酒場の猫と千年生きた葡萄の樹(2)
三日目の朝、ライナは心配そうなアガーテに見送られて出勤した。
聖堂で生活することについては、安息日には必ず帰宅するとこを条件になんとか許して貰えた。
「あらライナさん。よく顔を見せて頂戴、どんな顔をして戻って来られたの?」
「まぁまぁエミーリエそんなに怒らないであげて。反省しているじゃないの」
衣装部屋に、侍女にヘアセットをさせているティルダへの挨拶に行くと、ニッコリと笑いながら忌々しそうにライナを睨みつける先輩侍女がいた。
ティルダは髪を梳かれながら優しげにそんな侍女を制する。
「ライナだってもう仕事をサボるようなことはしないわよね?この二日間の埋め合わせはして頂くけれど、許してあげますから、これからは心を入れ替えて頑張ってくださる?」
「姫様は甘すぎますわ!この子は甘えているのです。ちょっと男好きする顔しているからって、自分の騎士をたらし込んで仕事をサボったのですよ!?」
「分かっているわエミーリエ。罰としてみんなの前で鞭打ち十回。それで許してあげて頂戴?ね、わたくしに免じて」
ティルダは優しくおっとりと女神のような態度で寛大を装っているが、二日病欠しただけの見習いに対する罰にしては重過ぎるのは明白だ。
ライナはここ数ヶ月の間で仕事を失敗して何度か鞭打ちを受けたが、この家の鞭打ちは惨い。
男の使用人もいる中で裸に剥いて柱に縛り付け、親指以上の太さがある藤の枝に牛革を巻いた短鞭で背中を叩かれる。
これまで多くとも五回ほどだったがそれでも背中はズタズタに裂けた。
十回など受けたらどうなるか分からない。
これまでであれば侍女でいさせて貰えるならと、甘んじて受け入れていただろう。
しかしライナはそうも行かなくなった。
ライナが傷付けば母親とスヴェンが眠れないほど心配し、フォルクハルトはまた王宮を抜け出し、宮廷医が叩き起こされる羽目になることがわかったからだ。
ライナは深く下げていた頭を上げ、初めて反論した。
「申し訳ございません姫様。わたくしの体に傷を見つけ次第、件の騎士が王宮に駆け込むと申しております。わたくしは構いませんが、ご自分が下げ渡した召使いが大事にされていないと知ったら王子殿下は姫様をどうお思いになるでしょう…」
頬に手を当て、わざとらしく困惑の表情を浮かべる。
すると突然スツールから立ち上がったティルダが大股で歩み寄り、ライナの頬を平手で張った。
乾いた音がして、熱さにも似た痛みが頬に走る。
衣装部屋は静寂に包まれた。
侍女達も護衛達もいつも穏やかなティルダのこんな姿を見たのは初めてだったに違いない。
目に角を立て別人のように激しい表情をしたティルダは、すぐに優しい表情に戻り眉を下げた。
「あ、あらごめんなさい。そんなつもりではなくて…そう、事故よ、ねぇ皆さん。わたくしいつもあなたのことを大事に大事に想っておりますわ。いつも庇って差し上げるじゃないの。あなた誤解しているのよライナ」
「そうでしたわね、姫様。今のは鞭打ちの代わりの罰だと思って喜んで受け入れます。今回だけは自分でぶつけたことに致しましょう。わたくしだって姫様が王子殿下に嫌われてしまうのは本意ではありませんもの」
ライナは優雅にカーテシーをして、息を呑む侍女達を置いて部屋を出た。
反抗すれば今後ライナへの風当たりは強くなるだろう。
しかし、新人で見習いだからって、もうこれ以上黙ってやられているつもりはなかった。
そのあとは平和だった。
あれだけ嫌がらせをしていた侍女達がライナを遠巻きに見るにとどめ、ライナは作業部屋で黙々と使用人の下着を繕うことができた。
昼を過ぎて、エミーリエに呼ばれた。
「わたくしはあなたを許した訳ではありませんよ。徒弟の癖に、生意気に口と下半身使いだけはお上手なご様子ですこと」
