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配電盤

 いつもの時間に彼は目を覚ました。まだ外は真っ暗に近く、気温も低いが彼は勢い良く上体を起こしてベッドから身を離す。部屋着のままで彼は洗面所に行き、照明のスイッチを叩く。

 タオルを水で濡らすとキッチンに持っていき、電子レンジで二分間加熱する。そうして熱々になったタオルを顔に巻いてヒゲを柔らかくする。開いた蛇口からお湯が出始めるとそれをマグカップに溜めてブラシを温める。十分にブラシが柔らかくなった所で彼はカップのお湯を捨てて粉末石鹸を入れるとブラシで良く泡立てた。

 タオルを取り払うと細かい泡を顔に塗る。泡でヒゲが隠されると彼は戸棚からヒゲ剃りを取り出した。今時珍しい一枚刃のカミソリを彼は愛用していた。軽く刃の部分をお湯で濡らしてヒゲを剃り始める。刃が皮膚の上を通ると勢いが良い音を立ててヒゲが剃られていく。少しでも刃を横に移動させると皮膚を切ることになるので彼は細心の注意を払っていた。一回目の順剃りを終えると再び泡を顔に塗り、逆剃りも済ませる。全く切らずにヒゲ剃りを終えられた事に彼は満足した。

 歯磨きも済ませて朝の日課を終えるとキッチンに立って朝食を作り始めた。パンをトースターに入れると、その間にベーコンと卵を焼く。いつもと違うのは二人分を作らなければいけない点だった。

 ハロルドがフライパンを操っているうちにソフィーが眠い目を擦りながら起きて来た。

「おはよう。朝早いのに起きられるんだな」

「物音がしたから。早過ぎるよ……」

「早寝早起きだ。もうすぐ朝食ができるから待っててくれ。もう二枚トーストしてくれると有り難いが。入ってるのはテーブルの皿に載せてくれ」

 彼女はハロルドに言われた通り焼き上がったのパンを皿に移して新しいパンを入れる。ベーコンと卵を焼き終えると二つの皿に盛り、テーブルまで持って行く。

 彼は席に着く前にエスプレッソマシンを動かして二杯のエスプレッソを淹れる。片方はハロルドの分で、もう片方はソフィーの分だった。ソフィーの分は大きなマグカップに移して砂糖と温めた牛乳を加えてカフェ・オ・レにした。エスプレッソは一般的に濃すぎるからだった。

「良いの?」

 怪訝そうに彼女は尋ねる。彼は何でも無いといった様子だった。

「コーヒーは嫌いか?」

 ハロルドは自分のコーヒーに砂糖を入れながら聞き返す。彼女は首を横に振った。ソフィーがコーヒーを飲んだのを見て彼は席に着いて朝食を摂り始めた。

「なんか……ちょっと、らしくないような気がする」

 ソフィーがそう言うと彼は食事の手を止めた。

「君が来た時点でらしくない事ばかりだが」

 ハロルドは諦めたように笑う。出てきたのが溜息で無かった事に彼自身が驚いていた。

 朝食を終えるとハロルドは食器をまとめて流しに持っていき、置いておかずに洗い物を済ませる。コーヒーを飲む間に程良い時間になったので彼は服を着替えてカバンを持った。仕事場に向かうには少し早い時間だった。

「そろそろ出るぞ。忘れ物は無いな?」

「うん、大丈夫」

 二人はガレージに行き、車に乗り込む。いつものようにハロルドは車を出して駅に向かった。ただでさえ交通量の少ない道路なのに朝方となると車の痕跡すらも無い。

 ハロルドはカーラジオを流して沈黙を和らげる。今日の天気は悪くなく、乾燥しているが気温も高めだと言う。そしていつものように政治の報道が始まった。波乱を呼んでいるようだが、血が流れないだけマシだとハロルドは思った。

「次はいきなり来ないでくれ」

 思い出したようにハロルドは言う。その言い方にソフィーは疑問を持ったようだった。

「いきなりじゃないなら良いの?」

「要相談だ」

「……ありがと」

 駅に着くと彼らは人もまばらなプラットホームで電車を待った。早くに出る利点は必ず座れるという事だ。そもそも郊外に向かう電車なので混雑知らずだった。

 電車に揺られて彼女の最寄りで降りると真っ直ぐに自宅に向かった。そろそろ夜の仕事の終業時間で、仕事終わりの娼婦がホテルから出てくる。立場的に取り締まらなければならないが、今はその時ではなかった。

 すっかり見知った道を通ってソフィーの家に向かう。しかしいつもは静かなソフィーが住むアパートの周りは珍しく騒がしかった。しかもただ騒がしいだけでなく、SCCUの人間が居て規制線を張っている。焦げた臭いを感じたハロルドは急いでソフィーと共に中に入った。

 彼らを出迎えたのは焼け落ちたアパートだった。ハロルドは来る場所を間違ってしまったのかと思ったが、間違い無く目の前にあるのはソフィーが入居しているアパートだった。一夜の内に無くなった住居を目の当たりにして彼女は呆然と膝から崩れ落ちた。

