王子のお忍び(後編)
「それが、ライナはもうずっと帰ってきておりませんの。どうやらアンダーソン様にお部屋を賜ったらしく、そこに泊まり込んでいるようですわ」
「徒弟中なのにか?」
「えぇ、忙しいみたいです。ついこの間まで安息日には帰って来たので安心していたのですが、最近はなんの連絡もなくて…」
バルヒェット家の屋敷に降り立ったフォルクハルトは、いつも通りこっそりと裏手にあるライナの部屋を覗き、誰もいないことに気付いた。
そこで表に回り、女主人のアガーテに話を聞いて、ライナの不在を知る。
既に未成年者が歩き回っていい時間は過ぎていて(フォルクハルトはほつき歩いているのだが棚に上げるとして)、残業にしてはおかしい。
徒弟中の住み込み就業は法で禁止されているというのに、王家が重用するあのアンダーソン家がみだりに法を犯すだろうか。
「分かった、夜遅い時間に応対頂き感謝する」
「恐れ入ります。あの、王子殿下、失礼ですがもしライナに会ったら…」
「心配するな、必ず無事を伝えに来よう」
「ありがとう存じます」
アガーテとは何年も教師と生徒という関係だったが、フォルクハルトはここまで弱りきっている彼女を初めて見た。
夜中に出歩いているフォルクハルトを叱るでもなく、膝につく程深く頭を下げるアガーテには調子が狂う。
彼女はもっと明朗快活で、フォルクハルトが王族だろうが関係なく我が子にするように彼を叱咤してくれる存在だったはずだ。
何をやっているんだアイツは、と舌打ちをして再度べアテに乗り込む。
「アンダーソン家まで行かれるおつもりですか?」
「あぁ」
「お忍びがバレますよ」
「クソ、そうなったらお前の監督責任になるのか」
後ろに控えていた騎士がべアテに追い付き、心配そうにフォルクハルトをたしなめる。
こうなったら夜遊びがバレるくらいは仕方ないとアンダーソン家へべアテを急がせていたフォルクハルトは、歯噛みしてべアテの速度を落とさせた。
善意で付き合ってくれた騎士が罰せられることは、望んでいない。
「私が様子を見て参りましょうか」
「そうだな。至急渡さねばならない忘れ物があっただのなんだの言って、所在を確認して貰えるか」
「御意」
騎士のホウキが速度を上げて、フォルクハルトを追い越していく。
フォルクハルトは手をいっぱいに伸ばしてべアテの頭を撫で労うと、旋回させてアンダーソン家の屋根に降りさせた。
アンダーソン家は何やらお祭り騒ぎだった。
吟遊詩人がリュートを弾きながら歌うのが聞こえ、たくさんの男たちが飲めや歌えやの大宴会を開いている。
屋敷の人間が起きていることに安心した。これなら護衛騎士が尋ねていっても問題なさそうだ。
ちょうど新月の夜だった。
フォルクハルトから眼下の様子が見えない代わりに、民から屋根の上にいる不審者の姿も見えないだろう。
それにしてもさすがは隣国の大商家だ。
フォルクハルトはこの屋敷が長いこと放置されていたことを知っているが、その名残りが分からないほど屋敷は綺麗にされていた。
屋根の上でさえも磨き上げられている。
よく管理されているものだと感心して周りを見渡していると、ふと、あることに気付いた。
「王子、アンダーソン家に確認して参りました」
「ご苦労。どうだった」
「それが、執事によると徒弟中の者はきちんと毎日家に帰していると…。ライナ・バルヒェットも例外ではなく、今日も定時に帰宅したと申しております」
「そうか」
音もなく屋根に降り立った騎士の報告を聞きながら、フォルクハルトは森の奥に目を凝らした。
もう日付も変わろうかという時刻で、イーゼンハイムの王都はアンダーソン家を除いて、灯りも消え寝静まりつつある。
そんな中敷地内にある森の奥が、上空からはぼんやりと薄明るいように見えるのだ。
新月でなければ気付かなかったであろうほど、ほんの微かにである。
「…あそこ。何かおかしくないか?」
「なんです?あぁ…何か燃えているような。木こりの小屋でもあるのでは?」
「それにしてもこんな時間まで起きているものだろうか?」
「確かに、下働きの平民の朝は早いはずですからとっくに寝ているものと思いますが」
まさか。
同じ想像に至ったであろう二人は顔を見合わせて言葉を呑んだ。
そしてすぐさま屋根から飛び降り、森の中へ急いだ。
上からは近いように見えたその場所までは案外距離があった。
森の中は長いこと手入れがされていないらしく、蔦が這い回り低木が生い茂り、簡単に歩けるような状態ではない。
先へ進むのに一刻はかかった。
気のせいであってくれと願いながら鬱蒼とした森を切り開く。しかし願いは敢え無く潰えた。
目的の場所には崩れかけの聖堂があった。
その中に、ライナらしき人影を見つけたのだ。
「おい、このバ…」
ないに等しい窓から声をかけようとして、フォルクハルトは息を呑んだ。
人間違いをしたかと思ったからだ。
たった数ヶ月顔を合わせなかっただけとは思えないほど、ライナは様変わりしていた。
やせ細り、見るからに憔悴しきった後ろ姿。
座っていてもふらついている様子が見て取れる。
艷やかだった黒髪は輝きを失い、僅かに見える二の腕はあざまみれ。
おまけに何故か服があちこち破れた跡がある。
腐りかけたベンチに腰掛けて、彼女は何か繕い物をしているようだった。
周りには山のように布が積んである。
あれがアンダーソン家で与えられた仕事だとしたら、とてもじゃないがたった一人の徒弟にさせる量ではない。
フォルクハルトは思わず石造りの壁に隠れた。
感情を抑えるべく、目を閉じて細く長く息を吐く。
『この中から好きな召使いを選びなさい』
目を閉じたまま、フォルクハルトは王子になった翌日のことを思い出していた。
怒りが収まらぬままに呼び出されて王の間へ行くと、そこには跪かされた二十人ほどの召使い候補がいた。
『急に王宮で暮らすことになったそなたには悪いと思っている。慣れない生活に不便もあるだろう。せめて好きな召使いを使うがいい』
『幸甚に存じます』
前日の仕打ちから国王には不信感しかなかった。
白けた気持ちで召使い候補を見渡す。
近侍にするために男性ばかりが集められた中に、記憶より少し大人になったライナの姿を見つけた。
どうやって潜り込んだのか。
あまりにも驚いて、王の御前にも関わらず目を見開いて固まった。
まるでライナの周りだけ色がついているようだった。
緊張がほどけていく。
そこでフォルクハルトは、自分が思いの外気を張っていたことに気付いた。
突然見知らぬ信用できない大人の中に放り込まれ、相当不安だったようだ。
フォルクハルトがライナに気付いたのを見て、彼女は悪戯っぽくほんの少し口角をあげた。
見知った者がそばにいるだけでこんなに安心することを初めて知る。
『…ではそこの。お前を召使いにする』
『心を込めてお仕え致しますわ王子』
二人の一年間はこうして始まったのだった。
「王子、落ち着いてください。魔力が…」
「分かっている。もう大丈夫だ」
焦ったような騎士の声で目を開けると、目の前の草や木が枯れ果てていた。
制御できなかった魔力が漏れ出し、木々がその瘴気にあてられたようだ。
ライナはフォルクハルトの初めてできた友達だ。
このまま見過ごすことはできなかった。