第36話 走り星
すべてを思い出した――
私の本当の名前は――
ぼんやりとする思考の中で、確かに忘れていた記憶を取り戻したティアナは、群青色の瞳に甘やかなきらめきを浮かべて優しく自分を抱きしめてくれるレオンハルトを見上げ、自分の名を口にしようとした、その時。
「アデライーデっ!」
大地を切り裂くような叫びに、ティアナはぴくりとその肩を震わせる。声のした方を振り仰ぐと、砂丘の上、月明かりを背に浴びた人影がすごい勢いでこちらに向かって駆けてくるところだった。
「アデライーデ――っ」
ダリオは威圧的に呼ぶと同時に、ティアナの二の腕を掴んで強く引き寄せる。その腕の中に隠すように抱きしめると、砂の上に座ったレオンハルトを鋭い視線をキラッとひるがえした。
「お前は誰だ? アデライーデに何をしていた――?」
突き刺すようなその眼差しの激しさに、ティアナは息を飲む。刃物をつきつけるような威圧感に、慌ててダリオに話しかける。
「ダリオ様、あの、違うんです。この方は……」
なにをどうやって説明しようか迷って、ティアナは開いた口を止める。
記憶を取り戻したものの、なぜ取り戻したのか理由は分からなくて、どう説明したらいいのか分からなかった。
口をつぐんだティアナを見て、ダリオは氷の瞳の鋭さをわずかに和らげる。
「執務を済ませ、急いで馬を駆ってイヴァー・オアーゼに来てみれば、寝所にお前の姿が見えなくて心配した」
ティアナの髪の中に顔をうずめたダリオは愛おしげにささやく。
「オスヴァルがもしかしたら砂丘にいるのではないかというから来てみれば――」
そこで言葉を切ったダリオはギラッと瞳に光を反射させて、一瞬、鋭くレオンハルトを睨み据える。
「こんなところで何をしていた、アデライーデ――?」
氷の瞳を鋭く光らせたダリオに、ティアナは背筋の凍るような威圧感を感じた。咄嗟に口を開こうとした時、レオンハルトが戸惑いがちな声がかけられる。
「アデライーデ……? あなたはティアナ様では、ないのですか……?」
その言葉に、ダリオは氷の瞳を底からキラリと光らせた。
「アデライーデ……どういうことだ――?」
ダリオにまっすぐに見すえられたティアナは、ぎゅっと唇をかみしめ、意を決して口を開く。
「すべてを、思い出しました……」
ひどく掠れた声で言ったティアナは、自分を見つめるダリオは瞳の中に、一筋の憂いの影を見つけて、胸をつかれる。
『お前の事情は分かった。こちらでも何かお前の記憶の手がかりを見つけられるよう協力しよう。それまでここで自由に過ごすがよい。アデライーデ、お前はハレムの女ではない、私の客人としてここハレムに向かえよう』
記憶喪失だと話した時、そう言って微笑んだダリオを思い出して、切なく胸が締め付けられる。
そう、記憶を取り戻した今――自分がやらなければならないことを思い出した今、ティアナは国に戻らなければならなかった。
偽りの花嫁のティアナに対してダリオはとても親切にしてくれた。毎日必ず様子を見にきてくれて、時々、愛おしくその胸の中に抱きしめられて――
熱くなる胸を押さえ、震える喉を押さえた。
もう、ダリオの側に、いることは出来ない――
ティアナが口にしなくても、そのことに気づいているダリオは、ぎりっと奥歯を噛みしめて、斜め下を向く。その顔を苦渋に曇らせる。
誰もが口を閉ざし、その場に沈黙が落ちる。しばらくして、その沈黙を破ったのは、ザザァーっという砂が大量に落ちる音で、その音と一緒に男の悲鳴が聞こえる。
「うおっ、わぁ――……っ」
三人が立つ場所に砂と一緒に降ってきたのは――グレーのマントを羽織ったエマだった。
砂の上に転がり落ちたエマは、砂埃がおさまると同時にがばっと身を起こし、ダリオの元に詰め寄る。
