第30話 太陽と月と星と
ここ数日、アデライーデが物思いにふけりぼーっとしていることが多い事に、フィネは気づいていた。
一緒に始めた編み物もここ数日やっていないし、暇があれば部屋に一人で籠るか、中庭を沈んだ面持ちで歩くか、サロンの窓際でため息ばかりついているアデライーデの姿を見て、フィネは心配でならなかった。
きっと、スルタンのことでお悩みなんだわ。最近スルタンがアデライーデ様のお部屋で過ごす時間が短くなったことに心細く感じているに違いない――
フィネはアデライーデの様子の変化を、ダリオからの愛情が薄らいだと感じての気鬱だと思っていた。
実際は解毒剤作りに熱中し、毒を持った犯人がニコラではないかという疑いに悩んでいたのだが、そんなことなど知らないフィネは見当違いをしていた。
アデライーデがハレムに来てから一日と欠けることなく毎夜通ってくるスルタン、初めて間近で見たスルタンは冷酷非情と言われるだけあって威圧的で、目を合わせるのも怖くて自然とひれ伏してしまう。ただ、毎日たった数時間でも側で仕えて、フィネは知ってしまった。冷酷非情のスルタンがアデライーデに見せる愛おしい眼差しを――
時折アデライーデだけに向けられる笑顔や優しい仕草に、心からアデライーデを愛しているのだということが分かった。アデライーデがハセキになった時も当たり前だと思ったし、自分の仕える主人がハセキになって誇らしくもあった。
それでも――毎夜訪れながらも、決して寝室には踏み込まず、数時間サロンで話すだけで王宮に戻ってしまうスルタンに多少のじれったさを感じていた。
アデライーデを大切にしていることは分かっても、いつスルタンの愛情が他の女性に移るか分からない。そのことをアデライーデも不安に思っているだろうと感じていた。
だから星砂漠のことを聞かれた夜、部屋に尋ねてきたダリオに言ったアデライーデの言葉にフィネは内心の驚きを隠すのが大変だった。
『今日だけは私のベッドでお休みください、私が側におりますから』
その言葉は誘いの言葉。大胆なアデライーデの言葉に側に控えていたフィネは顔を赤らめずにはいられなかった。
望んでいたこととはいえ、アデライーデの大胆な言動に平静を保てずにあたふたしていたのをマティルデに無言で引っ張られて女官部屋へと下がる。
「あの、マティルデさん。いいのですか? 下がれとも言われていないのに出てきてしまって……」
上目使いに見上げたフィネに、マティルデはこほんっとわざとらしい咳払いをして、女官部屋の奥の棚に向かう。
「あのまま居続けるのは野暮というもの。女官ならば主人の意を汲んで退席するのも一つの心得です。それよりも、この枕を届けてきなさい。いいですね、音を立てず、二人の邪魔をしないようにですよ――」
「はいっ」
マティルデに鋭い視線で言われたフィネは勢いよく返事をして、静かに寝室に続く扉を開けたのだが……
マティルデに注意されたばかりにも関わらず、ベッドの上で重なり合うダリオとアデライーデを見て衝動的に枕を落としてしまい、ぼてっと鈍い音が室内に響く。ベッドの中の二人の視線がフィネに突き刺さり、ぼぼっと顔に火がつく。
「あっ、申し訳ありません……っ、失礼しました……っ」
床に着きそうな勢いで頭を下げると、フィネはアデライーデの制止も聞こえず女官部屋へと駆けこんだ。
空いた扉の隙間から事の次第を見てしまったマティルデは、悩ましげに額に手を当てて深いため息を漏らす。
平常心が足りない……再教育が必要なようね――
真っ赤になって突っ立っているフィネを見て、マティルデは肩を落とした。
※
ハレムで働いて二十二年――これまでの月日を思い出すと長かったようで短かったようにも感じていた。
マティルデは十四歳でハレムの女官として働き始めた。美しく着飾った女性達が、その裏で醜い争いを繰り広げられていることを知り、ただ何も感じず何も考えずに働くことに集中した。
家も親も失くし、ハレム以外に行き場を失くした自分は、ここで働けるだけで幸せだと思っていた。ある日、掃除に入った部屋にいた女性に声をかけられるまでは――
女官として一人の女性に仕えてからもう数年が経ち、今ではハレムの女官長としてスルタンの信頼を受け、他の女官やハレムの警備兵をまとめる立場になった。あの当時は、こんな日が来るなど想像もしていなかった。
先日、ダリオから一人の女性のお付き女官になってほしいと頼まれた時――マティルデには断る理由が思い当らなかった。女官長になった自分に初めて私事の頼みごとをしてきたことが嬉しかったから。
それでも、その女性がダリオの特別にはなりえないことを、幼少よりダリオを見守ってきたマティルデは知っていた。
