第41話 災厄のつぶて
時は遡り、イヴァー・オアーゼの夜。
ティアナとレオンハルトがダリオのサロンを去り、ダリオがレオンハルトに対して敗北を感じ、嫉妬の炎を燃やしていた時、ふっと上げた視線の先、暗い闇夜を映す窓に黒い怪しげな影が揺らめいた。
『好きならば――奪ってしまえばいい……』
脳に直接響く、甘ったるい優美な声で、誰かがささやいた。
『愛しいのなら――力ずくで自分のものにしてしまえばいいのだ』
誘うような声に、一瞬、自分の胸の中に抱きしめるアデライーデを想像し、うっとりと目元を緩め、それからはっとして頭を振る。
ただ手に入れるだけならば、スルタンの権力を持ってすれば簡単だ。しかし、ダリオが欲しいのは、権力で手に入るようなものではない。
欲しいのは――アデライーデの愛。力ずくで奪えない、愛だ――
そう思う、それなのに。
『そんなのは詭弁だと、分かっているだろう? 他の男にみすみすとられてもいいのか?』
窓辺に映る影が大きく揺らぎ、その中に闇色の双眸があやしく光る。
閉じ込めようとしていた恋の炎がじりじりと心を焼き焦がし、小さな穴を作ってそこからアデライーデを求める強い気持ちが溢れだす。
心を壊しそうな勢いで欲望が体中に渦巻き、ダリオの心を黒い影が支配し、欲情を駆りたてる。
『そうだ、欲望のまま、女を手に入れろ――』
脳に響く甘美な声に身をゆだねそうになったダリオは、ぎゅっと眉根を寄せて、反射的に、窓に拳を叩きつけた。
ガシャン――という悲痛な音が響き、ガラスがあたりに散らばった。そこにはすでに、怪しい影はなかった。
立ち上がったまま肩で大きく息をついたダリオの、額には汗がにじみ、精悍な頬を伝い落ちた。
切なく心を震わせる、はじめての気持ち。愛しい――という気持ちを教えてくれたアデライーデと、ずっと一緒にいたかった――
アデライーデと過ごす何気ない日常がいつまでも続き、いつか、アデライーデが自分を愛してくれたら嬉しいと思った。
そんなふうに想い描いた小さな夢が――アデライーデが記憶を取り戻し、その婚約者のレオンハルトが現れことで、ガタガタと音を立てて崩れていく。
それでも、アデライーデ自身の自由と幸せを願うダリオは、愛しい気持ちを封じ込め、アデライーデを自国に帰す決意をした。それなのに――
先程の甘美な誘惑の言葉が頭から離れない――
ダリオは忌々しげに舌打ちし、それからぐっと奥歯を噛みしめる。その瞳を底からギラッと光らせた。
苛立たしげに椅子に座り直し、ダリオはそのまま眠れずに夜を明かした。
翌日、胸の中に疼く欲望を押さえることに必死になり、その反動でアデライーデを手の触れる所に置きたいと思った。
その矛盾した行動に、戸惑い、思い切りアデライーデを胸の中に抱くことで――あらぶる欲望を心の奥底に閉じ込めた。アデライーデへの気持ちに完全に蓋をすることで、思いを断ち切ろうとした。
王宮に戻れば、アデライーデは自国に戻る。それまでの間、距離を置いて接すれば、それで自分の気持ちを上手くコントロールすることができると思ったのだ。しかし――
王宮に戻ったダリオを待ち構えていたように、ダリオの元に隣国の使者が面会を申し出ているという知らせが届く。
ダリオはすぐにそれがレオンハルトだと気づき、ぎりっと奥歯を噛みしめる。その瞳には、嫉妬の炎がちらついた。
だが、前回のように一蹴するようなことはしなかった。レオンハルトとの面会を受け入れた。
アデライーデを愛する一人の男として、レオンハルトのことは憎らしいが、一国を治めるスルタンとして、隣国の使者に会う必要があった。
国のため、民のため、他国と協力して異常気象に取り組まなければならない。そのための対策は星砂漠にいる時からすでに打ち、条約を結ぶための準備は整っていた。
※
王宮の一室に案内されたレオンハルトは、星砂漠で見たロ国のスルタンを思い出す。
突き刺すような威圧的な視線は、敵意だった――
なぜ、そのような目でみられるのか理由は分からなかったが、自分に対して向けられた敵意を敏感に感じていたレオンハルトは会ってもらえないかもしれないという不安を抱えながら、それでも王宮へと、スルタンに面会するために向かった。
本当は星砂漠に寄った後、王宮のある首都ワール・パラストでロ国の情報を収集し、西の国に行っていた密偵と合流して情報を確実なものにしてから、面会を願いに王宮に行く予定だった。
