粒子のようにざわめく心
☆登場人物☆
・鎌谷善水……かまやよしみず
高校二年生。男子。言動にやや冷たい部分がある。身長が高い。
・沢渡惟花……さわたりゆいか
謎の少女。長い銀色の髪を持つ。基本的に明るい。善水が大好き。身長が低い。
・水沢透……みずさわとう
高校二年生。男子。サッカー部員。善水と仲が良い。髪は茶色。
・岡村美菜……おかむらみな
高校二年生。女子。優しい性格だが、人には言えない趣味があるらしい。セミロングな金髪。
・古井秀理……ふるいひでり
高校三年生。女子。口数が少ない。仏頂面だが、体型が非常に幼いので可愛がられる。
・鎌谷善治……かまやよしはる
善水の父。善水にとって反吐が出るほど嫌いな相手。NGOに所属している。
・鎌谷惟子……かまやゆいこ
善水の母。故人。
・岡村桜一……おかむらおういち
美菜の兄。大学を卒業後、定職につかずにずっと独自の研究に没頭する。妹と共に人当たりが良い。
・古井壮治……ふるいそうじ
秀理の父。娘の秀理を可愛がりつつも、将来を見守っている。
・山田舞……やまだまい
秀理の母。古井舞として壮治と結婚したが、のちに離婚し、姓を旧姓に戻した。
・和田霜……わだそう
老婆。数十年前に、ある男性と不思議な出会いをする。
・長嶋悟……ながしまさとる
NGO所属の男性医師。とある研究グループを自主的に立ち上げた。
・ムンジャ……むんじゃ
ナティを人一倍信仰する少女。
・星歩……ほしあゆむ
深青色の髪を持つ、神秘的な少女。
------------------------------
私には、両親がいた。
それはもちろん、少なくとも自分がこの世に生まれ落ちた瞬間は、誰もが両親を持っているはずだ。
しかし、当時の私は、それに懐疑的だった。
なぜ、私には両親がいるのか?
小学生の頃。
夕方は、淀んだ冷たい空気が私を迎える。
いつも家にいて、家事をする父。
外に出て、何やらよく分からない仕事をしている母。
三人で食卓を囲っていた時代は、まだよかったかもしれない。
しかし、そのうちその風習もなくなった。
母が帰ってくる時間が、ひどくブレるようになった。
できれば、母には帰ってきてほしくなかった。
これは毎日のように思っていた。
私が特別父を愛しているという訳ではない。ただ、この二人をあまり会わせたくはなかった。
皿の持ち方とか、洗濯物のたたみ方とか、物を置くスペースだとか、両親は万事にわたって口喧嘩をしていた。
それはもう、枚挙にいとまがない。
多感なお年頃だった当時の私は、それについていちいち、今回は父の方が悪かっただろうとか、今回は母の方が我慢すべきだっただろうとか、いろいろと考えていた。
それを、自分の意見として表明したこともあった。
子供がかかわることでないと、二人から注意された。
こんな時だけ、息がぴったりなのだ。
乾いた笑いが出るほど、虚無的な痛快を感じた。
ならば、私にはどうすることもできない。
両親の確執を止められるのは、紛れもない本人たちだけだと悟った。
それならば、あとは二人で勝手にどうぞ。
九歳にして、そんな諦観が心を覆った。
遊園地には、よく行った。
ここでも両親はいつもの調子で。
お前が秀理を見てやれよとか、お前だって目を話していただろうがとか、私を巡っての争いだった。
私を巡っての争いであるほど、私が干渉することを両親は拒んだ。
お前には関係がないだとかなんだかと。
矛盾しかなかった。
むしゃくしゃして、ジェットコースターに死ぬほど乗った。
それ以外の記憶はあまりない。
秀理はジェットコースターが好きなんだねと言われても、何も言い返す気力がなかった。
一人だけ、友達がいた。
彼女が私を引っ張っていく。そんなタイプの関係だった。
定義できる世界があまりにも小さい少年時代だったから、家の事情のことも包み隠さず話した。
話題に尽きることはなかった。
毎日、両親が何かしら新しい話題で口喧嘩していたからだ。
私の話すことを、余すことなく彼女は聞いてくれた。
それが終わると、今度は決まって彼女の話になるのだった。
小学生なのに、彼女は自分のパソコンを持っていた。
パソコンは緊急の連絡や報道などもキャッチできる。親が、安全管理という観点から娘に持たせたらしかった。
