情報工学専攻
一週間ぶりにハロルドが出張所に出勤してくると、何やらいつもと様子が違っていた。入口で立ち止まって周囲を見探ると、全てのパソコン画面に中指を立てた手の絵が表示されている事に気付いた。背景のオレンジ色は非常に侮辱的に感じられた。
「何が起きた?」
「重大犯罪対策部がサイバー攻撃を受けたんです。ウチの社内パソコンはボスのを除いて全滅しました。それと、ホームページも変えられました」
レイが私用の端末で重大犯罪対策部のホームページを表示すると、オレンジ色の背景に赤文字で罵詈雑言が載せられていた。そして支局から電話で犯人捜しをするように連絡を受けていた。
「仕事にならないな、これ」
ハロルドは力なく呟いた。パソコンは全滅している上に、この出張所にコンピュータに精通している人間は誰も居ない。この一件に彼らは役立たずだった。となると、犯罪を未然に防ぐパトロールが唯一の仕事になるだろう。耳を治して意気揚々とやって来たのに、早速仕事もままならない。ハロルドはこの事件を起こした犯人を強く恨んだ。
ハロルドは自分の公用パソコンからネットケーブルを抜いて起動させる。お陰で操作不能にはならなかったが、ネットに繋げないのでファイルをダウンロードできず、これもやはり仕事にならなかった。
テレビを点けると、丁度ニュースで重大犯罪対策部の失態をこれ見よがしに報道していた。良い気分にはならないが、事実である以上は仕方なかった。
諦めてハロルドはコーヒーを飲んだ。ペパーミントのフレーバーに顔をしかめたが、もう一口飲むと存外悪くない事に気付いた。
「あの」
低価格ノートパソコンを抱えたマリーが怖ず怖ずと、ハロルドに声を掛ける。不機嫌そうにハロルドがマリーを見ると、少し怯みながらも彼女は続けた。
「少し、私に見せて貰えませんか?」
「良いが……その服は何なんだ」
どういう訳かマリーはいつもの味気ない服装ではなくフリルの付いたメイド服を着ていた。思い当たる節のあるハロルドは黙ってウォーレンを見た。
「フレンチメイドですよ。良い物でしょう?」
「いつからだ」
「ボスが休暇に入ってからです」
「もう何だって良い。さっさと直してくれればそれで十分だ」
許しを受けたマリーはハロルドの机の上でノートパソコンを広げると、メガネを着用する。ケーブルを接続してイントラネットに接続してから、彼女は暫くキーボードを叩いてばかりだった。
「何か分かったか?」
嫌味を込めるようにハロルドが言うと、マリーは笑った。それは間違い無く獲物を前にした捕食者の顔だった。
「単純なマルウェアです。簡単に除去できますよ」
彼女がエンターキーを叩くと部屋のパソコンが一斉に再起動し、その後で普段通りのデスクトップ画面が表示された。男達は一斉にマリーの方を見た。
「どこでこれを?」
ハロルドはバツが悪い様子で彼女に尋ねると、微笑んで彼女は答えた。
「情報工学専攻でした」
男達は思わず顔を見合わせた。人外に対する教育はそれなりに前から行われているので、彼女に学がある事は不思議ではない。しかし情報工学を専攻しているとなると、どこからでも求められるような人材の筈だ。容姿のせいでどこにも雇って貰えず、苦労して磨いた技術を全く役立てられない職に就くとはさぞや屈辱だっただろう。
「よく拾われなかったな」
「足の本数のせいです。もし宜しければホームページも差し戻したり、公開停止にしますが」
「頼む。犯人の特定は可能か?」
「やってみます」
そう言うと再びキーボードを叩き始めた。全員がマリーの周りに集まって画面を眺めていたが、操作が理解できる者は誰も居なかった。
ハロルドは情報工学に関しては無学であるが、マリーが頻繁に打ち間違えをする事に気付くと自分のパソコンに環境を移させて作業に集中させた。
そうして彼女がハロルドの席に着いて三十分後、やっと彼女が手を止めた。レイがパソコン上でホームページをリロードすると経費不足の為に飾りっ気の無いホームページが表示された。
「犯人のIPアドレスを掴みました。プロバイダに問い合わせれば住所が分かりますよ」
