熱含量
駅のコンコースでレイは携帯端末を片手にベンチに座って、多くの人間と人外が忙しそうに行き交うのを静かに見ていた。もうすぐ約束をした午後二時になる。不意に右耳に装着した小型無線ヘッドセットからマリーの声が聞こえてきた。
「来ましたよ。背後からです」
レイは深呼吸をして気を紛らわせる。心臓はいつもより早く脈打ち、鼓動が耳元で鳴り響くようだった。全身の筋肉に力が入って強ばるが、なんとか自然体を装う努力をしていた。鏡があれば自分がどのようであるか確認をしたかったが、視界に鏡は見つからなかった。
「来たぞ」
声を掛けられ、レイは振り向く。コートを来た男が彼の後ろに立っていた。レイが挨拶をすると男は一人分開けてベンチに座った。
今回の任務は端的に言えばおとり捜査だった。麻薬ディーラーと取引をして、証拠と身柄を同時に得ようという魂胆だ。今回はレイにとっては始めてのおとり役だった。ハロルドがおとりをやっても良かったのだが、経験を積ませるという事でレイが選抜された。
ハロルドは少し離れたカフェのテラス席から、マルコムはスナイパーライフルと共に二階の見下ろせる場所から、留守番組はインターネット越しにレイを見ていた。
「いくら?」
「100ドルだ」
レイの質問に男は短く答えた。0.1グラムあたり100ドルという事で、一般的な相場である25ドルを考えると高すぎる価格設定である。
「分かった、買おう」
ヘッドセット越しに会話を聞いていたハロルドは息を飲んだ。緊張のあまりレイはハロルドに言われていた事を忘れていたらしい。ディーラーがレイに言ったのは初めて取引をする客を相手にする時の価格である。値切らずそのまま買うという事は何も知らないという事だ。当然、信頼される筈が無い。
「……悪いがお前には売れない」
そう言って男はベンチから立ち上がる。予想外の出来事にレイは動揺していたが、ヘッドセットから聞こえてきたハロルドの声が彼に冷静さを取り戻させた。
「こっちに任せろ」
カフェに居たハロルドが動き出した。彼が居るカフェに近付いて来たディーラーの前に立ちはだかり、身分証を提示する。
「SCCUだ。君を麻薬所持の容疑で逮捕する」
男は踵を返して逃げようとしたが、素早くハロルドはスタンガンを撃って男を無力化した。レイとマルコムも遅れてやって来て、ハロルドを手伝った。突然の逮捕劇で駅に混乱が生じたが、彼らが駅から去ると収まった。
ディーラーの身柄と共に彼らはバンに乗り、出張所に向かう。失敗してしまったレイは肩身が狭かった。
麻薬は持つだけで犯罪だが、販売目的か単純所持で罪の重さが異なる。勿論、販売目的の所持の方が罪は重くなるが、その為には証拠を出さなくてはいけない。だからおとり捜査をする必要があった。
「誰だって最初は失敗する」
落ち込むレイにハロルドがフォローを入れる。出張所に着くとハロルドは男を引っ張って取調室に押し込む。マルコムに取り調べを任せるとハロルドは自分が担当する仕事に取り掛かった。
彼は部下達が書き上げた調書の最終確認をして支局に送らなければならない。液晶画面に調書を表示すると彼は指先でホイールを回してざっと目を通す。適当に校正を終えると彼はまとめて専用サーバーにアップロードする。
その後で解決したばかり事件の調書を書く作業に取り掛かった。ごく一般的な金銭関係が原因の事件で、人外から金を借りていた人間がその人外を殺してしまった。粗雑な殺人計画で、現場からは多くの証拠が見つかった。直ぐに犯人は判明して逮捕された。弁護士を頼んだらしいが、証拠と動機が明らかすぎるので有罪は間違い無かった。今や裁判所は人外と人間で判決が異なる事は無いという見解を出している。だから容疑者には一般的な判例よりも重い判決が下されるだろう。
調書を書いている間に時間が来てハロルドは出張所を出た。酒場には目もくれず真っ直ぐに駅に行って家に向かう電車に乗る。
乗り換える度に彼と同じ電車に乗る客は減っていた。ハロルドが家を構える場所に住んでいる人間は一般的に上り方面に勤務先がある。彼のように下り方面に勤務先を持つ人間は殆ど居ない。
自宅の最寄りに電車が到着すると彼は下りて改札に出る。そこでハロルドは真っ先に警備に囲まれるソフィーの姿を見付けた。上等なスーツを着た仕事終わりの人間の中で、彼女のラフな格好は異様に目立っていた。誰がどう見ても彼女は娼婦だと分かった。
