重水素効果
ルーミラ支局に到着した彼らは検視室に案内された。文句を言いたかったが、責任者は既に察知して部下を案内に任せたらしい。部下に当たっても、それは単なる八つ当たりになってしまう。
「ステファン=スピナー。男性。37歳……死因不明?」
何人かの監察医がステファンの死因を究明しようとしたが、誰も明確に突き止める事ができなかった。最新の健康診断の記録で彼は健康であったにも関わらず急に死んだとのことだ。
主な症状としては臓器障害だった。敗血症のようだが血中のサイトカインの量は多いどころか少なかった。放射線障害も疑われたが、周囲の人間に同様の症状は出ていないし、体内被曝だとしても体内から放射性同位体は見つからない。支局の監察医は完全に行き詰まっていた。
作業着に着替えたウォーレンがハサミを持って検視を始めた。縫合糸をハサミで断ち切り、再び開腹する。冷蔵されていたとは言え、死後数日経っているので腐臭が立ち込める。
ウォーレン内臓を取り上げて観察し、何らかの異常を探す。ハロルドとニコライも探るように臓器を見つめていた。
「見たところ問題は無さそうです」
「となると目に見えないものが原因か?」
「自己免疫疾患とかですが……血液検査の結果は正常です。水の摂り過ぎで血中の電解質濃度が薄まっていたようですが正常の範囲内ですし、症状と合致しません」
ウォーレンは必死で考えているようだが、答えは出なかった。
「……病気じゃないとか?」
絞り出すようなニコライの言葉に二人は顔を見合わせた。
「毒殺? 血液から毒は検出されてません」
既に毒殺という選択肢は検証されて候補から外されている。血中から毒物は一切検出されなかった。
「質量分析の結果をくれるかな?」
コピー用紙に印刷されたグラフを見て彼は唸った。数十分はそうしていたかと思うと、彼は頷きながら言う。
「これは再検証が必要だね。血液が必要だ」
慣れた手つきでウォーレンは注射器を彼の大動脈に突き刺し、ピストンを引く。血管内で血液が沈殿していたようで、初めに薄黄色の血漿が、遅れて赤い粒状成分がシリンジに吸い込まれる。細胞が血中の赤血球に残った酸素を消費したので赤黒い色だった。
ポリ袋で厳重に包装されたシリンジを持ってニコライは検視室を出て行った。恐らくは科学捜査室で質量分析計を使うのだろう。ニコライはとにかく質量分析計の扱いに慣れている。彼によって現場に残された遺留品は証拠品に変わる。
その一方でハロルドとウォーレンの二人は検視室に残って遺体の再検証を続ける事にした。
「しかし、気持ち悪い死に方ですね」
遺体を捌きながらウォーレンは言う。きちんと寝ていない為に彼もまた不機嫌だった。
「気持ち悪い?」
「死因が分からないし、見当も付かない。気持ち悪いの他に無いですよ」
「それを探るのがお前の仕事だ――職場に話を聞きに行ってくる」
荷物を持ってハロルドは一人で被害者の職場に向かう。ステファンはルーミラ大学付属病院で看護師として移植コーディネーターという役職に就いていた。彼は病院に行って同僚に話を聞くつもりだ。
病院の受付でその旨を話すと、彼と一緒に移植コーディネーターをしていたジェイミーがハロルドの前に現れた。
「死ぬ前のステファンの様子は?」
「ずっと気分が悪いと言ってました。ボンヤリするようになったし、仕事でミスも多くなってましたね」
「ボンヤリ?」
「ええ……注意欠陥というか……でも気力は有ったみたいです。後は、水をやけに飲んでいたような……」
「彼と親しかったり、仕事上よく話す人は?」
「私と……後は心臓外科のサミュエル先生でしょうか」
「質問は以上だ。協力に感謝する」
メモを片手にハロルドはそのままサミュエルに会いに行った。次に手術が控えているようだったが、彼は構わず質問をした。
「サミュエル先生?」
「そうだが。今は忙しいんで後にしてくれ」
「直ぐに済む。ステファンと君の関係は?」
「上司と部下だ。それ以外に何も無い」
妙にサミュエルの返答は冷めたものだった。死を堪えているか、本当にどうでも良いのか、真実を偽っているかの三つの選択肢の内のどれかだとハロルドは考えた。どうしても一番最後の選択肢を選んでしまうが、早計な判断は禁物だ。彼は先ずサミュエルの様子を見た。
「仲は?」
「別に何も無い」
ハロルドは彼の心情を察するのに苦労していた。先ほどからサミュエルはかなり落ち着き払っている。手術前に精神を研ぎ澄ませているのかも知れないとハロルドは思った。
「協力に感謝する」
解決に繋がる手がかりが得られないまま支局に戻ったハロルドは検視台の上でペーパータオルの筒を枕にして眠っているウォーレンを見付けた。溜息を吐いて彼はウォーレンの耳元で電動ノコギリを動作させる。慌ててウォーレンは台から飛び起きた。
「すみません」
「生きたまま検視されるぞ」