「もっと手っ取り早くできないか?」
ハロルドの要求に彼女は少し逡巡して、プロバイダのデータベースに不正アクセスして顧客情報から住所を得る方法を提示する。不正アクセス禁止法によれば、その行いは違法であり罰せられるが彼は力強く頷いた。
「構わない。責任は私が取る」
四分後に容疑者の住所が入手できた。ハロルドが支局に電話をして住所を伝えると機動部隊が動く事になった。機動部隊はかなり手荒いので犯人が気の毒に思えた。
「まさか、この手の事件でここが協力できるとは」
そう言ってハロルドは肩をすくめる。法医学や行動分析学に通じたプロフェッショナルは居てもコンピュータ関係には居なかった。最近は技術が浸透した為にサイバー犯罪が急増していると統計にも表れている。ハロルドはチームが対応できない事を畏れていたが、それは解決できそうだった。
「ありがとう」
「いえ……あの、こう言うのも変なんですけど、久し振りに楽しかったです」
それを聞いたハロルドは笑った。そして男達は相談を始める。結論はハロルドの意見に珍しく満場一致で可決となった。ハロルドが代表して彼女にその内容を伝えた。
「今度からマリーも事件捜査に加わって欲しい。その場合は昇給もする」
「それはコンピュータ関係で、ですよね?」
「当たり前だ。まさか犯人確保をさせるとでも?」
「是非お願いします!」
彼女にオフィスの空席が割り当てられた。パソコン一式を二つもマリーの机に搬入し、ネットワークに接続する。あれこれ新人として迎え入れる準備をしている内に電話が鳴ったのでハロルドが出た。
電話は支局からで、犯人が捕まった事が彼らに伝えられた。どうやって情報を得たのかしつこく聞かれたが、遮って彼は電話を置いた。
「さあ、仕事だ」
ファイルがパソコン内にダウンロードされ、彼らは通常の業務に戻る。ハロルドが居ない間にこの出張所はいくつかの事件を解決したようで、先ず彼はそれらの確認をしなければならない。
適当に画面をスクロールしながら、彼は画面の文字を読んでいく。強盗、強姦、殺人、詐欺などと、彼が居ない間に色々な事件が起きているようだった。必要な物にはサインをして、夕方までに彼は休み明けに必要な仕事を全て終えた。
口恋しさを感じたハロルドは出張所を出て、最寄りのカフェからコーヒーを買って戻ってきた。ハロルドは一日にコーヒーは二杯までと自らを戒めている。何も意識しなければ彼は水の代わりにコーヒーを飲むような生活をするだろう。制限のお陰で最近はカフェイン依存も和らいできて、一日ぐらいならコーヒーを飲まなくても機嫌を維持する事ができるようになった。
コーヒーを飲み干したハロルドは空の紙コップをゴミ箱に目がけて投げる。しかし紙コップはゴミ箱の縁に当たって床に落ちた。それを見たマリーが動いて紙コップをゴミ箱に捨てた。
「マリーはここに住むのか?」
不意にハロルドの中に浮かんできた疑問だった。確かに居住には不自由ない設備は備わるが、問題は他に有る。プライバシーや心の休息の観点だ。
「まだ居させて貰えませんか? 家が無いし、それに――」
「それは構わないんだが。不便じゃないか?」
「特には……でももう服がこういうのしか無くて外に……」
何の前触れも無くハロルドはウォーレンの後頭部を引っぱたく。他の人間もその事実を知らなかったようで、全員がウォーレンに対して蔑むような目をしていた。
「ああっ! 良いんです! 必要な物ならウォーレンさんに買って頂いてますし!! それにこれぐらい……」
かなりマリーは気後れするタイプだった。健気で良いのかも知れないが、ハロルドとしてはあまり好まなかった。これはボランティアではなく仕事だからだ。
「何か有ったら私に言ってくれ。対処する」
「わ、分かりました」
終業時間になるとウォーレンに夜勤が譲られて、他の人間は支度が終わり次第帰り始めた。ハロルドは最後の確認を済ませるとウォーレンを再三注意してから出張所を出た。
夜になって街は更に活気が増しているようだった。仕事を終えた人間は挙って集まって適当な居酒屋で飲み会を始める。そんな雑踏を掻き分けて彼は一人で駅に向かう。