「申し訳無い、私の連れだ。こんな夜分にご苦労」
ハロルドは身分証を提示して警備員に事情を話すと彼女への対応を交代した。警備員が居なくなってから彼は自分の目頭を押さえて深い溜息を吐いた。もう会うことは無いと思っていたので彼は機嫌が悪くなっていた。
「こんな所に何しに来たんだ。誰かの相手か? 迷った訳じゃないだろ」
「その……ごめんなさい」
明確に答えようとしないソフィーに呆れつつ彼は駅の近くの駐車場に行くと車のリモコンキーを操作して自分の車を見付ける。ソフィーを助手席に乗せると彼は運転席に座ってエンジンを始動させる。ゆっくりとブレーキから足を放すと車はゆるやかに発進した。
数分程度運転して彼は駅に最も近いホテルの前で止まってエンジンを切った。
「この車では君を家に送れないし、この時間じゃ君の最寄り駅には行けないからホテルに泊まってくれ。良いね?」
「あんなのアタシじゃ……」
ホテルは彼女が仕事で使うようなホテルではなく、出張に来たビジネスマン向けのホテルだった。それでも郊外なので都心部のビジネスホテルよりは安めだった。
「金は私が出そう。安い部屋にさせてもらうが。降りてくれ」
「……でも悪いでしょ」
「だったら何で来たんだ!!」
堪えきれなくなったハロルドは遂に声を荒げた。言った後で直ぐに冷静になって、大声を出してしまったことを後悔した。しかし言いたいことはその通りだった。
ハロルドはSCCUに属していて、ソフィーは売春禁止区で売春を行う娼婦である。しかもソフィーはハロルドの事で迷惑を被っている。そしてソフィーは助けた事にかこつけて強請ることはできるが、ハロルドはソフィーを取り締まる事ができるから二人の間には相互確証破壊が成立している。これ以上の関わりは互いにとって不利益しか生み出さない。だからハロルドにはソフィーがこの場に居る理由が分からなかった。この辺りの人間は危険な売春に手を出す必要が無いので客の相手は有り得ない。乗り換えが複雑なので偶然に迷って来る確率は低い。
黙ってしまうソフィーを見てハロルドは溜息を吐いた。深く呼吸して、心の制御を取り戻す。ここまで頭に血が上ったのはハロルドには久し振りだった。
「すまない。だけど、私には君が来た理由が分からない」
「……アンタの事が気になったの」
一転して彼女は気弱な様子だった。再び彼は溜息を吐いて、これ以上の追求を諦めた。
「なら、君は何がしたいんだ? 正直に言ってくれ」
「えっと……一緒に居て欲しい、かな」
言いたいことは沢山有ったが、ハロルドは溜息を吐いて堪えた。そしてエンジンを始動させるとアクセルを深く踏み込む。車は急加速して流れに乗った。行き先はハロルドの自宅だった。
「私の家に一晩だけだ。いいな?」
「ホントに?」
「あまり聞き返すと心変わりするぞ」
ハロルドは一時間も車を飛ばして更に外れにある自宅に到着した。いざソフィーを家に上げてみると、改めて自分の決断を疑った。どうしてこんな事になってしまったのかハロルドには分からなかった。
「ここにハロルドだけ?」
「……ああ」
始めて彼女から名前で呼ばれて彼は困惑してしまった。彼女は興味深そうに家の調度品を興味深そうに見ていた。不鮮明ながら彼はある考えに辿り着こうとしていた。さっきまでは頭に血が上ってたのか全く気付かなかったが、車の運転の後でより多くのことを考えられた。
しかし彼は考える事を一時的に止めて事実を待つことにした。これから起きることを考えるのは久し振りで強い負荷だったからだ。
自分の寝室で身支度を済ませたハロルドは台所に立って夕飯の準備を始めた。ソフィーはダイニングで彼を待っていた。
「君も食べるか?」
「是非お願いします」
椅子に座るソフィーは異様に丁寧な言い方で答える。表情を変えずに彼は冷蔵庫から二枚の牛肉、合計六百グラムとニンニクを取り出した。
肉に塩と胡椒で下味を付けると油を敷いて熱したフライパンで焼く。頃合いを見計らって肉をそれぞれの皿に移し、肉汁と油が残ったフライパンに赤ワインなどの調味料と刻んだニンニクを入れて加熱する。一煮立ちさせて彼は出来たソースをそれぞれの焼けた肉に掛けた。
「いただきます」
