第31話 願い事ひとつ
チュンチュンチュン――
ハレム、アデライーデの寝室。天蓋付きの大きなベッドの中にはダリオとアデライーデ。
夜中目覚めたダリオはベッドから抜け出して王宮で執務をしようかとも考えたが、結局諦め――もとい誘惑に負け、そのまま朝まで寝てしまった。
久しぶりに熟睡し、清々しい気持ちで目覚めたダリオは、自分に寄り添うように右隣で眠るアデライーデの寝顔を見つめ、その瞳を和ませた。
※
鳥のさえずりと窓から差し込む光に、重たい瞼をこすりながら寝がえりを打とうとしたティアナは、布団ではない重量感に違和感を覚える。
「ん――っ」
足先を伸ばし、わずかに身じろいで瞼を開けると、甘やかな輝きのダリオの瞳と視線があい、大きく鼓動が跳ねる。
えっ、ダリオ様――!? どうしてダリオ様が……
寝起きで自分の置かれている状況を理解できずにあたふたとするティアナを見つめて、ダリオは口元にふっと魅惑的な笑みを浮かべる。
「目が覚めたか、アデライーデ」
「えっと……おはようございます、ダリオ様……」
昨晩、執務のしすぎで顔色の悪いダリオを自分でベッドに引っ張ってきたことを思い出して、ぼんやりとだが状況を理解する。動揺したところを見られたのが恥ずかしくて、頬を染めたティアナは伏し目がちに挨拶をし、訝しげに翠の瞳をダリオに向ける。
「あの、ダリオ様はいつから起きておられたのですか……?」
「二、三十分くらい経つか?」
ダリオはなぜそんなことを聞かれたのか分からず首を傾げながら返答し、その答えを聞いたティアナは一気に顔を青ざめさせる。
「そんなに前ですか!? どうして起こして下さらなかったのですか!? 今すぐ起きますから……っ」
ティアナは慌てて起き上がろうとしたが、その動きを遮られる。
ダリオはいますぐにでも自分から離れて行こうとするティアナを不服そうに眉目を寄せて見つめ、体に回していた腕に力を込めて抱き寄せる。
「まだ、よい。私はこうしてアデライーデの熱を肌に感じていたいのだ」
言葉の通り、ダリオのはだけた胸元に頬が当たっているティアナは、一気に鼓動が速くなる。ティアナが顔を真っ赤にしてあたふたする様子を見て、ダリオはほくそ笑んだ。
「お前の寝顔は可愛い――いつまででも見ていられる」
耳元で甘く囁いたダリオだったが、それに対してティアナは予想外の反応を示す。きっと瞳を吊り上げて怒りだしてしまったのだ。
「なっ、ねがっ……!? もう、ダリオ様、信じられません! 人の寝顔を見て笑うだなんてっ」
ダリオを睨む瞳には涙が浮かび、ティアナはばしばしと腕で力一杯胸を叩いて抱きしめるダリオの腕の中から抜け出す。
寝顔を見て笑ったのではなく、可愛いと思ったのだが――
訂正しようと思ったが、訂正する間もなくベッドから勢いで転げ落ちたティアナが「マティルデさーん」と泣きながら女官部屋に駆けこんで行ってしまったので、呆然とする。
まだしばらくは寝転がっていたい気分だったが、すぐにでも女官達が来ることを予想して、体を起こす。ベッドの上で片膝を立てて座り、額にこぼれ落ちた蜂蜜色の髪をかきあげたダリオは大きなため息を漏らす。その瞳は切なく揺れ、儚い笑みを浮かべていた。
※
ティアナの部屋の一室。以前も一緒に食事をした大きな楕円テーブルの置かれた部屋でティアナとダリオは向かいあう様に座っている。
テーブルの上にはすでに朝食が用意され、壁際にはエマとマティルデ、紅茶を注ぎ終えたフィネがカートを寄せて立っている。
ダリオはお茶の注がれたカップを優雅な手つきで持ち上げて一口含み、カップ越しに眉間に皺を寄せた顔でティアナを見つめた。
向かいに座るティアナは、ナイルブルーの異国風のドレスを着ている。胸元には同色のリボンが巻かれ背中で結われ、髪にもリボンや真珠の飾りが施されているのだが……その表情は泣きそうに歪んでいる。
寝顔を見られてしまった衝撃から立ち直れず、それでも持ち合わせている矜持でなんとかダリオを共に朝食の席に着いたのだが、非難の眼差しをダリオに向けずにはいられなかった。
「悪趣味です、人の寝顔を見て笑うだなんて……」
ぽつりと小さな声で漏らしたティアナの言葉に、壁際に立つ三人が気の毒そうな視線をダリオに向ける。
