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まどか 乃木坂学院高校演劇部物語  作者: 大橋 むつお
105/106

105:『仰げば尊し』

RE.乃木坂学院高校演劇部物語    


105『仰げば尊し』 





 話しは戻るけど、三月十日は乃木坂さんがいなかった。


 三月十日は東京大空襲の日。


 乃木坂さんの命日でもあるし、大事なあの人、マサカドさんと言おうか、三水偏の彼女と言おうか、その大切な人の命日でもあったんだもんね。


 乃木坂さん自身の平気な顔は――それには触れないでほしい――という意思表示。わたしたちも、聞かないことにした。


 潤香先輩はロケの疲れで二日ほど寝込んでいたけど、梅の花が満開になったころから、徐々に稽古を覗きにきてくれるようになっていた。



 そして……それは起こった。



 桜の蕾が膨らみ始め、新入生たちの教科書や制服やらの引き渡しの日。


 稽古場の同窓会館にいても、新入生たちの初々しいさんざめきが聞こえてくる。


 その日は、理事長先生と潤香先輩がピアノの傍で、乃木坂さんはバルコニー近くで、静かに稽古を見てくれていた。



 それはクライマックスのシーンで起こった。



 都ばあちゃんが、地上げ屋の三太にも三人の子供たちにも見放され、一人お茶をすする中、突然脚と腰に走る痛み。遠く聞こえる若き日のなつかしの歌。

 

 埴生の宿も わ~が宿 玉の装い羨まじ……♪


 都ばあちゃんの最後が迫る。登場人物みんなで「埴生の宿」の合唱になる。都ばあちゃんは最後の力をふりしぼって最後の一節を唄う。


「……楽しともぉ……頼もしや……♪」


 そこで見えてしまった。乃木坂さんの体が透けてきているのを……。


「乃木坂さん!」


 おきてを破って叫んでしまった。一瞬乃木坂さんは「だめじゃないか」という顔になり、そして……気がついた。


 自分にその時がやってきたことを……。


「あ、あなたは……」


 潤香先輩にも見えてしまったみたい。


「水島君……」


 理事長先生は、驚きもせずに、静かに、そして淋しそうに乃木坂さんの本名を呼んだ。


「……先生、ご存じだったんですか」


「三月の頭ごろからね……この歳になるととぼけることだけは上手くなるよ。本当は、イキイキとした君の姿を見られて、とても嬉しかったんだ」


「……僕の役目は、もう終わっていたんですよ……それが、この子達と居ることが楽しくて、嬉しくて……ちょっと長居をしすぎたようです」


「わたしを助けてくれたの……あなた……あなた、なんでしょ?」


 潤香先輩が、ささやくように言った。


「君は、こんなことで死んじゃいけない人だもの……僕は、昔、助けたくても助けられなかった人がいる。自分の命と引き替えにすることさえ出来なかった……みんな、最後は願ったんだ。自分は死んでも構わない。その代わり、他の誰かを生かして欲しい……親を、子を、孫を、妻を、夫を、教え子を、愛しい人を一人だけでも……みんな、そう思って、身も心も焼き尽くされて死んでいったんだ」


 わたしは、カバンから、あの写真を取りだした。


「この人だったんでしょ。乃木坂さ……水島さんが守りたかったのは、苗字の上の字が三水偏の女学生」


「……そうだよ。あの時は仲間に申し訳なくて言えなかった。今、ここに居る仲間は喜んで許してくれる。その子は、十二高女の池島潤子さん。潤子の潤は……」


「わたしと同じ……?」


「そう……不思議な縁だね」


「水島さん。下のお名前も教えてください。わたし一生、あなたのことを忘れません」


「それは、勘弁してくれたまえ。僕たちは『戦没者の霊』で一括りにされているんだ。こうやって、君達と話が出来ることも、とても贅沢で恵まれたことなんだよ。苗字を知ってもらったことだけで十分過ぎる。高山先生、こんな何十年も前の生徒の苗字、覚えていただいていて有難うございました」


「もう歳なんで下の名前は……忘れてしまった。でもね、僕は時々思うんだよ……この歳まで生かされてきたのは、君達の人生を頂いたからじゃないかと」


「先生……」


「だとしたら、そうだとしたら、僕はそれに相応しい……相応しい仕事ができたんだろうか」


 水島さんは、仲間の承諾を得るようにまわりを見渡し、ニッコリとした笑顔で大きくうなづいた。


「ありがとう、水島君。ありがとう、みなさん」


 空気が暖かくなってきたような気がした。水島さんの体がいっそう透けてきた。


「それじゃ……」


 と、水島さんが言いかけたとき、バルコニーの外の桜がいっせいに満開になった。


 最初、水島さんに会ったときの何倍も、花吹雪は壁やガラスも素通しで談話室に入ってくる。


 気づくと、壁に紅白の幕。理事長先生の後ろには金屏風、日の丸と校旗も下がっている。


「これは……」


 と言ったのは、水島さん。わたしは思った、ここにいる大勢の水島さんの仲間がはなむけにやった演出だ。


「ありがとう、みんな……先生、最後に一つだけお願いがあります」


「なんだろう、僕に出来ることなら……」


「『仰げば尊し』を唄わせてください。僕は唄えずに死んでしまいましたから、最後にこれを……」


「では、僕たちは『蛍の光』で送らせてくれたまえ」


「僕には、もう、そこまで時間が残っていません」


 水島さんの手足は、消え始めていた。


「じゃ、じゃあ、みんなで唄おう!」


 理事長先生はピアノに向かった。  


―― 仰げば尊し我が師の恩 教えの庭にも早幾年はやいくとせ 思えば いと疾し この年月 今こそ別れめ……いざ さらぁば ♪ ――


「さらば」のところでは、もう水島さんの声は聞こえなかった。そして、桜も金屏風も紅白幕も、日の丸も消えてしまった。


 でも、校旗だけがくすんで残っていた。


 いえ……最初からあったんだけど、だれも気がつかなかった。何ヶ月もここを使っていながら。


 そして……悔しかった。わたしたちだれも『仰げば尊し』を完全には唄えなかった。ちゃんと水島さんを送ってあげられなかった……わたし達は、この歌を教えてもらったことがない。


 でも歌の心は分かった。


 それを忘れるところまでわたし達のDNAは壊れてはいなかった。その心が少しでも水島さんに届いていればと願った。




☆ 主な登場人物


仲 まどか       乃木坂学院高校一年生 演劇部

坂東はるか       真田山学院高校二年生 演劇部 まどかの幼なじみ

芹沢 潤香       乃木坂学院高校三年生 演劇部

芹沢 紀香       潤香の姉

貴崎 マリ       乃木坂学院高校 演劇部顧問

貴崎 サキ       貴崎マリの妹

大久保忠知       青山学園一年生 まどかの男友達

武藤 里沙       乃木坂学院高校一年生 演劇部 まどかと同級生

南  夏鈴       乃木坂学院高校一年生 演劇部 まどかと同級生

山崎先輩        乃木坂学院高校二年生 演劇部部長

峰岸先輩        乃木坂学院高校三年生 演劇部前部長

高橋 誠司       城中地区予選の審査員 貴崎マリの先輩

柚木先生        乃木坂学院高校 演劇部副顧問

乃木坂さん       談話室の幽霊

まどかの家族      父 母(恭子) 兄 祖父 祖母

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