廃聖堂と祭壇画の秘密(1)
悪漢に襲われたあの日から、ライナはほとんど一睡もできない日々を送っていた。
簡易的に対策は取ったものの、ライナにできるのは魔力のこもっていない子供のお遊びのような仕掛けだけ。
おそらく男たちが戻ってきたら赤子の手をひねるように簡単に負けてしまうだろう。
その夜は特に恐怖でいっぱいだった。
屋敷で宴会が行われていて、聖堂にまでひっきりなしに酔っ払い達の歓声や雄叫びが聞こえていたのだ。
交易商を生業にしているアンダーソン家では定期的に外国から船が戻ってきて、その度にこうして従業員を労うべく夜通しの大宴会が催される。
何週間も、特には何ヶ月も船の上で過ごす男達は日頃の鬱憤を晴らそうと大騒ぎだ。
魔力のないライナは仕事の邪魔になると言われ、珍しくさっさと帰らされた。
もちろんただで帰されたわけではない。平民を含めた使用人全員の下着を全て、明日までに繕うようにと命じられ、山のような繕い物を押し付けられて帰されたのである。
よくもまぁ、次から次へとキツい仕事を思いつくものだとライナは感心する。
いつも通り聖堂へ帰ってきたライナは手元の灯り用に火を起こし、護身用の斧を手元に、針仕事を始めた。
宴会の喧騒が響いてくる度に体が強張る。
海の男達のガラの悪さは例の暴漢を彷彿とさせ、ライナは頭がおかしくなりそうな恐怖に耐えていた。
魔力があれば、もうちょっと人生楽だったのかしら。
僅かな灯りをもとに針を押し進めながらライナは一人心の中でごちる。
ある書物によると、人の持つ運の総量は皆同じで、どんな人間も一生を終えてみれば不運も幸運もプラスマイナスゼロで落ち着くのだという。
それが本当なら、ライナのプラスはどこに貯金されているのだろうと考えることがある。
なんといっても一番の不運は一族の呪いと言われている魔力の問題だ。
女神を怒らせただかなんだか知らないが、バルヒェット家に魔力のない子供が産まれるのは、人為的かつ作為的な何かが働いているのは確かだ。
本家でしか起こらない現象なのだ。
例えば魔力のない子供が結婚して家を出たり、次男だったりして本家を継がないと一般的な魔力のある子供が産まれる。
しかし、本家を継いだ者が死んでしまうなどして一度家を出た者が本家に戻ると、次に産まれるのは魔力のない子供である。
これを呪いと言わずしてなんというのか。
この国の絶対神である女神に対して不信心であったことはない。
一般的な貴族と同様に家に祭壇を持ち、毎朝毎晩お祈りを欠かしたことはないし、ミサにだって参加している。
それなのに、一体バルヒェット家の先祖が何をしたというのか。
「(神様が本当にいるとしたらきっとわたくし達は嫌われているんだわ)」
その他の細々とした普段の不運を思い浮かべ、ライナは溜息をついた。
ちなみにライナの家族で言うと、亡くなった父親がバルヒェット家の血を継ぐ者だった。
政略結婚で強引に嫁がされた母親は当初魔力のない父との婚姻を嘆いていたそうだが、すぐに父の明るい人柄に惚れてそれからは円満な家庭を築いたという。
配偶者が死んだのだから実家に戻ってもいいのだが、自ら家庭教師をしてお金を稼いでバルヒェット家を守っているのは、他家ではやっていけないだろうライナを守る為と、死に別れても夫の事が好きだからだ。
ライナは針仕事の手を休め、連日の不眠で霞む目をこすった。
相変わらずアンダーソン家では宴会が続いているようだった。
吟遊詩人が陽気な音楽を奏でながら歌っているのが聞こえる。
「あら、騎士と女神のおとぎ話だわ」
それがよく知っている歌であることに気付きライナは顔をあげた。
幼い頃から何度も聞いてきたイーゼンハイムのおとぎ話を元にした歌だ。
この国の者なら誰しもが知っている国民的な物語。
酔っぱらい達の歓声が一際大きく上がり、歌に合わせて手拍子やヤジが飛んでいる様子が聞こえてきた。
ライナもまた懐かしくて耳を傾ける。
"昔々あるところに、女神に恋した騎士がおりました。
彼は毎朝毎晩、美しい女神像に祈り続けました。
「女神様、あなたへの恋心で狂いそうな私をどうかお救いください」
女神は毎日真剣に祈る彼のことを次第に愛するようになりました。
ある日教会に降臨した女神は彼と目が合うとこう告げます。
「愛しているというのなら、わたくしを見つけてごらんなさい。妖精が神の国への道標になるでしょう」"
どこに視線をやるともなく聞き入っていると、いつものように鳩が入ってきた。
餌を探しているのか、ライナの周りを飛び回り、おもむろに祭壇の方へ向かった。
舞い降りたのは、ボロボロになって何が描かれているのかよく分からない祭壇画の上だった。
女神を祀る聖堂であることからして、かろうじて中央に女神が描かれているのだけは分かる。
その真上に止まった鳩は悠々と毛繕いを始めた。もしかしたら寝床を求めて聖堂に入ってきたのかもしれない。
歌を聞きながらその様子をぼうっと見ていたライナは、ふと思った。
「(そういえば、この国の宗教画に描かれる女神ってみんな目を閉じているものなのに、ここの絵は目が開いているのね)」
気付いた瞬間、聖堂内に突風が吹き込んだ。
まるでライナの思考を肯定するように。
ライナは恐る恐る立ち上がる。
斧を携帯するのを忘れないようにしながら、そっと祭壇画に近付いた。
鳩は毛繕いを終えて背中に頭を突っ込んで眠りにつこうとしている。
風化した祭壇画の表面を触ってみると油彩絵具がボロボロと剥がれ落ち、その下の板が顔を出した。
吟遊詩人が歌うおとぎ話では《教会に君臨した女神と目が合い、騎士はお告げを聞く》という。
「もしかして…」
ライナは絵の中の女神が見ている方向へ歩き出した。
木の蔦で封鎖された入り口の脇にある柱。それが女神の視線の先だった。
ライナはそこに立ち、女神と目を合わせてみる。
しかし何も起こらない。
首をかしげる。
やっぱり気のせいかもしれない。
おとぎ話を実行してみるだなんて、疲れている証拠だ。
「おい、バカライナ」
「きゃああああああっ!」
溜息をついたと同時に背後から声がして、ライナは飛び上がった。