その視線を受けて、ダリオはこめかみを引きつらせる。
明らかに同情とみてとれる視線に、大きなため息をついてティアナに視線を向ける。
「アデライーデ、本当にすまなかった。その……悪気はなかったのだ」
からかうために見ていたのではないが、何を言っても誤解しているティアナには通じないと諦めたダリオは、どうにかティアナからの非難の視線を和らげようと思考を巡らせる。
「もう二度と寝顔を見たりはしない……」
「本当ですか……?」
ダリオの言葉に、俯いていたティアナはわずかに顔を上げて掠れる声で尋ねる。
聞き返えされるとは思っていなかったダリオはどもりながらも、笑顔を浮かべる努力をする。
もしまた今回のように緊急事態でティアナと寝ることがあったとして、自分が先に起きてしまえば、寝顔を見つめずにはいられず――見ないといえば嘘になるが。
ぐっと本心を飲みこんで頷く。
「あっ、ああ……本当だ。愚かな私を許してくれるのならば、お前の願いを一つ叶えよう」
「願い……ですか?」
「ああ、私に出来ることならばなんでもよい」
「では、星砂漠に行くことを許して下さいますか?」
ぱっと上げた顔を無邪気に輝かせて自分を見つめるティアナに、ダリオは胸をきゅーっと鷲掴みにされる。だが、ティアナの口から出た思わぬ言葉にダリオは眉間のしわを濃くした。
「星砂漠、か――?」
「はい、ロ国は国土の六割を砂漠が占めていると聞きました。ハレムの女性はハレムを出ることを禁止されているのは知っていますが、砂漠には行ったことがないのでずっと興味があったのです」
「お前が勉強熱心なのは知っているが、砂漠には砂賊も出るし危険だ。一人で行かすわけには行かない」
厳しい口調で言われ、ティアナは目に見えてしゅんと落ち込む。
ダリオが一緒ならば、砂漠に行くことも可能だと思っていたティアナはふてくされたようにもらす。
「ダリオ様は一緒に行って頂けないのですか……?」
その言葉に、ダリオはぴくりと眉を動かす。
「――すまないが、しばらくは執務が忙しくて王宮を離れることが出来ない。他の願いか、一月以上先ならば連れて行ってやることも出来るかもしれないが」
「一月以上……そんなに待てません、七日後には満月です。その日までにイヴァー・オアーゼにどうしても行きたいのです。その、女官から星砂漠の伝説を聞いて……是非行ってみたいと思ったのです。駄目ですか――?」
潤んだ瞳を揺らし見つめてくるティアナに、ダリオはわずかに目を見開き、ぎゅっと奥歯を噛みしめる。ダリオの瞳がギラッと光を反射して鋭く光り、静かな声で告げる。
「分かった――満月の夜に必ずイヴァー・オアーゼに連れていくと約束しよう」
言うと同時に、壁際のエマを見る。その瞳が威圧的なスルタンの表情になっていたことに、ティアナは気づかなかった。
※
女官部屋で朝の支度をしているところに泣きながら駆けこんできたアデライーデから話を聞いたマティルデとフィネは、ダリオが寝顔を見ていたのはからかうためではなく好きだからだとすぐに理解した。
しかしなぜか、アデライーデはダリオの行動と甘い思考に結び付かないようで、そのことを内心で不思議に思いながらも、落ち着かせるために「そうですね、酷いですね」と同意し、気分を紛らわせるために異国風のドレスを出したのだった。
※
朝食前に部屋を訪れたエマは食事室に入り、一人、テーブルに肘をつき暗い雰囲気のダリオを見て首をかしげる。
「ダリオ様、どうかなさいましたか?」
愛するハセキと一夜を過ごしたとは思えない落ち込み具合になんとはなしに尋ねたのだが、ダリオはエマに渋面を向ける。
「寝顔を見ていたら、アデライーデを怒らせてしまったようだ……」
わずかなトーンの違いだがダリオが落ち込んでいることに気づいて、エマは片眉を上げる。滅多に見ることのない気落ちしたダリオに目を瞬く。
ダリオの言葉からだいたいの予想がついたエマが口を開こうとした時、マティルデとフィネに促されて食事室に入ってきたティアナがダリオよりもさらにひどい表情をしていて――ダリオの愛情表現が全く伝わっていない事を気の毒に思い、エマは誰にも気づかれないような小さなため息を漏らした。
更新遅くなってしまってすみません<m(__)m>