全てを還元する者
☆登場人物☆
・鎌谷善水……かまやよしみず
高校二年生。男子。言動にやや冷たい部分がある。身長が高い。
・沢渡惟花……さわたりゆいか
謎の少女。長い銀色の髪を持つ。基本的に明るい。善水が大好き。身長が低い。
・水沢透……みずさわとう
高校二年生。男子。サッカー部員。善水と仲が良い。髪は茶色。
・岡村美菜……おかむらみな
高校二年生。女子。優しい性格だが、人には言えない趣味があるらしい。セミロングな金髪。
・古井秀理……ふるいひでり
高校三年生。女子。口数が少ない。仏頂面だが、体型が非常に幼いので可愛がられる。
・鎌谷善治……かまやよしはる
善水の父。善水にとって反吐が出るほど嫌いな相手。NGOに所属している。
・鎌谷惟子……かまやゆいこ
善水の母。故人。
・岡村桜一……おかむらおういち
美菜の兄。大学を卒業後、定職につかずにずっと独自の研究に没頭する。妹と共に人当たりが良い。
・古井壮治……ふるいそうじ
秀理の父。娘の秀理を可愛がりつつも、将来を見守っている。
・山田舞……やまだまい
秀理の母。古井舞として壮治と結婚したが、のちに離婚し、姓を旧姓に戻した。
・和田霜……わだそう
老婆。数十年前に、ある男性と不思議な出会いをする。
・長嶋悟……ながしまさとる
NGO所属の男性医師。とある研究グループを自主的に立ち上げた。
・ムンジャ……むんじゃ
ナティを人一倍信仰する少女。
・??
古井さんが、敷居の外で佇んでいた。
俺は部屋の中の時計を見つめる。
まだ朝の十一時だった。
皆が不安がっていた。
それからは大変だった。
あの古井さんが、赤子のように泣きだした。
耳がちぎれそうなくらいの力を、一身に受けた。
収拾がつかないので、俺たちは帰ることになった。
真っ赤に腫れたような彼女の顔を、忘れることはできそうもなかった。
寮の中。
周りの住人が寝静まってからも、俺は意識が残っていた。
試験会場で、いったいどんな出来事があったというのだろう。
あるいはその周辺で。
またあるいは、家を出てからすぐに。
あの古井さんが。
涙を流したことよりも、大声を張り上げたことの方に、驚愕や不安を隠しきれない。
初めて聞いた彼女の声が、泣き叫ぶ声だなんて、悲しすぎる。
俺の思考さえ混濁する。
何の関係もない自分一人があれこれ考えていても、仕方がない。
それに、俺にはほかに考えるべきこともある。
思考の外側に、そっと置いておくべきだ。
しかし、明日からどうしよう。
「お前は何か知っているか?」
「……何も知りません」
「まあ、そう思っていたけど」
「……はい」
「最近、なんか調子悪くないか?」
「……そんなことは」
「美菜なら解決してくれるぞ。あるいはその兄か。まあ基本的にはいい人だと思うし。いや、やっぱやめといた方がいいか。なんたってロリコンだからな」
「……はい」
どうも調子がつかめない。
ここ最近、梅雨のような、連綿とした鬱屈が覆っている。
いや、実際、梅雨のようなものだ。
今日も、あいにくの雨。
土砂災害があちこちで起きていた。
政治イベントやゴシップに時間を割く余裕のなくなったテレビが流すのは、毎日各地で起きている自然災害のニュースのみ。
あの少女が起こしているのではない。
目の前の、俺の彼女が起こしている。
本人にその自覚はなく、ただシステム的にそうなっているはず……。
いや。
「……別に世界のことも、俺のことも、気にしなくていいからな」
「……はい?」
「それだけ」
もし彼女がその自覚を持ってしまったら、大変なことになる。
自分の感情ひとつで、世界が揺らいでしまう事実。
世界と直にリンクするということを自覚しすぎてしまうことが、どれほどの負担になることか。
惟花には、何も考えずに生きていってほしい……。
今、それを強烈に思った。
今は、世界の心理なんて、追及してほしくない。
あるいは、せめて、もっといろいろなことが落ち着いてからなら。
傘をさしながら歩いていると、不意に、体が重くなった。
いや……。
「木が……」
遠くに映る一本の木が、浮上しているのが見えた。
夢か?