休んでいる間に彼は食事以外で家から出ていなかった。不意に彼は久し振りに酒を飲もうかと考え始めた。禁酒している訳ではなく、酒が飲めないという訳でもなく、飲もうと思う暇や機会に恵まれなかっただけだ。
適当にビールを買って店を出るなり彼は直ぐに取り出して歩きながら飲み始めた。マナーの悪い行いだが、罰則は無いのでハロルドは気にしていなかった。
彼にとっては久し振りのビールだった。法令上で酒が飲めるようになる前にハロルドはビールを飲んだが、当時は苦味を感じて即座に吹き戻していた。
しかし今はコーヒーを飲むようになったからか不思議と、ビールの苦味を受け入れていた。アルコール度数が低いので、水のように彼はビールを消費していった。
ビニール袋に入っていたビールを全て飲み干すと彼は再び店に入ってアルコール類を買った。さっきのビールと被るのは嫌だと思った彼はラム酒を買った。これもラッパ飲みをしながら道を行く。普段の彼だったら流石に恥ずかしいので野外でのラッパ飲みは止めただろうが、既に彼は酷く酔っていた。久し振りというのもあるし、慣れないものを飲んだという事もあるだろう。
少し歩いて酒が切れたら買い足すという常軌を逸した帰路だった。駅に辿り着くと彼は取り敢えず電車に乗った。幸いながらそれは彼の自宅に向かう電車だった。
電車の中でも彼は酒を飲んでいた。他の乗客は我関せずと、遠巻きにハロルドの様子を見ていた。
数十分電車乗って、アナウンスに自分の家の最寄りを聞き取った彼はふらつきながら電車を降りた。実際に彼が降りたのは自宅にほど遠い駅だった。
改札を通ると彼は脳内の地図に従って有りもしない自宅に向かった。薄暗い路地を彼は当てもなくグルグルと回っているだけだ。
「おにーさん、イッパツどう?」
路地で彷徨うハロルドに娼婦が声を掛けた。彼女は犬の人外で、体中が毛むくじゃらだった。普段は魅力的という感情すら感じないハロルドだが、今日ばかりは事情が違った。街灯に妖しく照らされる彼女の四肢は彼に興奮を感じさせた。
「良いね」
「えーっと……ゴム有りで75ドル、生で120ドル、でどう?」
さっきまで夢心地だったハロルドだが、金額を聞いて急に目が醒めた。頭を覆っていたアルコールという霞は迅速に晴れて、後悔と共に落ち着きが彼に訪れた。
GPSが衛星からの信号を捉えるように彼は現在地を訂正した。そして彼は自分が置かれている状態を受け入れた。自分は酷く酔っていて、見知らぬ土地で迷っている。そして娼婦に売春を持ち掛けられている。少なくとも彼が降りてしまった駅辺りは売春が禁じられている。
「売春なのか?」
「誰も気にしないわよ。一緒に気持ち良くなりましょ?」
そう言って彼女は妖艶に微笑む。法執行官としてハロルドは犯罪を見逃す訳にはいかなかった。
「ここは売春が許可されてない。現行犯――」
言い掛けて彼は膝から崩れた。更にアルコールの吸収が進んで酔いが回ったからだった。彼は両手を地面に突いて胃の中身を吐き戻す。胃の中には今まで飲んだ酒類しか入っていないようだ。さっきまでの多幸感はもう消え去って、今では酒の短所しか残されていない。
「ちょっ、ちょっと!! 大丈夫!?」
さっきまで客を相手にする時の顔をしていた娼婦を彼の異常状態を目の前にして素に戻った。彼のそばに寄り添い、背中を摩る。堪えきれずに再び彼は吐瀉した。
渾身の力でハロルドは立ち上がって路地から出ようとする。しかし足は上手く動かずにもつれて数歩で転倒した。もう彼は限界で、地面に倒れると彼はそのままいびきを立てて寝てしまった。
残された娼婦は困ったようにハロルドを見ていた。この様な相手を見るのは珍しいことではない。本来ならそのまま放置しておくべきだが、今日はどういう訳かそれが出来なかった。彼が倒れる間際に言い放った言葉に彼女は疑問と恐怖を感じていたからだった。
最終的に彼女は彼を介抱することにした。今まで生きてきた中で彼女が他人に情けを掛ける事は初めてのことだ。彼女は簡単そうにハロルドを担ぎ上げて家に向かった。
よろしくお願いします。




