第8話 銀翼の乙女 2
「キャー……っ!」
先頭を歩く商人がティアナの元に行ったことで、振り返って後方のティアナ達の様子をうかがっていたレナーテや他の労働娘達が鞭を振り下ろされるティアナを見て悲鳴を上げた。
ティアナはまさか鞭を持っているとは思わず、咄嗟に身動きが取れなくなる。
このままでは鞭で打たれてしまう――
だけど、暴力に怯え弱気になるティアナではなかった。例え鞭で打たれようと、商人達に従う気はなかった。
唸りを上げて目前に迫った鞭に、痛みに備えて目をつぶった。その時。
ドスッ、ドスンッ――っ!
鈍い音が走って、自分の体に痛みを感じない事に内心で首を傾げて、ティアナはゆっくりと瞼を開く。
目の前にはなぜかティアナを鞭で打とうとした肥満体形の商人が昏倒していた。
一体なにが起きたのだろうと視線を足元からあげると、そこには肩よりも長い蜂蜜色の髪を無造作に背中に流し、宵闇のような紺のマントを羽織った身なりのいい長身の男が立っていて、手にはさやに履いたままの黒い長剣が握られていた。顔は無表情で鼻筋が高く整った顔立ち、氷の様な冴えた瞳が一層美しさを際立たせていた。
その横には影のように細身のシーグリーンの服を着た栗毛の男性がつき従っている。
この人が助けてくれた――?
そんなことを考えていると、ティアナ同様、突然現れた蜂蜜髪の男に動揺していた顎髭の商人が食ってかかる。
「おっ……お前、なにするんだ!? 俺達が誰か分かってるのか? ギルドの商人だぞ、邪魔する……なっ……」
商人の言葉が最後まで言い終わる前に。
「知っている、まるで奴隷商人のようだがなっ」
蜂蜜髪の男は蔑んだ声で言い、冴えた氷の様な冷たい視線を商人に向ける。途端、商人は顔を強張らせ、後ずさる。
「ギルドの商人なら、なぜ鞭を持っている? 労働娘達を従わせるためか――?」
あまりに威圧的な男に、強気だった商人は下手に出て媚びへつらう。
「いえ……ですね、この娘が自分は労働娘じゃないとか抜かしまして……」
手でゴマをすりながらぺこぺこ頭を下げる商人から、ティアナに視線を向けた男は、一瞬、くっと片眉を上げすぐに無表情に戻る。
「お前は――?」
男に尋ねられてティアナは困ってしまう。
名乗る名前も分からず、自分の身を証明するすべも分からない……
黙り込んでしまったティアナになにか言おうとした男の足元に、レナーテが駆けつける。
「あの……この子は海を遭難していたところをアスワドに拾われたんです。だから正確には労働娘ではなくて、それを商人がギルドに無理やり連れて行こうとしていたんです……」
身なりがよく身分が高い貴族と思われる男に、膝を追って最高級の拝礼を取る。
「そうか、もめている様子は見ていた。ポラリスからの労働娘でないなら、ギルドに向かう必要はない。お前は行きたい所へ行くがいい」
事情を説明したレナーテに頷き、後半はティアナに言う。
突然、自由を言い渡され呆然としていると。
「困るな……勝手な事をされちゃ……」
剣で打たれ床に倒れていた肥満体形の商人が意識を取り戻したのか、頭をさすりながら上体を起こし、側にあったティアナの足首をぐいっと引き寄せる。
「きゃっ――」
突然、足を引かれことでバランスを崩したティアナは床に倒れてしまう。
商人は立ち上がると、倒れたティアナを見て意地の悪い笑みを浮かべてる。
「こいつは労働娘だ。漂流してるとこを助けて拾った瞬間からこいつはギルドの所有物なんだよ。あんたがどこの貴族か知らないが、ギルドに口出しされちゃ困るな」
そう言って、立ち上がろうとしたティアナの腕を引く。再びバランスを崩してくずおれたティアナの腕を引きずって行こうとする。
「さあさ、歩け歩け! ギルドまで歩けっ!」
こちらの様子を見ていた他の労働娘に肥満体形の男が怒鳴る。
蜂蜜髪の男が動こうとして、今までずっと黙って横に立っていたシーグリーンの服の男に小声で何か囁かれ、動きを止める。
くっと奥歯を噛みしめ、冴えた氷の瞳を一瞬揺るがせ、冷徹な声で告げる。
「――待て。分かった、その娘は私が貰おう」
男の言葉に足を止め振り返った商人は、にぃーっと目を細め下卑た笑みを浮かべる。
「はははっ。なんだ、いちゃもんつけてきたのは結局はこいつを自分の物にしたかったからか――確かに、こいつは珍しい銀髪で欲しくなる気持ちは分からないでもねーが。まぁ、そういう話はギルドで聞こうじゃねーか」
商人はにんまりと気持ち悪い笑みを浮かべる。
ティアナは親切に助けてくれたと思っていた蜂蜜髪の男が、結局は自分を物と見ていたのかと愕然とする。
もしこの男に引き取られても、結局は自分の意思を無視され自由を奪われるのだと思うと、絶望感に襲われた。
しかし――
「エマ――」
蜂蜜髪の男は連れの男に声をかけると男の手元から何かを素早く奪い、それを肥満体形の商人にだけ見えるように掲げる。
「――っ!?」
瞬間、商人の顔から下卑た笑みが消え、さぁーっと血の気が引く。
「どうしたんだ?」
「あっ……ハ……お――」
離れたところにいた顎髭の商人が近づいて怪訝そうに首を傾げるが、肥満体形の商人はがくがくと口を震わせ目は泳ぎ、何を言っているかわからなかった。
「連れて行っていいな?」
威圧的に蜂蜜髪の男が告げると、こくこくと頭を縦に振る。
「ギルドは新体制の雇用機関だ、くれぐれも労働娘達に無体を強いるなよ」
にぃっと笑った男の瞳は氷のように光り全く笑っていなかった。
「ひぃ――っ」
肥満体形の男は悲鳴を上げて、腰を抜かせて床に尻もちをつく。
「おい、いいのかよ?」
顎髭の商人が、ティアナを連れていく男ともう一人の商人を見比べて怪訝に尋ねる。
「……いいんだ、やめろ……あの男に逆らっちゃいけない……」
ティアナ達が遠くへ行ったのを確認してから、ため息のように小さな声で囁いた。