ソフィーはそう言ってから食べ始めた。一方でハロルドは調理器具を片付けてテーブルに着くと機械的にそれらを口に運んで嚥下し、先に食べ始めたソフィーより早く食事を終えた。そしてエスプレッソマシンを動かして食後のコーヒーを淹れた。エスプレッソなので砂糖は多めに入れる必要が有る。
ソフィーはその肉の量と単調な味に辟易しているようだった。それでもどうにか彼女は皿に盛られた肉を食べきった。
「ごちそうさまでした。久し振りにこんなに食べた気がする」
彼は適当に相づちを打って食器を流しに持っていく。ソフィーがその後を追った。
「後片付けぐらいアタシにさせてよ」
「君は座っててくれ」
中性洗剤を付けたスポンジで皿を撫でて流水で泡を流し、所定の位置に皿を戻す。テーブルに肘を置き、少し冷めたコーヒーを飲んで彼は何度目かも分からない溜息を吐いた。今日だけで数ヶ月分の溜息を吐いたようだった。
「こないだの中華、美味しかったよ」
彼が寛いでいると彼女が切り出してきた。それを彼は適当に反応をした。
「なら良かった」
「駅の西口にも中華料理店があるんだけど、そこもオススメだよ」
「今度行ってみる。ありがとう」
いつものコーヒーを飲んだハロルドはいつもと味が違うような気がした。外ではいつも違うコーヒーを買うからこそ、家では変わらないコーヒーを飲んでいるのに良さが何も無かった。
また気まずい沈黙が続いてソフィーが溜息を吐いた。
「あのさ、アタシは今までに色んな人と話してきたけど、ハロルドみたいな人は始めてかな。とても読めない人だよ」
「読めないのに気になったのか? 君は」
「だから、だよ。もしかしたら、もしかしたら――甘えさせてくれるかな、って」
迷うように彼女の指がテーブルの上を走る。何となく彼はコーヒーに牛乳を足した。黒の中に白が混ざり、その中間の色になる。
「私は君が思うような人間じゃない」
「じゃあ何でアタシを家に泊めたのさ」
「聞き返すなと言った筈だ」
未だに彼には選択の理由が分からなかった。単に答えを知りたくないだけかも知れないとハロルドは思った。彼が彼女を家に招いてしまった理由は、もしかすると彼女と同じ様な理由かも知れない。そう考えて、ハロルドは恐ろしくなった。
「ねぇ、もう少し甘えても良い?」
「何だ」
不意に彼女は立ち上がって彼に近づき、背中を向けて倒れ込む。思わず彼は手を出してソフィーを支え、膝の上に着席させる。
「ありがと」
「危ないだろ」
答えずに彼女は笑って見せた。彼女の背中越しに体温が伝わってくる。獣人の彼女は普通の人間よりも体温が高かった。何となく腕を彼女に回すと、更に体温が伝わってくる。不思議とハロルドは心地よさを感じていた。
「いつか男の人にこうして欲しかったな。アイツらは自分が満足したらお終いだから」
「父親は?」
「……ゲリラの指揮を執ってたから、顔も知らない」
ハロルドは心臓に杭を刺されたような気分になった。法執行局に来る前に彼は従軍して戦争を経験している。その戦争では泥沼のゲリラ戦が展開され、人間達は酷く疲弊したものだ。無意識に当時のことを考えそうになったが、彼は強引にそれを振り払った。
「名前、ちゃんと聞いて無かったな」
「え? ソフィー……ああ、本当の名前はソフィア=ラングトン。でも、ソフィーで慣れてるからそっちで呼んでね?」
名前を聞いたハロルドは少しだけ強くソフィーを抱き留める。意外な彼の行動に彼女は少し驚いたようだった。
「わっわっ、どうしたの?」
「大変だっただろ」
「まあ、ね。だからこうやって甘えさせて貰ってる訳だし」
「他に何かできるか?」
少し怪訝そうにしながら、彼女は逡巡する。返ってきた答えは、彼が思っていたよりも慎ましいものだった。
「もう少しこのままで居て?」
「構わないさ」
暫くの間、人間の男と獣人の娘は体を重ね合ったままでいた。気付くとソフィーは彼の膝の上で眠っていた。しかし不思議とハロルドは嫌に思わなかった。起こさないように細心の注意を払いながら、彼女を客室のベッドに運ぶ。そっと横たわらせ、毛布を優しく掛けた。
客室を出る前に彼は振り向き、彼女の顔を見た。出てきたのは眠りの挨拶ではなく、短い謝罪の言葉だった。その言葉は眠っているソフィーには届かなかった。
よろしくお願いします。




