第29話 安らぎの窓下
エマを見送り寝室に入ったティアナは、マティルデとフィネに支えられるようにベッドに腰掛けたダリオに近寄る。
「ダリオ様、エマさんが明日の朝お迎えにあがりますと言っていました」
ベッドから離れ、寝室から続く女官部屋の扉の近くに立ったマティルデとフィネは二人に視線を向け、行儀よく控えている。
「ですから今日はゆっくりとお休みになって下さい。どうせ、今夜もこの後王宮に戻ってお仕事をするつもりだったのでしょう? 今日だけは私のベッドでお休みください、私が側におりますから」
ティアナの言葉に僅かに頬を染めたフィネに対して、マティルデは一瞬眉間の皺を深くした。
ダリオは深いため息をついて自分の前に立つティアナを見上げ、疲労の色の濃い瞳に艶めいた光を宿す。
「わかった、アデライーデ。お前の言う通りにする。だから……」
頬に手を伸ばしたダリオが口元に不敵な笑みを浮かべるから、ティアナはダリオがそう言いながら自分を出し抜いて寝ないのではないかと感じて、きっと眉を吊り上げる。
「お休みくださるなら、もう横になって下さい」
言ってダリオの肩を強くベッドの方に押しやったティアナは、その勢いのまま自分もベッドに倒れ込んでしまう――
ティアナは何が起きたのか一瞬分からなくて、きつく瞑っていた瞳をゆっくり開けて悲鳴を上げる。
「きゃ……っ」
目の前にある逞しい胸に――ダリオの上に倒れ込んでしまったことに気づいて、鼓動がいっきに早くなる。ダリオの胸に手をついて上体を起こし、あたふたとする。
ベッドに押し倒される形になったダリオは、さらりと蜂蜜色の髪をかき上げて、動揺して頬を染めるティアナに甘やかな視線を向ける。
「アデライーデ――……」
あまりにも愛おしげに名を呼ばれて、ティアナはぴくりと肩を揺らす。体の中心から広がる痺れに、ドクドクと心臓の音が鳴り響く。
「ダリオ様、あの――」
氷の瞳に甘い輝きが濃くなって、ティアナはどうしていいのか分からなくて掠れる声でダリオの名を呼ぶ。
ダリオは仰向けの姿勢のままティアナを見上げ、流れる銀髪の一房を指に絡めて口元に近づける。
その一つ一つの動作があまりにも美しくて、ティアナはつい見とれてしまう。
毛先に口づけたダリオは長い睫毛を伏せ、煌く光を帯びた妖艶な瞳をティアナに向ける。胸の上に置かれた雪よりも白い小さなティアナの手をとり、指先に指先を絡めて力を込め、その仕草にティアナの心臓が大きく跳ねる。
「あ――っ」
「アデライーデ、あい――」
ダリオが指に口づけたまま喋り、指にあたる吐息の甘さにティアナはがばっとベッドから体を起こして立ち上がる。
「ダリオ様っ!」
何か言おうとしたところをティアナに遮られて、ダリオは一瞬むっと不機嫌そうに眉根を寄せる。
ティアナはその表情に気づかず、唇の感触の残る指先を意味もなく動かしあたふたと喋る。
「あっ、そうですわ、枕が一つしかありませんでした……マティルデさん、枕を……あれっ?」
言いながら振り返ったティアナは、さっきまで側に控えていた二人が姿を消していて目を瞬き、助けを求めることが出来なくて、動揺が激しくなる。
「あら、マティルデさん、どこに行っちゃったのかしら、私、ちょっと呼んできますね……」
きょろきょろとあたりを見回してベッドから離れようとした時、ティアナは腕を強く引かれて再び倒れ込むようにベッドの中に転がる。
衝撃に備えて目を瞑ったティアナは目の前に端正なダリオの顔があって、一度は引いた顔の赤みが増してくる。
「よい、行くな、アデライーデ」
「で、ですが、枕が……」
抱きかかえられるような体勢に身じろいだティアナを、抱く腕に力を込めてダリオは引き寄せる。
「枕などよい。こうすれば問題ない」
そう言ってダリオは自分の腕にティアナの頭を乗せる。横向きに寝がえり、腕の中で身を固くするティアナを見て不敵な笑みを漏らす。
さっきまでは顔色も悪く気力もなさそうだったダリオの瞳に精気が宿っていて、ドキンとする。至近距離に甘やかな煌きのダリオの瞳があって、ティアナの心臓はどうにかなってしまいそうに早鐘を打っていた。
「あっ、あの……」
どうにかダリオとの距離を開けようと言葉を紡いだ時。
