ジェットコースター
今回は登場人物の名前にもご注目ください。
落ちていく。ただ坂道をボールが転がるように、落ちていく。それを、怖いとすらもう、思わない。
果てしない無音の世界。
本当は足音や放送や話し声なんかが、いつも通り控え目に響いているのだろうけれど、気にはならない。嗅ぎ慣れた消毒液の匂いも、確には届かない。
彼はただ、音もなく落ちていく雪を見ていた。
部屋には誰もいない。確は白いベッドの上に身を起こし、ジッと外を見ていた。
葉がほとんど落ちてしまった寒そうな木も、雪雲の間から差す淡く白い陽の光も、たった1枚のガラスに隔てられているだけだ。なのにこの、完璧に温度調節され、白い蛍光灯がずっと同じ量の光を落とす病室からは何故だか遠く感じた。
永遠に続くような、この人工的に快適な空間からは。
しかしそんなことは今更考えることでもなく、確はただ雪の降る様子を見ていた。
病室のドアの向こうで、けたたましい足音が聞こえたのは、そんなときだった。
病院という場所に似つかわしくないその音は、だんだん確の個室に近付いて来るようだった。その音で確は我に返った。
やけに似合う金の髪の男が走る。楕円形のサングラスの奥の瞳は必死な色だ。
後ろから、黒髪をオールバックにした白衣の男が追いかける。更にその後ろから、赤毛の男がのんびりとついて来る。その奇妙な行列に、人々は目を奪われる。
先頭を行く金髪の男の目がキョロキョロと逃げ場を探し、1つのドアに止まった。
「こら、刹那!そこは…」
白衣の男の焦ったような声に取り合わず、刹那はその部屋に飛び込んでドアを音高く閉め、自分の体で押さえた。
そうしたところでやっと、ベッドの上から丸い目で見てくる少年に気付いた。
窓からの風が2人の髪を揺らす。少年は微笑んだ。
「どちら様ですか?」
刹那はつられたように締まりのない笑顔になる。どう答えればいいか分からず、何も言えない刹那に、少し焦ったような、戸惑うような様子で椅子を勧める少年の言うままに、ドアから離れてベッドの脇の椅子に座る。
その途端、気持ち程度のノックの後でドアが開いた。
入って来たのは黒髪の医師と赤毛の男。
「刹那ぁー」
医師の重低音の声に、刹那はびくりとして少年の向こう側に隠れる。
少年は訳が分からず自分の両側の男たちを見る。
「え?夢彦先生のお知り合いですか?」
「高校時代の同級生だ」
夢彦が溜め息混じりに言う。
「邪魔をしたね、確くん。すぐ連れて帰る」
「タシカちゃん?俺は刹那。夢先生にいじめられてんだよ。助けて」
明るい金髪にサングラスの男はめそめそと泣きマネをする。
「誰がいじめてるって?俺の机の上に雪だるま置いてびしょびしょにしたのは誰だ!?」
「いいじゃねーか。かわいいだろーよ?」
刹那が言い返す。その口喧嘩を前に、オロオロとしている確のベッドの縁に、赤毛の男がそっと腰掛けた。
「夢の患者さん?」
確は2人に向けていた視線を赤毛の男に留める。
「はい。夢彦先生は僕の新しい主治医の先生です」
男は赤毛をかき上げる。そばかすの浮いた顔はずっと笑みのままだ。
「俺はねー、奇跡だよ。あだ名はニンジン」
「ルナールですか?」首を傾げる確に、奇跡は嬉しそうに頷く。
「そう、ルナールの小説のニンジンだよ。この髪だからね。ま、俺は染めてんだけどさ」
「奇跡さんも夢彦先生の同級生?」
「うん、そう。大学も仕事もまったく違うけどね。俺は、洋菓子店やってんの。刹那はピアノ教えてる。意外だろ?3人とも成り行きで稼業継いだだけだから」
「ピアノの先生なんですか?」
刹那は、夢彦との口喧嘩を中断して微笑む。
「おぅ。確は?高校生だろ?やりたいことあんの?」
夢彦は表情を曇らせたが、確は嬉しそうに笑う。
「僕、遊園地でジェットコースター動かしたいんです」
「へぇ、そういえば遊園地とか旅行とかのパンフが…」
刹那はその辺にあったパンフレットを手にとる。
「あ、すいません散らかしてて…」
確が照れた様に笑い、パンフレットを片付け始める。
奇跡が眩しそうに笑いながら、片付けを手伝う。
「ジェットコースター好きなの?」
「乗ったことないんです。心臓弱いから」
確は差し出されたパンフレットを礼を言って受け取りつつ、屈託なく笑い返す。