「ダリオ様っ、いくら急いでいらっしゃるからと言って、私を置いていくなんて酷いじゃないですか! だいたい一人で行ってしまわれては、護衛として供に来た私の立場がないんですよっ」
すごい剣幕でダリオに噛みつくエマを呆然と見つめていたティアナは、その視線と会ってしまって、エマはくっと片眉を大きく跳ねあげる。
「アデライーデ様っ! あなた様がどうしてこのような場所に……。あー、もう、ダリオ様もアデライーデ様もご自分のお立場をよくお考えください。このような土地で夜中に供も連れずにふらふら歩きまわるなど、都と違って砂漠の夜は……」
まだまだ続きそうなエマの小言に、ダリオはうんざりしたようなため息をつき、片手を上げて制する。
「分かった、宿に戻る……。小言はそれから聞く」
不満顔でまだ何かぶつぶつと言っているエマを先頭に、ダリオ、ティアナ、そしてレオンハルトと続いて、砂丘を登り始めた。
※
未だに、一人、事態を飲みこめずに混乱する頭を抱えていたレオンハルトは、前を歩くティアナに思い切って声をかけたのだが。
振り返ったティアナの横顔に長い銀髪がふりかかって、繊細で儚く微笑んだその深い輝きを浮かべた瞳に一筋の憂いを見て、レオンハルトはわずかに喉をならして、あえぐように息を飲んだ。
何も聞いてはいけないような儚さに、レオンハルトはそれ以上言葉を続けられなくて。
目の前にいるのが、ティアナなのか、そうじゃないのか――不安を胸にかかえながら、黙って後に続いた。
※
突然、すべての記憶を思い出したティアナは自分のわずかな戸惑いに気を配っている場合ではなかった。
目の前には、なぜか星砂漠にいるドルデスハンテ国第一王子のレオンハルトと、ロ国スルタンのダリオ――
アデライーデと呼ばれたティアナを見て戸惑いの色を濃くしたレオンハルトに事情を説明したかったが、強く抱き寄せるダリオの不安が伝わってきて、ダリオを放ってレオンハルトの元に行くことは出来なかった。
記憶を失くしていた間、素性も分からないティアナに親切にしてくれたダリオに、何をおいてもまず事情を説明しなければならないと思った。
ダリオに置いていかれたらしく、不満をぶつけるエマに八つ当たりされつつも、ティアナは重たい空気を打ち破るように現れたエマに、感謝していた。
「さあ、宿にお戻りを――」
すごい剣幕のエマに促されて目の前にそびえるような砂丘を登り始めようとした時。
「ティアナ様……?」
戸惑いがちに後ろから声をかけられて振り返ると、レオンハルトの澄んだ美しい瞳があって、切なくて――
どうしてレオンハルトが星砂漠にいるのかは分からないが、まるで――
『今度は私があなたに会いに行きます』
その約束を果たすためにティアナの目の前に現れたように感じて、愛おしい気持ちが込み上げてくる。
ずっと忘れていた気持ちが、心の底から揺さぶられて、突き動かされて、勢いよく飛び出してきて、止めようもなく胸にあふれた。
レオンハルト様が好き――
それと同時に、刃物のような鋭い瞳の中に一瞬垣間見た、ダリオの寂しさを思い出して、ティアナはレオンハルトに浅く微笑んだ。
その時、レオンハルトの横、さっきまでティアナ達がいた場所に、あざやかに輝く白い花を見つけて動きを止める。
さっきまでは蕾だったのに、今はまばゆい大輪の白い花を咲かせていた。
まさか花の蜜を飲んだ――?
確信はないが、そう考えれば記憶を取り戻したことへの説明がつく。
だけど、流れ星は? 確か、明晩からと聞いていたはずだが――
そう思って空を見上げようとした時。
キラッ――……
一筋の輝きが空を走り抜ける。美しく、どこか儚い輝きを放って、空に溶けていった。
「流れ星……」
そう囁いたのは、レオンハルトとダリオとが同時だった。
ついにレオンハルトとダリオの対面……次章、必見です!
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