ぼてっと鈍い音が響いてティアナは首だけを音のした方へ向けると、女官部屋から出てきたフィネが真っ赤な顔をして立っていて、足元には筒状の枕が落ちていた。
ティアナはぱっとダリオを振り返り、自分の体勢を見下ろしてかぁーっと顔に熱がこもる。
ダリオの腕の中に包まれ仲よさげにベッドに寝転がる体勢に、今更ながら自分が言葉の大胆さを思い知り頭から湯気が出そうだった。
私のベッドでお休みください、私が側におりますから――
艶っぽい意味で言った訳ではないが、偽のハセキだという事情を知らないフィネからしてみれば、ダリオとティアナが仲睦まじくじゃれ合っているように見えたのだろう。
「あっ、申し訳ありません……っ、失礼しました……っ」
顔を真っ赤にし、落とした枕のことも忘れてフィネは慌てて侍女部屋に入っていってしまった。
「待って、フィネ――っ」
誤解を解こうとして伸ばしたティアナの手は虚しく宙をかく。その後には、ばたんと勢いよく閉まった扉の音だけが響いた。
静まりかえる室内に、ダリオは小さくため息をつきティアナを自分の方を向かせる。
「女官のことは気にするな」
「ですが、なにか誤解をして……」
「よい、私とハセキが共に一つの褥で寝るのになんの問題がある?」
そんな風に問題と言われるとティアナは困ってしまって、言葉に詰まる。
「もうよい、寝るぞ」
言うと同時にダリオはティアナを腕の中に閉じ込め、瞼を閉じる。
なんだか納得がいかないながらも、ティアナは目の前で目を閉じるダリオの端正な顔を見つめる。けぶる長い睫毛、通った鼻筋、形の良い唇、艶やかな蜂蜜色の髪を眺め、こんなに近くでダリオの顔を眺めたのが初めてだと気づく。
しばらくして規則正しい寝息が聞こえてきて、ダリオがやっぱり疲れていたんだと実感し、起こしては悪いとティアナも瞳を閉じた。
※
半分満ちた月が天中を過ぎた頃――
ふっと意識を覚醒させたダリオは、腕の中ですやすやと安らかに眠るアデライーデを愛おしげに見つめる。
こんなふうに安心して眠ったのはいつぶりだろうか――
アデライーデに体が資本だと叱責され、アデライーデが安心するのならと数時間だけ眠るつもりだった。それがアデライーデよりも先に寝てしまい、数時間どころかたっぷり寝てしまったことに苦笑する。
スルタンになってから、ハレムで睡眠をとるのは初めてのことだった。ウクス達の元に通った時は、することだけをしてすぐハレムを後にした。
まさか、こんなふうにハレムで時を過ごす日がくるとは、ダリオは予想もしていなかった。
穏やかながらも強い意志を宿す翠の瞳が気に入っていた――
冷酷非情のスルタンと恐れられる自分がまさかスルタンとしての資質を疑われるとは思わなかったが、アデライーデの叱責に対して不愉快に感じることはなかった。
体が資本――その通りだと思った。むしろ、王族としての責務を理解したうえでの発言のように感じて、ダリオの心にアデライーデの言葉は強く響いていた。
腕の中で眠るアデライーデを見つめ、額にかかる銀の髪を優しく掻きあげる。何度も梳き、柔らかい手触りを確かめる。
ポラリスと交易の多いロ国は赤毛や栗毛が断然多い。もちろんダリオのように蜂蜜色や他の毛色もいるが、銀髪はいなかった。大陸全土で銀髪自体が珍しい。その中でも、ロ国と隣接する北の大国と南の小国にはわずかだが存在し、特に王族には多いという情報を得ている。
隣国の出身ならば、海での遭難中にアスワドに拾われたという事情に納得がいく。
記憶を失くし身元が分からないと言ったアデライーデの出身は、隣国の――しかも王家の血を引く可能性が高い。そう分かったのは数日前で、北と南の国に密偵を放った。
アデライーデが自分の記憶を取り戻したがっていること、国に帰りたがっている事を知っているから、ダリオはアデライーデの身元調査にも時間を割いていた。
だがその一方で、このまま分からなければいいという思いが強くなっていた。
帰したくない――次第に強くなる想いに、アデライーデを強く抱き寄せ耳元で囁く。
今は閉じられた瞼のむこう、見えない翠の瞳に恋焦がれ、ダリオはアデライーデの額の髪をかきあげると、そっと口づけを落とす。
「アデライーデ――愛している、ずっと私の側にいてくれ――……」
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