彼女の話は多岐にわたっていたが、それでも多くはそのパソコンの話題か、塾の話だった。
私はそのどちらとも関わり合いがない。
彼女の快楽や悲嘆を完全には理解できないことが、心苦しく思った。
彼女は学校の成績も良いし、塾でも上位のクラスで先取り学習を行っていた。
対して私は、成績が悪かった。
いつからだったか、それがとてもコンプレックスになった時期があった。
彼女はたくさん持っているのに、私は何も持っていない。
漠然とした、そんな不完全燃焼のような状態だ。
十歳になる、ほんの直前のことだった。
そして十歳が訪れる。
ある日の夕方。
今日はやたらと静かに話をしているなあと、私は馬鹿みたいに呑気に構えていた。
二人で書類に目を通している。
どうせ近寄ったら煙たがられるのは分かり切っていたので、私は自室のベッドでひとり寝転がっていた。
それから一週間後。
父が、まるで上司に向けるようなおびえた顔をして、私に話しかけた。
……なるほど。
なぜ、私には両親がいるのか?
その問いは、未解決問題として、居直り強盗のように私の心をかきむしった。
そもそも私は何も持っていなかったのに、ますますものを失くした。
これでは生きていけない。
そう思った。
相当だ。
生きていけないだなんて。
私がほとんど喋らなくなったのは、この頃からだろう。
なにせ、なにかを喋れるほど話題がない。
両親の離婚。
家の中から口喧嘩が消えたおかげで、私に話題や居場所はなくなった。
彼女に会っても、私は何もできない。何も喋れない。
自分から、彼女に会うのを拒んでいった。
四年間くらいにかけて少しずつ育まれた友情は、さっぱりと自然消滅した。
そして中学生になった。
このままではいけない。漠然とした焦りが、汗として背中を伝う。
趣味もないし学もない。
たとえひとりぼっちでも、自己の中身さえ空っぽではいけない。
そう思った私が目につけたのが、そう、勉強だった。
ひたすらに勉強した。
将来を切り開くためだとか、親に恩を報いるためだとか、そんな高尚な辻褄は自分から喜んで切って捨てた。
話題とは、自己が内包する自己形成のための素地であることを知る。
そんなものを、ひとつでも多く掴み取りたいと思った。
中学生が終わり、高校生がやってきた。
やることは変わらなかった。
いつの間にか、全国模試ではトップクラスだった。
私は、学校ではいろいろと噂されているらしい。
漠然とそれを認識したが、だからといって特に何かするわけでもなかった。
三年生になると、まわりのクラスメイトたちも勉強を始めてきた。
そうすると、ますます私は認知されるようになり、勉強について色々と質問しに来る人が多くなった。
傍から見ればアイドルのよう。
尤も、学校でも家でもほとんど何も喋らない生活を送り続けていた私は、そのたびにひどく狼狽した。
あまり役に立たないと悟ったのか、夏には私のまわりには誰もいなくなった。
冬になり、知らない女の子がいきなり抱きついてきた。
パニックになって逃げだしたが、彼女の知り合いらしき男と出会った。
私は下級生扱いされ、二人はさっさとどこかに行ってしまった。
新鮮な体験をすることも、あるものだ。
今度は人数が増えてやってきた。
私をテスト対策のために利用しようとしてきたのだ。
胸が温かくなった。
初めて彼らに会ったとき、何故だか分からないが、私と似ているなと思ったのだ。
私と似ていて、自分だけの話題を持てない人たち。
とくに、最初に会った二人のカップルは。
私は、勉強を教えるという形で、彼らに自分の話題、いや、自分が自分でいられる何かを、提供してやれるんだ。
逡巡はあったが、抵抗はなかった。
でも、よく考えれば私は上手に物を教えられない。
できることといえば、背中を見せることぐらいだ。
焦りと緊張で、ぐっしょりと熱く濡れた、その背中を。
……こんな変な考え方をする人間も、私くらいか。
まあ、最終的に彼らは良い点を取れたみたいなので、結果オーライだ。
遊園地にも行った。
最後のほうは雨が降ったが、楽しめた。
ジェットコースターに五回も乗ってしまったが。
相変わらず、私には社交性がない。
入試一週間前。
どすんと、私にのしかかる重圧があった。
手が、震える。
足も。
まさかここに来て、緊張してきたか?