「それは嫌ですね。どうでしたか?」
「ステファンは生前、ボンヤリしていたらしい。鬱病みたいと同僚は言ってたが」
「ますます分からなくなりますね」
考え詰め続けて支局の終業時間になると、出張所に居るレイから電話が掛かってきた。今日はレイが夜勤をする日だった。
「どうした?」
「報告です……そちらはどうですか?」
「こっちは死因不明の死体だ。見当も付かない」
「頑張って下さい。こちらは――」
ハロルドはレイの報告を聞き終えると、支局の仮眠室で眠ることにした。ニコライが気になるようだったが、ウォーレンもこれに同調して仮眠室に入る。支局の仮眠室は他の仮眠を取る局員達が何人も居た。
二人が寝ている時にニコライが仮眠室に大声を上げて入ってきた。時刻は午前二時であり、仮眠を取っていた他の局員を覚醒させて反感を買ったが、ニコライはそれを気にする余裕も無いらしい。
「死因が分かったよ!! 二人とも寝てないで起きてくれ!!」
「分かった、分かった、取り敢えず仮眠室を出よう」
二人の手によってニコライは早急に仮眠室から連れ出される。酔っているようなニコライは二人の手を引っ張って薄暗い科学捜査室に引き込んだ。
彼が作業していたデスクの上にはエナジードリンクの缶と錠剤のブリスターパックがあった。どうやらニコライは更にカフェインを摂取した上に、エフェドリンを配合したサプリメントを摂取したようだった。エフェドリンとカフェインの相乗効果は強く、強い覚醒作用と共に心臓発作の危険もある。ニコライは様々な分野に精通する科学者であるので致死量ぐらいは計算しているだろうが、それでもハロルドは良い気分がしなかった。医師免許を持つウォーレンは青ざめていた。
二人の心配をよそに、ニコライはコンピュータ画面に証拠となるグラフを表示した。
「死因は水だよ」
「どういう事だ?」
「ただの水ではなくて重水が凶器さ。被害者の血液を質量分析器に掛けたら水素の質量ピークが右にずれててね。初めは質量分析器の誤差を疑ったんけど、掃除しても変わらないし、血液を逆浸透膜で濾過して水だけを質量分析をしても結果は同じだった。だから重水だと分かったよ」
重水と聞いて彼らは最近、事故を起こして問題になった重水炉のニュースを思い出した。同じ物質量で普通の水よりも重いという程度しか二人には知識が無かった。
「重水には毒性があるのか?」
「化学的特性は軽水、つまり普通の水と似てるけど、分子量が違うから物理的特性は異なる。融点とか沸点とかが――」
「ニコライ、掻い摘まんでくれ」
話が長くなりそうだったので、事前にハロルドはニコライに言った。ニコライは少し黙った後で報告を再開した。
「――重水は軽水より水素結合力が大きいから体内の物質運搬が遅くさせたり、レセプターやチャネルの機能低下を引き起こす。重水が体重の数十パーセントに達したら死に至ると言われてるよ。生前ぼんやりするようになったのはレセプターの機能低下が原因で、水をよく飲むようになったのは水の異常を脳が察知したからだろう。まあそれは逆に寿命を縮めた訳だけど」
「重水の入手経路で犯人が絞れるか?」
「絞れる。けど、殺害できる量の重水を入手するのは難しいだろうね。五グラムの重水で六十ドルもする。大量に持ち出せるのは試薬会社か重水炉の関係者ぐらいだろう。重水は放射性同位体ではないから、管理がそこまで厳重では無いけど。使う時は割と大量に使うし」
ウォーレンは急いで検視室から必要な書類を持ち出し、判明した死因を書き込んでゆく。これで彼らの仕事は終わりだった。ニコライの状態が不安なので、彼をそのまま家に送り届けようとハロルドは考えていた。
「ボス、被害者って移植コーディネーターでしたっけ?」
「そうだ」
「重水と移植で思い出しました。臓器の生命活動停止液に使われています」
摘出臓器の生命活動停止液に重水を使う事で臓器の蘇生効率や保存期間が向上するらしい。採用している病院は多くないが、被害者が勤務している病院では採用されていた。
「被害者の勤務先も当たらせよう。これで終わりだ。さっさと帰るぞ」
ハロルドとウォーレンで書類を一通り書いて連絡係に突き出す。こうして、ステファンの死は殺人として扱われ、捜査が始まる。彼らがこうして死因を突き止めなければ、彼は病死と判断されて事件は発覚しなかっただろう。
仕事を終えた彼らはニコライを抱えて車に乗った。カフェインとエフェドリンの効果が切れて、今までの疲れが吹き出してきたのだった。
そこで彼らはニコライをそのまま家に送り届けるのでは無く、出張所で寝かせて様子を見る事になった。ウォーレンも朝まで残って緊急時に備える事にした。ハロルドはウォーレンに帰って欲しかったが、自らの意志でウォーレンは残るらしい。まだまだ夜明けには時間が掛かりそうだった。
よろしくお願いします。