木はそのままの姿勢を保ったまま、ゆっくり上空へ、上空へと。
最後には、黒い雲に包まれて消えた。
「嘘だろ……」
世界が、壊れている。
恐怖が気を狂わせ、肌の毛ひとつひとつが逆立つ。
木が浮いたことから、あの少女を連想した。
途端に、眼前にうすぼんやりと見えてくる、ひとつの影があった。
「……お前の名はなんだ」
「私にもとより名はないわ」
「それは不便だな」
「……星歩」
「は?」
「それが私の名ということでいいわ」
神が自らに名前を付けた。
即席で思いついたままに言ったのか、何百年も昔から考えていたのかは分からなかった。
「この行き過ぎた異常現象を、止めてもらう訳にはいかないのか」
「無理ね。そういうシステムになっているもの。物理法則と言ってもいい。私は人間のメタ的存在ではあるけれど、神ではない」
今日は、ずいぶんとぼやけて見える。
雨の中に吸い込まれそうに思えた。
「ところで、あなたはこの世界の崩壊を止められそうかしら?」
「……それは」
明らかに、何かをしなければならないことは分かっていた。
でも、何から手を付けたらいいやら……。
「そう。もたもたしていたら、すべてを失うわよ。それでもいいのかしら?」
「……そういうお前こそ、どうなんだ」
「……私のことはどうでもいいの」
こいつ……歩の目的はなんだろう。
「なぜ俺たちに姿を見せたんだ」
「あら、そんなに会いたくなかったかしら?」
「そうじゃない」
「ならいいじゃない。まあ本当はあまりよくないけれど。世界の外側から、ただ傍観者のように監視しているだけというのは退屈だわ。それに、私と直接かかわれる存在は多くない。ほとんどの人間は私の存在すら視認できないからよ。だから、あなたみたいな人間は貴重だわ。……それに、どうせ終わる世界なら、少しくらい秩序に反逆の意思を見せてもいいでしょう?」
「そうかよ。でもこっちは忙しいんだ。用もないのに現れてくるな」
「……醜いわ」
「は?」
見にくい、と一瞬聞き間違えた。
「その冷たさが、何よりも諸悪の根源。優しさもつながりも、探究心も失った人間たちに未来はない。……そうね。いいわよ、私はすべてを失ってもいいわ。……こんな人間たちなら、いない方がましだから」
最後だけ、少女の声が舞った。
刃物のような鋭利さをもって。
「じゃあ私は行くわよ」
俺が黙っている間に、少女は霧の中に消えた。
古井さんの家の方へ、歩みを進める。
呼び鈴を鳴らすが、反応はなかった。
俺は、郵便受けに一通の葉書を入れる。
『電話番号はこちらです。何かご連絡下さい』
無視してくれてもいい。
だが、俺は彼女の事情について、もっと深く知りたかった。
その夜、壮治さんから電話がかかった。
「あの時はご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
「……いえ、迷惑だなんてとんでもないです。……それで、古井さん、いや、秀理さんの状態はどうなりましたか?」
「それはご心配なく。今はだいぶ落ち着いています。ですが……」
彼によると、彼女はまだ勉強を続けているらしい。
本当は、あの日の試験を受けなかった時点で、もう志望校にはどうあがいても入れないのに。
いい意味で、なんて愚直なんだろうと思ったが、壮治さんの話によると、どうやら強迫観念に突き動かされているのだという。
そして、静かに涙を流しているのだと。
「娘の細い腕には、歯形がいくつもついていました……」
「……そうですか」
自傷。
俺のように、ちょうど獣が縄張りを主張するように、世界から与えられた傷を、自分で塗り替えたいという衝動からだろうか。
それとも、自分にぽっかりと空いた穴を、傷――あくまで自分という存在で完結している、晴れ渡った純潔さを象徴するもの――で埋めようとする激情からだろうか。
ひどく心が痛んだ。
でも、何も分からないよりはいい。
「前に、話しましたよね。娘があんなに勉強を続けるのは、もしかしたら父親、すなわち僕のためなのかもしれないと」
「……そういえば」
「八年間も言葉を発しなかった娘と一緒に暮らしていると、少しずつなにかが分かってくるのです。無表情に見えるでしょうが、娘はぶっきらぼうではありません。とてもやさしい子です。父親である僕にはわかります。勘ではありません。直感でもありません。遊園地から帰った日の娘は、晩御飯をよく噛んで食べていました。ほんの少しだけ、わずかに表情がほころんでいました。きっと楽しかったのでしょう。……そして、先日の出来事があってから、ほとんど確信しました。受験勉強に励む娘の、本当の意図を」
「……それは、なんですか」
俺には分からない。
想像はできる。しかし、出しゃばってしまうのが怖くて、そのどんな結論にも至れずにいる。
俺と惟花だってそうなのだ。
一番近くにいる俺でさえ、惟花が何を考えているのか分からない。
でも、彼らは違う。
本人と、その一番近くにいる、壮治さんだけが分かる。
彼らの、本当の結論を。
それが、彼の口から語られた。




