酒場の猫と千年生きた葡萄の樹(1)
フォルクハルトに叱られたライナは一度実家へ帰ることにした。
大怪我の心配をかけまいと思っていたが、既に心配をかけているのであれば意味がない。
自分でなんとかしなければとずっと気を張っていたのだけれど、なんでも自分の中に溜め込んで周囲に心配をかけるのは自分の悪い癖だ。
街は寝静まっていたが、相変わらず枯れ葉で隠れた工事中の穴に落ちたり鳥の糞が直撃したりしながら久々の自分の屋敷へ。
門へ着いた頃には東の空が白み始めていた。
突然帰ってきたライナに驚愕した門番が慌てて屋敷のドアを叩くと、寝間着姿の女中が扉を開けた。
ライナの母親アガーテは、ホールの奥にある居間でテーブルに突っ伏して休んでいるところだった。
蠟燭に明かりが灯ったままだ。
寝ずにフォルクハルトの報告を待っていたのだ。
痩せ細ったライナの姿を見るなりホールへ飛んでくる。
すぐに、隣の離れに住んでいるスヴェンも寝着のまま駆け付けた。
「お母さま、ごめんなさい…」
「いいのよよく頑張ったわね…」
母親に抱き締められて、柔らかな温もりに体の力が抜ける思いだった。
何も聞かないでただ抱き締めてくれるのが本当にありがたい。
アガーテは、起き出して集まってきた女中達に指示を出す。
「誰か悪いけれどお風呂を入れて頂戴。わたくしは何か食べるものを作りますわ。すぐにベッドの準備も」
「いいえ奥様、ライナ嬢に入浴する体力は残っていないでしょう、体の汚れだけ魔法で落としてすぐに寝かせましょう」
慌てて厨房へ向かおうとするアガーテをスヴェンが止めて杖を出す。
何やら呪文を呟いてライナの体に杖を触れさせると、爽やかな風がライナを包み始めた。
本来女中が家の掃除に使う魔法で、現代で言うところの掃除機で体を吸われている状態なのだが、ライナ含め否を唱える者はなかった。
簡単に済ませるとスヴェンはライナを横抱きにし、二階の寝室へ向かう。
「パン粥でしたらすぐに準備できますので、わたし達にお任せください。奥様はお嬢様に付いてあげてくださいませ」
「分かりました。皆さんこんな時間にありがとう」
女中が諭して、アガーテはスヴェンの後を追った。
ライナは久々に慣れ親しんだ匂いのするふかふかの布団に包まれ、その幸福に酔いしれた。
出ていくスヴェンと入れ違うように、アガーテが部屋に入ってくる。
「お母さま、心配かけてごめんなさい。でも、もう少しだけ見守ってくださる?」
「…お母さまは正直、あなたがこんな姿になってしまうくらいなら侍女など辞めて頂きたいわ」
アガーテはベッド脇のスツールに座り、ガリガリに痩せたライナの手を両手で握り締めた。
余程心配だったのだろう、その手は微かに震えている。
ライナは強く握り返した。
「やりたいことがあるのです。その為にはもう少しだけあの家で頑張っていたいですわ」
「こんなことになってまで、あなたは何がしたいというのです」
「…わたくしフォルカー様のお側にいたいの。ティルダ様が嫁げば、わたくしはあの方の奥方様の侍女という立場が手に入るでしょう?」
全てはその為に耐えてきた。
ライナは最初から、男性の部屋付き女中などという立場がずっと許されるとは思っていなかった。
許されたのはフォルクハルトがまだ少年だったからにほかならない。
遅かれ早かれ関係を疑われ解雇されるであろうことはずっと想定していた。
そうなったときに、その後どうやって彼の側にいたらいいのかライナはずっと悩んでいたのだ。
あの鈴蘭の塔でフォルクハルトの背中を守り仕えようと誓った気持ちは今も変わらない。
そこに、彼の婚約者から侍女にしたいと申し出があった。
渡りに船だった。
彼の妻の侍女。それがライナがなれる中で一番フォルクハルトに近い場所だと思ったのである。
「そう。それならお母さまは応援してあげたいけれど…」
「お願い、お母さま。反省したからこれからは無茶しません。王子に他人をもっと頼れと言われましたの。次からはちゃんとそうしますから」
「分かりました。けれど、明日…もう今日ね、今日はお休みして頂戴。あなたクマも酷いし、熱もある。フラフラじゃないの」
「そうですわね…」
「スヴェンを使いに出してアンダーソン様に知らせるわ」