「何が有った? 事件か?」

 ハロルドは近くに居た新人の捜査官を捕まえて尋ねた。

「事故です。出火元は配電盤でした。えっと、そちらの方は?」

「このアパートの住人だ。被害は?」

「……アパートに居た全員が死にました。他はご覧の通りです」

 捜査官はハロルドの耳元で彼女に聞こえないように配慮して言う。確かに当事者が聞くには辛い内容だった。

「何で?」

 彼女は吐き捨てるように言う。彼女が住んでいた部屋も酷く焼けていて、家財道具は何一つとして残っていないだろう。

「ソフィー、そんな気分じゃないだろうが事情聴取を受けるんだ」

 ハロルドは携帯でレイに連絡して遅れる旨を伝える。ハロルドはソフィーを立たせて、捜査官に引き渡す。その間に彼は許可を得て火災の現場に立ち入った。どうしてもソフィーを疑ってしまうからだった。

 道具を持ち合わせていないので証拠には手を触れず、目視だけで検証をする。燃え具合から察するに出火元は確かに配電盤だった。次に彼は配電盤への加工を疑ったがブレーカー自体に異常はみられなかった。しかし、彼は配電盤を大きな物に交換した痕跡を発見した。そうする事で使えるアンペア数が大きくなってブレーカーが落ちにくくなるが、配線が対応していないものだと耐えきれずに溶断する。また無免許の者が電気工事を行ったようで雑な仕事だった。

 そこから出火原因は配電盤の違法交換が原因だと彼は結論づけた。彼女への疑いが晴れてハロルドは一安心した。

 次に彼が考えたのは後処理だった。アパートの持ち主はソフィーではなく、過失も彼女には無い。だから片付けをする必要も無いし損害賠償はむしろ払われる側になる。しかし家主は死んだので望み薄だ。

 最も気になるのは彼女の行く先だった。家を失い、持ち物はバッグとその中身のみ。銀行口座を持っていたとしても獣人の彼女だと時間が掛かる。この地域に住む者が保険に入っている訳が無かった。見舞金もあるが申し訳程度だ。

 考えれば考える程、ソフィーがこの状況から自力で復帰するのは不可能にハロルドは思えてきた。火災の後にすべき手続きも彼女は知らないだろう。

 場所を移して事情聴取をするとの事でハロルドは付添人として彼女と共に車に乗る。茫然自失としているソフィーは隣にハロルドが来ても直ぐには気付かなかった。

「アタシを気にしないで早く――」

「一週間以内に罹災申告書を出さないとな。出すと見舞が貰える。簡単な生活用品だが。昔は酒が貰えたが今は無いな」

 彼女は黙りこくってしまった。時刻を確認して彼は遅刻を免れない事を知ったが、苦には思わなかった。

「こんなのって」

「良いから手伝わせてくれ。君もそうしただろう」

「……お言葉に甘えさせて頂きます」

 支局に着くと取調室に案内されて、彼女への取り調べが始まった。公正を期す為に彼は外で待っていようと考えていたが、どういう訳か同席が許されてしまった。どうやらハロルドも当事者として見られているらしかった。

 いつもの決まり文句の後で捜査官が質問をする。自宅のように落ち着いているハロルドとは対照的にソフィーは気が気でない様子だった。

「えっと、火事が起きた午前一時半にどこに居ましたか?」

 ソフィーはハロルドを気遣ったのか黙ったままだったが、ハロルドはただ正直に話す事を彼女に言った。怖ず怖ずといった様子でソフィーは晩の出来事を語り始めた。

「失礼ですけど、お二人の関係は?」

「えっと……何て言えば……」

「恋人同士だ。捜査に関わらない質問はするな」

 彼女がしどろもどろとしてしまったのでこれにはハロルドが答えた。妙に捜査官が笑っているのがハロルドの気に障ったが、今は黙っていた。

「うん、恋人――えっ!?」

 ソフィーはハロルドが言った事をオウム返ししてから、その意味に気付いた。取り調べが終わってソフィーは解放されたが、ハロルドがさっき言った事に悩んでいるようだった。

「あれが一番、無難な答えだ」

「で、でも、恋人って……恋人……」

「嘘も方便だ」

「だよね」

 急ぎ足でハロルドとソフィーは駅に歩き、本来の目的地に向かう電車に乗る。到着するとハロルドはソフィーに辺りで時間を潰す為の現金を渡す。待ち合わせの場所と時間を伝えると彼は出張所に急ぐ。

 丁度昼休み時で、弁当を持参しているレイとニコライが昼食を摂っていた。ハロルドは遅刻をしない人間だったので、これが始めての遅刻だった。本来なら申告する必要があったが、面倒に思った彼は揉み消す事にした。

「何か起きたか?」

 ハロルドはいつもの様に部下に声を掛ける。ニコライは微笑み、レイは姿勢を正して返事をした。

「今の所はいつも通りです。今日はどうしたんですか?」

「火事に遭った」

 ハロルドは上着を脱ぎ、席に着くと自らの仕事に取り掛かった。自由行動をさせているソフィーを何度も不安に思ったが、振り払ってハロルドは自分の仕事に集中した。

よろしくお願いします。

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