王子のお忍び(前編)
イーゼンハイム王国の第一王子フォルクハルト・シュトラウスはストレスが爆発寸前であった。
懐かしい思い出に浸ってなんとか平静を保とうとするが、全く効果はない。
ライナがいた頃は良かった。
何しろ彼女にはどれだけ素の顔を見せてもデメリットがなかったのだ。
既にフォルクハルトの素をよく知っていたし、なんの影響力も持っていなかった。
どんな臣下にも笑顔で接し下々の者にも親切で、女性にはとびきり優しく、男性にもフレンドリーで人気がある新しい王子。
そんなものは、王子になった際に国民から信頼を得るために作った偽りの自分だ。
ライナの前でそれが表向きの顔であることを隠さなくて済んだのは、彼の精神衛生上非常に大きな役割を持っていた。
ライナが去った今、プライベートの自室ですら素の自分ではいられなくなった。
寝ても覚めても完璧超人の好青年を演じ続ける。
覚悟していたことだが、もはや限界だった。
「王子殿下、今日は素晴らしい訓練でございました。騎士達の驚く顔を見ましたか?魔法実技の教師も、これなら今すぐ王になっても差し支えないと…」
「ありがとう。お茶を淹れ終わったら一人にして貰えないか」
「申し訳ございませんがまだ執務がありますのでお側にいさせて頂きます。王子殿下は夕食後のお茶の際ミルクは…どうしていましたかな」
「いらぬ」
「そうでございました。それで先程の実技訓練ですが、殿下はとにかく魔力のケタが違いますな。私はあのような巨大な結界を一瞬で作れるお方は初めて目に致しました。それに…」
「ミヒェル、褒めてくれるのは有り難いが、明日の予定を確認したい」
顔に笑顔を貼り付けたまま眉が痙攣するのを感じつつ、フォルクハルトは威圧的にならないよう新しい近侍の言葉を遮る。
ライナが退職したあと国王陛下がフォルクハルトにつけた近侍は、父親と同世代ほどのベテランだった。
優秀なのだろうが、いささかおべっかが過ぎるのと日がな一日フォルクハルトの隣で喋り倒すのが玉に瑕だ。
それから、フォルクハルトは忘れていない。
この男はあの日フォルクハルトを乱暴に跪かせ家畜のように焼き印をした連中の一人だ。
あの塔の使用人で唯一、フォルクハルトを人として扱ってくれた家庭教師アガーテを拘束し、無理矢理王宮の外へ放り出した張本人である。
フォルクハルトとしても気を許すことはできないし、それはこの男ミヒェルとしても同じであろう。
近侍として再会したときには、「罪人だったあなたが、なんてご立派になられて!さすが陛下のご教育!これはもう安心だ!」などとフォルクハルトを褒めちぎったが、心の底ではどう思っているか怪しいものだ。
褒めるのはフォルクハルトがそれで増長しないか試しているのかもしれないし、決してフォルクハルトを一人にしないのはいつ本性を表すかと見張っているとも考えられる。
あの時、王の臣下達は「王子にできないなら、魔女の生贄にするしかない」とはっきり言った。
それはフォルクハルトの代わりがまだいて、簡単に彼を切り捨てられることを意味している。
産まれてから十何年次期国王として手塩にかけて育てたアルノルトを簡単に切り捨てたように。
少しでもフォルクハルトが気を抜いて王子らしからぬ立ち振る舞いをした時には、言葉通り魔女の生贄にされるかもしれない。魔女の生贄が何かは分からないが。
そう思うと、この笑顔を崩すことはできないし、ライナにするようにこの近侍を痛罵して黙らせることはできない。
「明日は文献の解読をすることになっておりますな。王子殿下の魔力制御に関する文献でございます」
「それは大事な予定だ。ならば明日に備えて今夜は早めに休むことにしよう」
「では入浴の準備を致しましょう」
大げさに明日の予定への意欲を見せると、ようやく近侍はフォルクハルトから離れる。
彼が背を向けたのを確認し、フォルクハルトはテーブルに両肘をつき頭を抱えた。
長いこと息を止めていてやっと呼吸ができたかのようだった。
が、それも一瞬だった。