女中がパン粥を運んできて、アガーテはライナの手を離し立ち上がった。
ライナは女中に体を起こされ、パン粥を手渡される。
「休んだりして、クビだと言われないかしら?」
「そのくらいでクビにされるなら、されておきなさい。そんな職場なら、あなたが何をしなくてもきっと正式採用してくれないわ。無給のうちにこき使われてポイ捨てされるだけ。フォルクハルト様のおそばにいたいなら他にも方法はあるかもしれないけれど、あなたが死んでしまったら永遠にその望みは叶わないのよ」
やはりアンダーソン家への怒りがあるのか、少し厳しい口調でまくし立てたあと、ゆっくり休んで、と優しくライナの額にキスをして、アガーテは女中と共に部屋を出ていった。
まる二日、ライナは寝込んだ。
アンダーソン家にはスヴェンが脅しをかけたようだ。
「ライナ嬢が帰ってこなかった十二回の安息日分、彼女は休む権利がある。それが許されないなら私は切り捨てられてでも王家に直談判する」と言ったらしい。
当然アンダーソン家は、いつも法律通り安息日は休ませていると反論したが、スヴェンは強硬だった。
「ライナ嬢が家に帰して貰えなかったことは街の者に聞けばすぐに分かる。徒弟にも関わらず平日も深夜まで拘束していることもだ」と言って黙らせた。
ライナは一般的な貴族と違いいつも街を歩いて移動している為、市場の平民達と親しい。
しかも、買ったものが間違っていたり入荷していなかったりしても、自分の不運のせいだと分かっているライナは平民達を責めない。
そんな訳で平民達の好感度が高いライナは、ここ最近市場に顔を見せないことや、見せてもやつれ切っていることで密かに心配されていた。
格上の家にそんな物言いをして、スヴェンが処罰されるのではとライナは心配したが、今のところそのような話はなかった。
王家に直談判するという言葉が抑止力になっているのかもしれない。
一緒にいる間に、母親には例の聖堂の話をした。
アンダーソン家に徒弟に行くにはそこから通うことが一番都合がいいこと、部屋を賜ったのは嘘でこれまで聖堂に寝泊りしていたこと、フォルクハルトが直してくれたのでもう普通に生活ができる状態であること。
母親は聖堂のことを知らないようだった。
「変ね、宮廷医様は昔は有名だったって仰ったのに…」
「わたくしは田舎からバルヒェット家に嫁いだから王都のことには詳しくなかったのよ」
家庭教師をしている為か普段はマナーや所作に口うるさいアガーテだが、ライナが徒弟をお休みしている間は同じベッドに寝転がり何時間も一緒に過ごしてくれた。
ライナはフォルクハルトに写して貰った祭壇画の紙をサイドボードから取り出す。
「それでね、これが祭壇画ですの。こっちが扉絵で、ミサの時だけ扉が開いてこっちの祭壇画がお披露目されるのですって」
「あら素敵。それにしてもフォルクハルト様の魔力は本当に凄いわね。こんなに精巧に時間もかけず絵画を写し取れるなんて」
祭壇画の扉と内側、二枚の紙を母親に並べて見せる。
そうして比較してみてはじめて、ライナは不思議なことに気付いた。
「この島は、なんなのでしょう。他は神話に擬えてあるのは分かりますけれど」
「見せて頂戴」
どちらの絵も、真ん中の一番大きな一枚は構図は違えど女神の全身図である。
扉絵のほうは、右図が雲とその上にある城の絵。
周りに天使が飛び交っていることから、これは天界を表しているのがわかる。
左図は王宮の絵だ。
そして右下には凶悪な妖精が左側を睨みつける群像画。
左下には奴隷の格好をした人間達が怯える絵という構図になっている。
一方でその中の祭壇画。
右図にはどこかの島とドラゴンが描かれている。
左図は扉絵と変わらず王宮の絵。
そして下の二枚は祝杯を上げる人間達の絵だ。
問題は右図にある島とドラゴンだった。
「本当ね、この島だけが神話にない物で意味が分からないわ。ドラゴンはこの国の紋章になっている守り神様のことでしょうけれど…」
「イーゼンハイム王国のどこかを指し示しているのでしょうか」
「けれど、この国に島はないわ」
これは少し調べてみる必要があるかもしれない。
ライナは紙を折り畳んで大事にしまった。