第6話 渡りに船
ザァーという静寂を破る音。川面に跳ねる水音を響かせ、視界が暗闇に飲みこまれた。夜空の様な漆黒に、口から漏れた泡沫が星のように白く輝く。
いつか大事な人と見た星空に似ている――と思い、ふっと息が切れて意識が途切れる。
それが最後の光景だった――
※
ザザーンッ――という水しぶきの音に、ティアナは床に横たえていた体をゆっくりと起こす。
周りを見渡すと木張りの壁と床の小さな部屋のような場所で、体の下には藁が敷かれていた。
見覚えのない場所にいることにしばし瞠目し、直前の記憶を思いだそうとして、ズキズキと頭に痛みが走った。
ティアナは額に手を当てて顔を顰める。
いったいここはどこなのだろうか――、それに――
「あら、あんた起きたね、体調はどう?」
痛む頭に手を当てたまま声のした方を振り仰ぐと、ティアナより二つ三つ年上の女性が膝をついて心配そうな顔をしている。
「……だいじょうぶ、です……」
不安げな顔で頷くティアナに、強い意思を宿した黒い瞳を和ませて女性が快活に笑いかける。
「それは良かった」
そう言ったにもかかわらず、僅かに陰りを帯びた顔で肩をすくめる。
女性がなぜそんな顔をしたのか分からなかったが、知らない場所で親しげに声をかけてくれた女性に警戒心を緩めて問いかける。
「あの……ここはどこなのですか?」
よく見ると、部屋の中にはティアナと話しかけてきた女性以外にもたくさんの女性がいた。ある者は横になり、ある者は壁際にうずくまって座っている。会話しているものはほとんどおらず、その静けさにいままで他に人がいることに気づいていなかった。およそ……八十人くらいだった。
女性はティアナの質問に眉根を寄せて驚き。
「覚えてない……? あんた、海で遭難しているとこをこの船――“アスワド号”に拾われたんよ」
尻すぼみに言葉を濁し、視線をそらしてしまう。
「アスワド号……?」
聞き慣れない単語に首をかしげると、困ったように肩をすくめ、女性は周囲に視線を泳がせてからティアナに近づく。
「あんた……アスワドの名前を知らないなんてやっぱりポラリスの人じゃないね?」
やっぱりという言葉に首をかしげるティアナに、女性は苦笑して横に座った。
「あたしの名前はレナーテ、よろしく。この船アスワド号はポラリス島とロ国を結ぶ労働船。あたしもそうだしここにいる人はみんな出稼ぎでロ国へ行くんよ……」
レナーテと言った女性は、明るい笑顔の双眸を郷愁に揺らした。
ロ国というのは東の大国、国土の六割を砂漠が占め、街にはいく筋の運河が廻る水の国。海路を有する貿易に盛んな国で、民芸品などの売買が主な産業である。
ポラリスは北のドルデスハンテ国よりもさらに北――北西に位置する一体の名称で、独立した国家は存在せず数多の部族が集落を形成している。多くは移牧民で、夏は山に、冬は低地に移動している。
労働船というものを聞いたことがなかったが、出稼ぎと聞きなんとなく意味を理解して頷いたティアナに「でもね……」とレナーテが言葉を濁す。
「労働船って言うのは名ばかり……実際は奴隷船とほとんど変わらないけど」
奴隷船――その単語にティアナはドキンっと胸が跳ねる。
人間でありながら自由や権利が認められず所有物とされる。所有者の絶対的な支配の下に労働を強要され譲渡・売買の対象とされる――奴隷。その奴隷をポラリスからロ国に運ぶのが奴隷船。
ロ国の豪商によって拡大された組織で、未だに奴隷を売買する奴隷市が存在すると聞いたことがある。
この船がその奴隷船だと聞いて、恐怖に背中が震えだす。
不安そうに隣に座るレナーテを見たティアナ。
胸の前で膝を抱え足元に視線を下としていたレナーテは顔を上げて話を続ける。
「ううん、もともとは奴隷船だった――と言うのが正しいね」
「えっ……?」
「奴隷制度は一年前にロ国に新しく即位されたスルタンによって即刻廃止されたんよ。代わりに出来たのがこの労働船と労働組合――通称ギルド。あたし達はこの船でロ国の北の玄関口シュチェンのギルドで職を斡旋してもらう。と言っても、この船は奴隷船廃止後初めての労働船というわけさ」
「そうなのですか……」
奴隷船ではないと聞き、ほっと安堵する。
そういえば確かに一年前、ロ国に新しいスルタンが即位したという知らせを受けた。ロ国は数年間内乱が続き国内情勢は悪化し、元々国交もなく、スルタン即位以外の情報は入ってきていなかった。
即位後は内政の安定や国交に忙しいんだろうに、それでも即位一年で忌まわしき歴史である奴隷制度を廃止するなんて、傑物なスルタンなのだろうと想像する。
想像して――なんで自分は国政に詳しいのだろうと頭の片隅で首をかしげる。
「だけど正直、みんな不安なんよ。奴隷制度が廃止され労働船が出ると聞いてほとんどの者が安堵した、これで奴隷制度に苦しむ事も、奴隷として誰か連れさられることもない――ってね」
ティアナには想像も出来ない苦境に生きてきたレナーテのそれを思わせない気丈な態度に尊敬の念を抱く。
「労働船の説明を受けて、ギルドに行けばお金を貰って働けるって聞いて誰もが家族のため愛する人のために志願した。例えそのお金が微々たるものでも労働がきつくても、奴隷よりはなしだって思って。だけどね……この船は奴隷船を塗り替えただけ。商人のあたし達に対する態度だって酷いもんさ。こんな狭い部屋に閉じ込めて、食事もろくに出さず、何十日間もこんなとこにいれば頭がおかしくなりそうさっ……」
憤った声でレナーテは言い、苛立ちを追いだすように頭を振って苦笑する。
「アスワド号のことを何も知らないあんたにこんな話して不安にさせてごめんよ」
「いえ……親切にいろいろ教えて下さってありがとうございます」
礼儀正しく言って頭を下げたティアナを、目を丸くしてレナーテが見つめ、ふわりと笑う。
「あんた、どこぞの令嬢かなんかなの? その銀髪といい、ポラリスでは見かけない珍しい色だし……」
そう言って優しくティアナの銀髪を手で梳く。
レナーテが言うにはポラリスの人々は赤毛や栗毛がほとんどらしい。言われてみれば部屋の中にいる女性はみんな赤毛か栗毛のどちらかで、レナーテも栗毛だった。
「あの、私はこれからどうなるのでしょうか……?」
ここがどこでどこに向かっているのかを聞いて、少しは自分の置かれている状況を理解したティアナは一番の問題を問いかける。
尋ねられたレナーテは少し困った顔をして視線を伏せる。
「さあ……あたしには分からないけど、たぶんあんたもギルドに連れて行かれると思うよ」
ギルドに――
どんな場所かも想像つかないギルドに、不安が胸に渦巻く。
黙り込んでしまったティアナに、レナーテが「そういえば……」と顔を上げる。
「あんたの名前をまだ聞いていなかったね」
ティアナははっとして自分の名前を言おうとして、ズキンッと頭を割られるような酷い痛みが走って顔を顰める。
「私……私の名前は……」
私の名前はいったいなんだった――!?