奇跡が少し気まずそうに眉尻を下げ、夢彦が溜め息を吐いた。
「すげぇな。それなのに動かしたいのか?」
刹那は感心したように確を見た。
「はい」
確の笑みに見とれた奇跡は、一瞬後に気付き、刹那の背を押す。
「…じゃあ、俺らそろそろ帰るよ。刹那がいたら煩くて仕方ないしね」
「はい。あ、刹那さん」
「ん?」
確は微笑む。
「今度、僕にも雪だるま作ってください」
刹那はニヤリと笑い返す。
「まかしとけ」
「へぇ、じゃあ、刹那たちにあったんだ」
「知り合い?姉さんって何気に顔広いよね」
缶ジュースを差し出す姉の砂生にそう言ってジュースを受け取った。
それには答えず、砂生は時計を見てイライラと言う。
「もう、遅いわね。皆…」
「真砂兄さんたちも来るの?」
嬉しそうな確に砂生も微笑む。
「ええ、愛瞳と一途も来るわよ」
確は笑う。長男の真砂と長女の砂生は双子の兄妹だ。愛瞳と一途は二人の共通の友達で、しょっちゅう4人で遊んでいる。
そのとき、ドアをノックする音がした。
「確、調子どうだ?」
顔を出したのは兄の真砂だ。
「元気だよ、兄さん」
真砂に続いて2人の女性が入って来た。
「なによ、一緒に来たの?」
砂生は言いながら椅子を譲り、豪華な金髪の美人が腰掛け、窓際に立った真砂が笑う。
「そこで会ったんだよ」
最後に入って来た黒髪の女性がベッドの脇の棚にケーキの箱を置いて、砂生が椅子を出した。
「あ、一途さん、ありがとうございます」
一途はにこりと笑顔で応えて、椅子に腰掛ける。
「ああ、ずるい。一途ばっかりたっちゃんにありがとう言ってもらって!」
そう言って、愛瞳は鞄を探り始める。
「あ、アメ玉発見。はい、たっちゃん。お見舞い」
「ありがとう、愛瞳さん」
手の平に置かれたアメ玉を見て、確は愛瞳に微笑んで礼を言う。愛瞳は満面に満足げな笑みを浮かべた。
「いいえー、どう致しまして」
「じゃあそろそろ行く?」
砂生が腕時計に眼をやる。
これから4人で出掛けるらしい。
彼らはよくここを待ち合わせに使う。
4人が帰ってしまうと病室は殺風景なだけだ。窓の外には青い空が広がっているけれど確には届かない。今日は天気がいい。雪もすべて溶けてしまうだろう。
自分が求めるものを手に入れるだけの時間が、自分に残されていないのは分かっている。けれど諦めてしまうことを自分に許せない。今、そのために何をすればいいのかもわからないのに。
「よぅ、確、起きてるか?」
静寂をかき乱したのは刹那だった。
「ほら、お見舞い」
言って、棚に置かれたのは小さな雪だるまだった。確は目を見開く。
「どうした?」
刹那が怪訝そうに確の目を見る。
確は慌てて首を振った。
だって、手に入らないと思っていたのだ。何を欲しがっても。だから欲しがらないようにしていた。刹那に雪だるまをねだった理由は、自分でも分からない。
けれど、今日には雪は溶けてしまって、刹那は雪だるまのことなど忘れてしまうんだと思っていたのだ。だから、嬉しくて涙が出そうになった。
「ありがとうございます」
「確くんの所へ行ってたのか?」
夢彦のいる院長室に顔を出した刹那に、彼は何か書類に目を通しつつ言う。
「ああ、雪だるま持って」
夢彦は笑う。
「本当に持って行ったのか」
「当たり前だろ?」
あまりに当然のように言うので夢彦はまた笑った。
「…あの子すごいよな」
刹那が呟く。
「ん?ああ、すごいな」
何がすごいというのではなく、ただ漠然とすごい、そう思うのだ。
「へぇ、確くんって真砂たちの弟なの」
「そうよ、昨日たっちゃんが奇跡たちに会ったって言ってて、ビックリしたわ」
愛瞳はそう言ってビールを飲み干す。そしてくすくす笑う。
「彼、眩しいでしょ?あんたたち3バカには…」
「あはは、眩しいね。俺も夢も刹那も、取りあえず目の前にある道をいい加減に進んでるだけだから」
「憧れちゃうのよね。正反対だから…」
愛瞳の横顔をしばらく見つめて、奇跡は笑う。
「愛瞳ちゃんの憧れの人、遅いね」
「真砂?ちょっと遅くなるって言ってたわよ」
つまらなそうに愛瞳は目を閉じた。
「珍しいね、真砂が遅れるなんて。いつも遅れるのは愛瞳ちゃんなのに」
「悪かったわね」
ふんっとそっぽを向いた愛瞳に、奇跡は困ったように笑った。