だが、星砂漠で偶然にもスルタンに出会い、この機会を逃してはいけない――と頭の片隅で警鐘がなっていた。レオンハルトはそれだけ焦っていたのだ。
各地での異常気象は深刻化し、早くなんとかしなければならないという王族としての責任感が募り、じっとしていられなかった。
全く話を聞いてもらえなくても、レオンハルトは簡単に諦めたりはしない。ワール・パラストに移動し、情報を集め、条約を結ぶための準備を完璧にする。
必ず協定を結び、国に帰る――
涼やかな目元に強い使命感を宿したレオンハルトは、面会を承諾され、通された一室のソファーに深く腰掛け、姿勢を正す。その瞳をくっと上げ、もうすぐ開くであろう扉を見つめた。
※
エマを伴い、レオンハルトの待つ部屋を訪れたダリオは、レオンハルトが一人で来ていることに、わずかに片眉を上げた。
「お待たせした」
素っ気なく言ったダリオは、レオンハルトの向かいのソファーにどかりと腰を落とし、長い足を大きくくむ。
「こちらも時間が惜しい。単刀直入に、用件をお伺いしよう――」
切り込むように、鋭い視線を投げるダリオに、レオンハルトはごくんと喉を鳴らし、まっすぐ顔を上げ、正面に座るダリオの氷の瞳を見据えた。
「各地で起る異常気象について、協力を願い出ます。ここに細かい条約の内容は明記しました――被害情報の開示提供、被害地にあてる兵の派遣を要求。国境での被害についてはそれぞれの国が対応するよりも協力して行う方が効率的と思われます」
ソファーの間に置かれた小卓の上に差し出された書面を手にとり、さっと目を通したダリオは、その内容の精密さに驚き、それを隠すように眉根をきゅっと寄せる。
「西のエリダヌス国、南のイーザ国とフルス国からは条約に対する賛同を得て、現在は正式な文面を取り交わしているところです」
自国の利害だけを前面に押し出した条約なら蹴飛ばしてしまおうと思っていたが、あまりにもまともな内容に、他国の協力の必要性を感じているダリオに異論はなかった。その上、すでに三国と条約を交わしたというのを聞いて、ダリオはますます断る理由がなくなる。
そして、ほんの一時星砂漠で会っただけのレオンハルトの本質を見抜けなかった、愚かな自分が歯がゆい。レオンハルトは王族としての誇りはもちろん、優秀さも書面から滲みでていた。
ただ、ティアナの婚約者だからと侮っていた自分に後悔する。
静かに書面を小卓に置いたダリオは、額にかかる蜂蜜色の髪を大きくかきあげて、冴え凍る瞳に挑戦的な光を宿す。
「いいだろう――そちらの条件に不満はない」
その言葉にほっと胸をなでおろしたレオンハルトは、続いて紡がれた言葉に眉根を寄せた。
「ただし、こちらから一つ条件をつけさせてもらいたい」
そこで言葉を切ったダリオは凛としたその瞳の底に、一瞬、思いつめたような光をきらめかせる。
「貴殿と……私の預かっている客人の婚約話が上がっているようだ。こちらの条件は、その婚約の解消――。ティアナ姫は私がいただく」
「なにっ……」
思わぬ話にレオンハルトは澄んだ瞳を動揺に揺らす。
国同士の条約の条件として、一個人の婚約解消が条件に上がるとは思わなかったレオンハルトは驚きの声をもらし、そして、星砂漠で自分に向けられた敵意の眼差しを思い出す。
ちらっとダリオに視線を向けたレオンハルトは、その時と同じ威圧的な眼差しの中に、わずかに、でもはっきりと嫉妬の色が混じっているのを見逃さなかった。
この人もティアナ様を愛している、のか――?
敵意の理由に気づいたレオンハルトは息を飲み、そしてきゅっと唇を握りしめる。
「それは……」
その声はあまりに弱く掠れていて、レオンハルトは自分自身で戸惑う。
国のためを思うのならば、自分自身の想いなど切り捨てて、頷くべきなのは分かっている。それなのにそれが出来ないのは、レオンハルトがティアナを愛おしく思っているから――
胸の内にたぎる想いをもてあまして、群青色の瞳にかかる長い睫毛を震わせる。
婚約はまだ成立していないと言おうかとも思ったが、言いたくなかった。
ティアナを渡したくない――と、強く、確かにレオンハルトの心が叫んでいた。
レオンハルトはくっと顎を上げると、はっきりした口調で言葉をつむいだ。
「ティアナ様は誰のものでもない。断る――」
ゆるぎない光を宿したレオンハルトに真っ正面から挑むように見つめられ、ダリオはその瞳をギリッと光らせて、いまいましそうに唇をかみしめた。