いや違う。
これは……罪悪感?
何も悪い事はしていないはずだ。
でも、常に、自分に足りない何かへの欲求が先走って、現実の行動を置き去りにする。
なにかしないと。なにか勉強しないと。
勉強しないと、勉強しないと。
自己を形作らないと。
消えてしまう。
自分が。
分からなくなった。
何をもって、勉強しているといえるのか。
その定義は、そもそもどこから来たのか?
自己の内部からだ。
でも、私の当初の目標は、なんだった?
話題を作るって、なんのため?
彼女のためだ。
いつも話題に富んだ彼女と、対等に話し合うためだ。
さらに一般的にいえば、社会と対話するためだ。
なのに。
その定義を自己の内部から持ってきて、いったいどうするというのだ?
社会から定義づけられなくて、それに何の価値がある?
発狂する。
自分が今まで、中学生から高校生まで、努力してきたすべてのことは、自己が完全に否定して、水泡に帰した。
ストイックに、勉強だけで自分を高めた。
でもそこに、社会性は欠片もない。
ただの独善のみ。
ああ、終わったなと思った。
そう、今度こそ。昔思ったことが、よみがえった。
これでは生きていけない。
結局、自分には何もなかったのだ。
空回りした。
もうだめだ。
親の目もあるから。なにより、彼ら、そう、新しくできた友達がいたから。とりあえず一週間だけ勉強した。
入試の日が来た。
ひとりずつが、私に期待してくれた。
惨めだ。
泣きそうになるのを、必死にこらえた。
涙を見せたくなかったから、さっさと家を出てしまった。
もう、会場に行きたくない。
電車を使わずに、とぼとぼと歩いた。
遅刻が確定したのを確認した。
私は家に帰った。
慟哭の気配が消えることはなかった。
家で、父と友達の顔を見た。
ああ、もう逃げられない。
そう思うと、涙が出た。
声も。
どうせ逃げられないのならば。
時代さえ遡るように、赤ん坊のように泣き叫んでやると決めた。
すべてを、自分で壊したいと、その腐った理念で。
一日置くと、自分の心も少しは落ち着いた。
父が言った。
何も気にしなくていいと。
私に最大限の慈しみを与えていると、感じた。
それを通じて、ああ、父はこんな人間だったんだなと思った。
気づけば、見落としていたんだ。
自分のことばかりにとらわれていた。
なぜだか、心がすっと落ち着いた。
昨日の今日で、心が真逆の方向を向いているだなんて。
自分の心とは、まこと度し難い。
でも、自分が簡単な人間だとは思わなかった。
すぐに自分の心が落ち着けたのは、父と、自分が積んできた経験のおかげなのだろう。
その時、私は考えた。
なぜ、私には両親がいるのか?
これが、答えだ。
経験のきっかけを与える者が、両親なのだ。
口喧嘩の記憶ばかりだった。
でもそれが、私を勉強に駆り立てたのだとしたら。
私は、やはり両親に感謝しなければならない。
多分、数年前は、これを自分でも分かっていたんだ。
心の底では。
自己と、社会。
社会から認められることを望みすぎた結果、自己が崩壊してしまった。
これからは、その修復をしなければ。
私は勉強を続けた。
勘は完全に失われていた。
腕を噛むほど、涙を流すほど、自分に腹を立てた。
……いけない。
これではいつまでも昔のままだ。
父に、強迫観念に突き動かされているのではと、誤解されてしまう。
自己を破壊してはならない。
自己と社会の折衷。
その二者を媒介する、親から授かった経験を、経験として蓄積すること。
これを、忘れずに持ち続けなければ。
いつか私が落ち着いてから。
また会いたいと思った。
あの彼らに。
昔の友達に。
そして、他でもない母に。
------------------------------




