第44話 2つの予兆
闘技場――
右大将軍の掛け声がかかり、まず初めに動いたのはダリオだった。素早くレオンハルトの懐に飛び込み、剣を横から薙ぎ払う。
ぎりぎりの所で剣を受け止めたレオンハルトは、一太刀目で渾身の一撃を叩きこんできたダリオの威圧感に一瞬たじろぎ、すぐに体勢を立て直す。
少し離れた場所に移動して右大将軍と決闘を見守っていたエマは、つぅーっと背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
いつの間にか闘技場には叩きつけるような雨が打ちつけ、静けさの中に刃の交わる金属の音と降りつける雨音とが悲しげなメロディを奏ではじめる。
ダリオの己の技巧を誇示する猛々しい攻撃を、レオンハルトは重厚で流麗な剣さばきでかわしていく。
スルタンの地位に着くまで何度も戦を経験したダリオに対し、戦を知らずに育ったレオンハルトは――経験値という面でわずかに押されている。それを感性と感覚の良さで攻撃を読み、流れるような俊敏さでかわす。剣を振り上げて切りかかってきたダリオの攻撃をはじき返し、時には攻撃に転じていた。
力は五分五分。だが――
目先の欲に囚われ、あらぶる獅子のように激しく剣をたたきつけるダリオはどこか脆く、危うく見える。
そんなダリオを、レオンハルトは澄んだ空色の瞳で冷静に観察し、一瞬の隙も見逃さないように目を光らせて見ていた。
一撃、二撃……火花を散らすような攻防を繰り返し、ギリリと剣を重ね合わせては弾き飛ばし、間合いをとる。
いつの間にか雨雲が途切れ、その隙間から刺すような月明かりが雨で濡れた闘技場の土を照らす。
氷の瞳をあやしく燃やしたダリオは一気に間合いを詰め、力でレオンハルトを押し込み、追い詰める。
その瞬間、ぐらりと地面が大きく揺れた――
刃を交えていたレオンハルトとダリオは激しく揺れる地面に足を踏ん張り、倒れないように身を強張らせる。
だが、ぬかるんだ地面に足をとられたレオンハルトは、地面に尻をついて転んだ。
ダリオは瞳を不敵に輝かせ、白刃をきらめかせる。レオンハルト目がけて力強く剣を振りおろした――
※
黒猫の後ろ姿を見失わないように無我夢中で走り、どこをどう走ったのかは覚えていない。
長い廊下の先、猫がぴゅっと角を曲がって姿を見失ってしまった。
ティアナは肩で息を整えながらも、走る足を止めずに猫が姿を消した角を曲がり、その先に堅固にそびえる闘技場を見つける。
闘技場の入り口に駆けつけたティアナは、いつのまにか黒猫が姿をけしていることに気づかなかった。
激しく交わされる剣の鋭い音が響き、薄暗い闇の中、ふっと雨がやみ、厚い雨雲の隙間から月の光がこぼれ、レオンハルトとダリオの姿を照らしだした。
瞬間、ぐらりと地面が大きく揺れ、バランスを崩したティアナは入り口の門に手をつき、なんとか体を支える。
ほっと安堵のため息をつき、素早く闘技場の二人に視線を走らせる。
闘技場の中央、白刃をきらめかせレオンハルトに向かって刀を振りおろそうとするダリオの姿があった。
「ダリオ様、やめて――……」
咄嗟に叫んだ声に、ダリオがびくりと肩を震わせる。
その一瞬の隙を見逃さず、レオンハルトが体勢を立て直す。
カキィーン……と金属の鋭い音が響き、レオンハルトの一閃がダリオの手から剣をはじき飛ばし、大きく宙をとんで闘技場にからからと転がった。
すっと白銀の刃がきらめく。片膝を地面についたレオンハルトが、立ちつくすダリオの喉元に剣を突きつけていた。
「勝負あり――」
低く響く声に、安堵の息をもらしたティアナは、闘技場を照らす天を仰いではっと息をのむ。
そこには――
不気味なほどあざやかな輝きを放つ月が二つ――
その瞬間、再びぐらぐらと地面が大きく揺れ出す。立っていることもままならず、身をかがめて揺れが収まるのを待つ。