女中に風呂をいれるよう言い付けたミヒェルはすぐにフォルクハルトのもとへ帰ってきた。
フォルクハルトは即座に居住まいを正し、サッと胡乱げな笑みを貼り付け直す。
「それにしても、王子殿下は本当に素晴らしい!まる1日実技訓練に励んだかと思えば明日の勉学の為に準備を怠らないとは。私にも息子がおりますがね、これがとんでもない怠け者で常々王子の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと私は…」
駄目だ、コイツは。
どうにもならん。
フォルクハルトは笑顔のまま、飛びそうな意識を口の中を噛むことで保ち、耳から入るミヒェルの声を雑音として処理することにした。
いつもより数刻早く寝支度をさせ、どうにか寝台に入り一人になれた時にはフォルクハルトはグッタリとしていた。
まだ耳の奥でミヒェルの声がしている気がする。
ミヒェルが消していった寝台のランプに火を灯し、サイドテーブルに準備された本を開く。
寝る前の読書は塔にいた頃からの趣味だ。
活字を追うと“素晴らしい王とその責務”というタイトルが目に入った。
教科書じゃねぇか。
何かがぶちりと切れたフォルクハルトは、乱暴に本を閉じ布団の上に叩きつけた。
ライナが懐かしい。
あれは憎まれ口ばかり叩くがフォルクハルトの好みを熟知していた。
異国の歴史書やまだ見ぬ生物の生態が纏められた図鑑、他国を転々とする旅芸人の日記。
彼女の準備する本はどれも魅力的だった。
仕方なく寝ることにしたが、いつもより早い時間のせいで眠りにはつけない。
何度も寝返りを繰り返し、水を飲んでみたり伸びをしてみたり、色々と試したが日中の苛々で気が立っているのか効果がない。
「…よし、久々にライナを虐めに行こう」
遂に諦めたフォルクハルトは、寝台から起き出した。
ライナが部屋付き女中だった頃、まだ徒弟の彼女は夕方になると家に帰ってしまっていた。
構い足りないフォルクハルトはよく深夜に王宮を抜け出してこっそりライナの屋敷へ赴いた。
そうしてライナの部屋の窓越しに、嫌そうな顔をする彼女と遊ぶのが常だった。
大学へ行っていた三年の間に何があったのかは分からないが、女中として戻ってきたライナは以前とは変わってしまっていた。
あんなにコロコロと変わっていた表情は大人びて無表情でいることが多くなり、あんなに仲良くしていたのに今は主と召使いらしくフォルクハルトと距離を取ろうとする。
あの頃とは立場が違うのだから仕方ないことと分かっていながら、フォルクハルトは面白くなかった。
その彼女が、お忍びで遊ぶその時間だけは昔に戻ったように様々な表情をフォルクハルトに見せてくれる。
それが好きだった。
いつも寝室に隠してあるお忍び用の服に着替えていると、部屋の主が動き回っているのがドアの外に伝わったのか、そっと護衛が部屋の中へ入ってきた。
「王子、お加減は宜しいですか」
「宜しくない。お前も見ていただろう、あの近侍はうるさすぎる。まるでムクドリだ」
「えぇまぁ…同情を禁じえませんでしたが…」
フォルクハルトは護衛の顔をひと目見ただけで、気にすることなく外出の準備を続けた。
この護衛は王子になって一年、フォルクハルトが心を開いた数少ない騎士の一人だ。
年が近く誠実で、ライナとフォルクハルトがどれだけ不敬なやり取りをしていてもいつも苦笑して見逃してくれる。
お忍びに行く時に必ず連れて行く男だ。
今夜の護衛担当がこの男であることを把握していたからこそ、城を抜け出そうと思い至ったのである。
「べアテ、来い」
黒いマントを羽織り、バルコニーへ出るとまだ夏の気配を残した風が髪を揺らした。
指を鳴らすといつものように使い魔がどこからともなく飛んでくる。
頭を振りながらお辞儀をして親愛を示す使い魔に、フォルクハルトも同じようにして返した。
後ろで騎士はホウキを準備していた。
彼の使い魔は人が乗れるタイプではない。
いつも彼はホウキに乗ってフォルクハルトの後ろを付いてくる。
そして二人は夜空に飛び出した。