「お気に障ってしまい申し訳ございません」
「街の酒場で姫様の寝酒に蜂蜜酒を買ってきなさい。それからオピーマも」
この侍女はライナの何が気に食わないのだろう。
ライナは内心嘆息した。
オピーマとは、この国の法律で禁止されている陶酔作用や幻覚作用のある薬だ。
禁止ではあるが貴族女性の間では内密に流行っていて、こっそり嗜むのがお洒落だとされていた。
当然手に入れるには危険が伴う。
「できません、オピーマなんて…」
「いいからお行き。おつかいの雑用は徒弟の仕事のはずよ。ちゃんと侍女の徒弟の仕事をさせてあげるのだから文句言わないで」
それでも、これまでの仕事に比べればまだマシな仕事だ。
主人に命じられた物を用意するのは侍女の仕事でもある。
これまでのような業務を逸脱した命令とは言えず、ライナは諦めて酒場へ向かった。
「…………」
「さすがですライナ嬢」
王都の宿屋も兼ねている酒場は年中無休だ。
その酒場が、臨時休業していた。
CLOSEDの看板が下げられた酒場のドアを睨む。
後ろにはスヴェンも一緒だ。
病欠明け初日のライナが心配だったようで、スヴェンはアンダーソン家の屋敷前をうろついていたのだ。
ライナが外へ出てきた際に鉢合わせして、今に至る。
ライナに見つかる予定ではなかったスヴェンはバツが悪そうで押し黙り、ライナはライナで過保護な騎士に呆れ、道中は非常に気まずい雰囲気が漂っていた。
「どうしましょう、また叱られてしまいます。これでは鞭打たれても文句言えません」
「私としてはあなたが危険な買い物をせずに済んでホッとしていますが」
「スヴェンはわたくしが罰を受けてもいいと言うのですかっ」
「危ない目に合うよりマシですね」
「いやー!」
よりによって頼りにしているスヴェンに突き放されたライナが両手で頭を抱えた。
一応、来る途中の市場で、何かあった時用にエールを購入してあった。
行く先々で何かしらの不運が働くライナは、常日頃からスペアを欠かさない。
しかしエールは市場で売っているだけあって平民用の安くて苦い酒だ。
まだ子供で、なおかつ貴族として気位の高いティルダに持っていっても満足して貰えないだろう。
ライナは半泣きになりながら、ポケットから例の祭壇画の紙を取り出す。
「折角、酒場の吟遊詩人におとぎ話のこと聞こうと思っていましたのにっ」
「あぁ、ライナ嬢が何かやりたいときは絶対に上手く行かないですからね」
とその時、秋の大風が吹いた。
突然の突風に、往来の人々が悲鳴を上げる。
ライナも悲鳴をあげた。
フォルクハルトに写して貰った大事な紙が吹き飛んだのだ。
「あっ、待って」
ライナは紙を追って酒場の裏手へまわった。
スヴェンも後を付いてくる。
酒場の裏手はちょっとした庭になっているようだ。
白い砂利石が引かれたスペースに葡萄の樹が一本植えられ、その周りに雑草が生えている。
奥には木と木の間に洗濯物を干す為の紐がくくりつけられていて、白い布巾が何枚かかけられていた。
勝手口の周りには随分前から放置されているであろう酒樽が並べられ、一部転がっている。
割れたレンガや植木鉢なんかも一緒に転がっていた。
「………だから、………て……」
「………………わよ。………」
手前の柵に引っ掛かった紙を拾ってほっと息を吐くと、その裏庭から何やら声が聞こえてきた。
「何か聞こえますわね」
「そうですか?何も聞こえませんが」
思わず声を潜めてそっと裏庭へ近付く。
足音をたてないよう抜き足差し足して、壁に隠れながら覗き込んだ。
そして、悲鳴が出そうになった口元を両手で押さえて後退った。
ライナの目がおかしくなったのでなければ、酒樽に寝そべった茶トラの猫と葡萄の樹が午後のお喋りを楽しんでいたのだ。