょんと飛び降りて、素知らぬ顔でライナのほうへ歩いてきた。
先程までの男らしい声からは考えられないくらい可愛い声でライナにすり寄ってくる。
「ゥナーン」
「あの…つかぬことお伺いしますけれど、あなた方は一体何者なんですの?」
よく見たらいつも出勤途中でチーズをあげている野良猫だ。
ライナはしゃがみこみ、意を決して猫に話しかけた。
猫は猛ダッシュで裏庭へ戻っていった。
「やばい!あの子気付いてるぞ!」
「そんなわけないわよ!あたくし達の声が聞こえるなんてあの子こそ何者よ!」
「あっわかった!」
何やらこそこそ相談している猫と樹に、ライナは近付いていく。
猫が振り返る。
そして真後ろにいるライナに驚いてボフッと毛を逆立てた。
尻尾が狸みたいに太くなってしまっている。
ライナは噴き出した。
猫は及び腰で体を低くしながらライナを見上げ、そろそろと尋ねた。
「あんた、天界の人?」
「いいえ、普通の人間ですけれど」
「うわ、やっぱおれの声聞こえるんだ!あ、じゃあ、ねぇ、天界の物持ってるとか?」
猫がまんまるの目で首をかしげ、ライナも同じ方向へ首をかしげた。
ポケットを叩き、思い当たる物を探る。
「特に変なものは持っておりませんが…あ、これでしょうか?聖堂で拾った栓抜きです」
「それだ!トカイアス、この子天使の物を持ってるよ」
ライナがエプロンのポケットから栓抜きを取り出すと、猫は前足を宙でちょいちょいとやってから葡萄の樹を振り返った。
葡萄の樹は納得するかのように前後に枝葉を揺すった。
「なるほどねぇ、そりゃ仕方ないわねぇ。お嬢さんこっちいらっしゃい。あたくしは樹齢千年の葡萄、貴婦人のトカイアス。それでこっちのなんの変哲もない茶トラ猫が」
「おれ、パトリシウス」
「ご丁寧にありがとう存じます。わたくしはバルヒェット家の長女ライナと申します」
スヴェンがライナを不気味そうな目で見る中、ライナは二人に向かってカーテシーで挨拶をした。
貴婦人のトカイアスと名乗った葡萄の樹も腰を、いや幹を折り曲げてお辞儀をして返してくれた。
トカイアスの隣に座り彼女を見上げていた猫パトリシウスも、同じように頭を下げた。
「あたくしは天界からこぼれ落ちた種で育った葡萄で、パトリシウスは天界の門番の眷族なのよ。本当なら関係者以外にあたくし達の声は聞こえないの。隣にいるあーたの騎士には何も聞こえてないじゃない?」
「そうみたいですわね。わたくしの頭がおかしくなったみたいな顔しています」
「天使の栓抜きを持ってるせいで、あんたも天界の関係者ってことになってて、それでおれたちの声が聞こえるみたいだな」
二人の説明に、ライナは重たい銅製の栓抜きをしげしげと眺めた。
天使の銅像が持っていたものだが、本当に天使の持ち物だとは知らなんだ。
「どうしましょう、わたくし聖堂から勝手に持ち出してしまって…すぐにでもお返ししなくちゃ」
「いんや、そのまま持っておけば?いつでもおれ達と話せるよ?おれ、ライナ好き。いつもチーズくれるもん。話せて嬉しい」
「人間界にある聖遺物なんだから、人間が持ってたっていんじゃない?」
慌てるライナを二人がゆるく宥める。
いつもチーズをねだる猫が自分を好きだと言ってくれるのはたまらなく嬉しい。
しかしライナはおろおろと心配したままだ。
「でも、持ち主の天使様はお困りじゃないかしら…」
「オホホ、あーたこれが何をするものかご存知?これは特別なワインを開ける為の物なのよ。あたくしの実を使って天使が作るワインなの。だからあーたが持ってていいとあたくしが言ったらいいの。お分かり?」
「そ、そうなのですか…」
かなり強引な理屈に思えるが、千年も生きている樹の言うことだ。
ライナはありがたく受け取ることにして、栓抜きを大事に握り締めた。
トカイアスは見た目は普通の葡萄の樹だ。
ライナと同じほどしか背丈なく、手首ほどの太さの蔦状の幹が何本も集められ綺麗に編み込まれている。
葉枝は伸び過ぎないように短くカットされ、支柱に巻き付いている。
葉の中にはいくつか若い実が成っているのも見えた。
ライナは一見樹齢千年には見えないトカイアスを眺め、その美しさにほぅと息を吐いた。
「トカイアス様はワイン用の葡萄でいらっしゃるのですね」
「貴婦人のトカイアスと呼んで頂戴。様はいらないわ。あたくしのワインは天界では超一級品よ!天使も神々も悪魔でさえもこぞって手に入れようとするプレミア物なのよ。何せ人間界で千年も生きてる葡萄なんてあたくしぐらいなものだもの」
「トカイアスのワインはデウトロノミオン様も大好物なんだよなぁ」
「えっデウトロノミオン様ですって?」
まさかの単語が出てきたことにライナは驚いた。
きょとんとパトリシウスが耳を立てる。
「あれ?さっき言わなかった?おれ、天界の門番デウトロノミオン様の眷族なんだ」
デウトロノミオンと言えば、おとぎ話に出てくる名前だ。
《門番のデウトロノミオンと乾杯をして手懐けると、彼の背に跨り神の国へ出発します》という一節。
謎だらけのおとぎ話の中でも一二を争う謎の一つだった。
貴婦人のトカイアスの喋り方はデ○ィ夫人