決闘が終わり、ダリオから離れたところにいたエマと右大将軍もダリオを守るように側に近寄りながら、地を割るような揺れに息を飲んでいた。
闘技場から離れた王宮からも、悲鳴や物の割れる音が聞こえてくる。
かなり長い間揺れ、じじじぃ……と砂埃を上げて次第に揺れが小さくなってくる。
ティアナはかがめていた身を起こし、顔を上げてぎゅっと眉根に皺を寄せる。
見上げた空には、たなびく雲の隙間から月の静かな光が差し込む。そこには先程の、不気味に浮かぶ二つの月はなかった。
目の錯覚かとも思ったが、ゆっくりと近づいた先、レオンハルトもダリオもエマも右大将軍も、顔を強張らせて天を見上げていた。
近づいてきたティアナに気づいたレオンハルトが、気づかうように優しい声をかける。
「ティアナ様、ご無事ですか?」
「はい、レオンハルト様も?」
聞きながらも、決闘で傷などを負っていないか自分の目で確認して、ティアナは表情を緩める。
「ええ……」
歯切れ悪く答えたレオンハルトに、ティアナは再び空に視線を映し、その瞳に戸惑いの色を濃く。
「先程の……見ましたか?」
もし自分だけしか見ていないのなら錯覚だと言いきれた。そうであってほしいと望み――返ってきた答えが、胸をつく。
「ええ」
「ああ、空に月が二つあった……」
レオンハルトの声に、ダリオの重厚な声が重なる。
確かに月が二つあったことに、ティアナは胸の中をかきまわされるような恐ろしい不安に襲われ、きゅっと強くその瞳を閉じた。
「不気味に浮かぶ二つの月……なにかの予兆でしょうか……?」
冷静さをとりもどしたエマが、誰に尋ねるとはなしにつむいだ言葉に、皆が息をのむ。
「これも異常気象の一つなの――?」
星砂漠で各地に異常気象が起こっていると言ったレオンハルトの言葉を思い出して、絞り出すような小さな声でティアナが言った。
レオンハルトとダリオは、それぞれに、苦悩に顔を歪める。
その表情を見て、そうなのだとティアナは確信する。
自分が記憶喪失の間に、なにかとんでもないことが起ろうとしている。足音を忍ばせて、恐ろしいものがすぐ側まで迫っている気がして、ぶるりと背中を震わせて、姿の見えない恐怖心から身を守るように自分の体を抱きしめた。
記憶を取り戻したら、ルードウィヒの過去の誤解を解こうと思っていたけれど、それどころではないことが起ろうとしている――?
そう考えて、復讐に燃え立つ瞳で姿を消したルードウィヒのことを思い出し、辺りを見回す。
闘技場を囲むように照らす松明が周りにいくつかあるが、ルードウィヒの姿は見当たらなかった。
あの炎のどれかから見ているのかしら――?
それとも、好機を逃したと思って諦めたかしら――
最後に見せた、刃物のように鋭く悲憤の炎を燃やした瞳が前者のように感じて、ティアナは痛む胸に顔をしかめた。
※
一人、闘技場の外を見つめるティアナを揺れる瞳で見つめていたダリオは、すっと視線をそらした。
一度だけでいい。一人の男として、自分が愛した女性に熱くたぎる想いを心のままに打ち明けたかった。
気持ちを伝えるために必ず勝つと誓ったが――決闘の結果は敗北だった。
条約を結ぶことに異論はない。だが、ティアナが他の男に嫁ぐことをすぐには受け入れられない。
伝えられずに胸にしまい込まなければならない想いはくすぶり、燃え立つ炎が胸を焦がし、その苦しみにどうにかなってしまいそうだった。
「スルタン」
苦しみを隠すように顔をそむけていたダリオの背後から、澄んだ声がかけられる。レオンハルトだ。
「お望み通り、決着をつけました。約束は守っていただきます」
レオンハルトなりの気づかいか、ダリオにだけ聞こえるような静かな声で話すレオンハルトに、ダリオはぎりっと奥歯を噛みしめる。
肩越しにレオンハルトを振り向き、ざくっと地面を踏みしめると言葉も交わさずに逃げるように立ち去ってしまった。