真砂が出掛け、砂生一人になった家で、電話が鳴った。電話は病院からだった。
確が病室から消えたという。
「砂生、確は?」
携帯電話で連絡を受けた真砂が、愛瞳と奇跡を伴って病院を訪れた時、砂生と夢彦は話をしていた。一途もすぐ来るらしい。
「院内は探した。外は今、刹那が探してる。すまない、こちらの不注意だ」
夢彦が詫びた。
「ねぇ真砂、確の行きそうな場所に心当たりない?」
砂生が真砂にすがりつくようにして問う。真砂は考え込んだ。
「ご両親のところは?」
遅れて到着した一途が言う。
「連絡したけど、行ってなかった。一応、2人には動かないように言っておいた」
真砂は早口に説明する。
「ねぇ、誰か家にもいた方がいいんじゃない?」
愛瞳が提案し、砂生が一途と共に家で待つことになった。
病院には夢彦と奇跡が残り、愛瞳と真砂は病院の近辺を探しに行った。
「愛瞳ちゃんに言われたよ。あの子は俺たちには眩しいでしょ、って…」
奇跡が笑うのを見て、夢彦は俯く。
「ああ…」
夜の病院で、二人は静かに話していた。
「刹那がさ、この前会ったばかりの人の為に走り回るって言うのも驚いたけどさ、夢が顔色変えたのも久しぶりに見たよね」
「患者だからさ…」
夢彦は憮然と応える。奇跡はくすくす笑い出した。
「嘘吐き。俺たちは3人とも曖昧な生き方してるから、確くんの強さに憧れちゃうんだよ」
「…」
夢彦が黙り込んだ時、彼が握り締めていた携帯電話が震えた。彼は慌てて通話ボタンを押し、奇跡は口を噤んで夢彦をジッと見る。
電話からは刹那の声と、彼のバイクのエンジン音。
『今駅だ。確を見つけた』
「駅?」
『病院の近く、無人駅…』
「A駅か?」
『あぁ、それだ。とにかくすぐ来い!』
それだけ言って、電話は切られた。
「車出すよ」
奇跡が立ち上がる。
「いい。お前飲んでるんだろ?俺が出す」
夢彦は真砂たちに連絡しながら歩きだす。
A駅前に夢彦の車が止まった。夢彦と奇跡は人気のない駅舎の中へ向かう。
「確くん!」
そこに2人はいた。駅舎の壁際に沿ってあるベンチに確は座っていた。刹那はその隣りで彼の肩を押さえている。
「こんなとこで何してたの!?」
後から来た砂生が高い声をあげる。
「しかもこんな薄着で…」
今は刹那の上着を着ているが、その下は洋服に着替えてはいるが、ジーンズとシャツに薄手のカーデガンを羽織っただけだ。
「ごめんなさい、遊園地、行こうと思ったんだ。土曜日はオールナイトだから。でも、お金持って来てないことに途中で気付いて…」
確が済まなさそうに謝った。
「ごめんなさいじゃ…」
砂生の言葉を夢彦が遮る。
「もういい。とにかく車へ、熱が上がってる」
真砂が確を刹那の上着ごとコートでくるみ、抱えて一途の車へ運んだ。
砂生と愛瞳と一途が後を追う。
刹那は駅舎から出て、上を見上げた。冬の清澄な空気を透して、星がよく見える。
「求めれば手に入るかもしれないって、教えたんだ」
刹那の呟きに、奇跡と夢彦はそちらを見る。
「強く思うものがあるのに、弱々しく笑ったから…」
「ああ」
夢彦は刹那と同じように空を見上げた。
「ジェットコースター、乗りたかったんだってさ。…ごめん、夢」
奇跡の目を見ていて、やがて俯いた。その額に再度、石が当たる。
「バカー、八つ当たりだよ。言い返せって!セツは悪いことしてないだろ?」
奇跡は言いながら刹那の手を引く。
「奇跡…」
「あの子はジェットコースターに乗ることも、動かすって夢も、心のどこかで諦めてたんだ。それを、セツが動かしたのがなんだか悔しくて、意地悪言ったんだよ」
奇跡は刹那をバイクのところまで引っ張って行き、ヘルメットを被って後ろに座る。
「いい加減アタマも冷えただろ?早く乗って!病院連れてってよ」
「奇跡…?」
「何?」
「酔ってるだろ?」
ハンドルを握りながらいう刹那を見て、奇跡は考え込む。その返答を待たずに刹那は言った。
「ありがとな」
「…うん」
確は心臓の手術を受けるために米国へ旅だった。刹那にありがとうと笑っていた。
最終的にどこまで回復するかはわからない。
だが、いつかジェットコースターに乗りたい、と彼は笑っていた。
E
ちなみに私はジェットコースター乗れません。怖くて。
今回の話は、名前考えるのが楽しかったです。