昨年スルタンになり、幾人もの女性の元に通ったダリオ。女の元に通おうと事を済ませれば女性には目もくれずに王宮へ戻っていく。心は誰にも開かないという様に、振り返りもしない――
だから、自分を部屋付きの女官にしたのは何か考えがあってのことだろうと思った。
待機するように言われた場所は、懐かし彼の人が使っていた部屋――彼の人が亡くなってから、定期的に手入れをさせつつずっと未使用だった部屋で、マティルデは胸に渦巻く小さな動揺を平静な表情で無視する。
自分の他に女官として経験の少ない若いフィネも呼ばれていることに首を傾げながら、ただ姿勢を正して、仕えることになる女性を待った。
側近のエマに従われて来た女性は――あまりにもみすぼらしい身なりに内心で訝しみながらも、汚れてもなお輝きを放つ銀の髪にどこか懐かしい人の面影を思い出させられて、胸が締め付けられた。その上――エマが呼ぶ名に大きく胸が跳ねる。
アデライーデ様――唯一マティルデが心を許し、仕えたハセキだった女性。
あの子は本当は誰よりも優しい子だから――そう言って儚い笑みを浮かべた彼の人を思い出して、マティルデはきゅっと奥歯を噛みしめる。
ただアデライーデと名乗る女性に仕えるようにとだけ言われたマティルデは、渦巻く疑問を飲みこむ、詮索せずにアデライーデに仕えた。
彼の人の面影を思い出させたのは最初だけで、寄る辺なくそよぐ風に吹かれてしまいそうな彼の人とはまるで違いすぎた。違う人間なのだから当たり前だろうが、因果のある関係に、どうしても面影を重ねてしまう時がある。
しかしアデライーデは彼の人と決定的に違う部分があった。
意志の宿る眼差し――彼の人にはなかった強さ。
冷酷非情と言われるダリオがアデライーデにだけ向ける優しさに――マティルデは気づいてしまった。
ただ、それに対して自分が口出しをする事ではないと思っていた――あの話を聞くまでは。
いつだったか、人払いをしてダリオとアデライーデが二人きりで話をしている時、女官部屋に控えていたマティルデは二人の会話を聞いてしまったのだ。
アデライーデが記憶を失くしダリオに拾われたこと、アデライーデが本当の名ではないことを。
記憶を失くした少女にアデライーデという特別な名を付けたダリオの気持ちを考えると複雑な気持ちだった。
ダリオがアデライーデに向ける気持ちが、他のハレムの女性とは違うこと――一人の女性として惹かれ始めていることに気づいていた。誰にも心を許そうとしないダリオが、初めて見つけた愛しい人。愛する人を見つけられたことが嬉しく、出来ることならば二人をずっと側で見守りたい。だが、いつかはアデライーデが記憶を取り戻しハレムを出ていくことも知っている。不器用な恋にダリオが傷つくことが心配だった。
それでも、マティルデが口出すことは出来ず、口出しすることだとも思っていなかった。
いつものようにアデライーデの部屋に訪ねてきたダリオ。しかしいつもと違い青ざめた顔にアデライーデが心配して側に駆けよるのを、側に控えて見つめていた。
何も見ない、何も聞かない――女官の鉄則のルール。見たことも聞いたことも口外しないし、それに対して自分の感情に流されることはいけない。
見ていたけど見ていない、アデライーデがダリオを本気で心配している様子に安堵する自分の心を隠し、精一杯平静を装っていたマティルデは、突然自分に声をかけられて、どもってしまう。
冷静沈着な女官長として恐れられているマティルデには珍しい失態だった。
ダリオの夜着を用意するようにと言ったアデライーデに、無表情の顔で答え――一瞬だけ、アデライーデを見つめる瞳を濃くする。
記憶を取り戻したらハレムを出ていってしまうアデライーデ。記憶を取り戻したがっているアデライーデのことを考えると一日も早く記憶が戻るように願うが、その反面――記憶を取り戻しても、ずっとダリオの側にいてくれればいいと願った。
初めて愛した女性――彼女を失った時のダリオの痛みを考えると辛くて仕方がない。
アデライーデをハレムに迎えてから毎夜足を運びながら、一度も寝室には足を踏み入れることのなかったダリオ。
今までの女性とは違い、アデライーデが特別で大切に思っていること。アデライーデの気持ちを待っているのではないかと――マティルデは思っていた。
だから、アデライーデから寝室へと誘う言葉に、マティルデは心のうちに広がる歓喜を噛みしめる。そういうつもりで言った言葉ではないことは分かっていても、二人の距離が縮まればいいと切に願った。
女官のフィネとマティルデ視点のお話です。