第28話 月光の少女
「月下星珠というサボテンの花の蜜を食べると忘れた記憶を思い出すことができるという言い伝えを聞いたことがあります」
「月下星珠……?」
サロンで円卓を挟んで座るティアナとニコラはお茶やお菓子にはほとんど手をつけずに話す。
「はい。調べてみたところ、ロ国の星砂漠にのみ生育する珍しいサボテンのようです。ただ、繁殖力は低く広い砂漠を探すのは困難かと……おまけにただの花の蜜では駄目で、満月の夜に咲く珠の花の蜜だけに効果があるようです」
取引として、記憶を取り戻す方法を調べて貰ったティアナはニコラから報告を受けていた。
「満月――今は上弦の月だから八日後には満月ね……」
翠の瞳に強い決意がみなぎり、ニコラは不安げに尋ねる。
「探しに行かれるのですか?」
その問いに、ティアナはただ儚い笑みを浮かべて答えた。
※
月下星珠の蜜――それを飲めば記憶を取り戻すことが出来る。記憶を取り戻す方法があると知ったティアナは、それがどんなに困難だろうと探しに行きたいと思った。
砂漠に生育すると言っても漠然としすぎていて、少しでも場所を特定できればと思ってフィネに砂漠について聞いたのだが、思いもよらない情報を得てティアナの胸は不思議に高鳴っていた。
願い事が叶う星降りの丘――イヴァー・オアーゼ。そこに自分の記憶の手がかりがあるように感じてしかたがなかった。
ダリオが尋ねてきたと聞いたティアナは、早速、星砂漠に行ってみたいとお願いしようと思ってサロンに意気揚々と出たのだが、真っ青な顔でソファーに座りこみ額に手を当てて荒い呼吸を繰り返すダリオを見て、星砂漠のことなど頭の片隅から吹き飛ぶ。
「ダリオ様――っ!?」
ティアナは急いでダリオの側に駆けより、ソファーの前に膝をついて、ダリオの顔を覗きこむ。
「大丈夫ですか……?」
ティアナの声に瞑っていた瞳を開け、上目使いに見る。その瞳には明らかに疲労の色が濃く、ティアナは不安げに顔を顰める。
「ああ、大丈夫だ。なんでもない……」
とても大丈夫そうには見えない疲れたダリオの表情を見てティアナは戸惑う。その様子に気づいた壁際に立っていたエマがすっと前に進み出る。
「恐れながら――ダリオ様はここ数日、お食事はおろか睡眠もほとんどとらずに執務室に籠っておいでで」
「エマ――っ」
体調不良の原因を喋るエマを止めるようにダリオが威圧的に名を呼んだが、エマは視線をダリオに一瞬映し、涼しい顔で続ける。
「今もアデライーデ様のお部屋に着くまでは平気な振りをしていましたが、部屋に入られた途端、目頭を押さえて倒れ込まれたのです」
「まあ……お疲れでしたらハレムになどおいでにならずに、お部屋でお休み下さい」
澄ました顔で言うエマをダリオは渋面で睨みつけ、心配そうに瞳を揺らして自分を見上げるティアナを見て、諦めたようにため息をつく。
「アデライーデ、心配するな。少し目眩がしただけだ……お前の顔を見ればすぐに元気になる」
大きな手をティアナの頬に当て艶っぽい声で言ったダリオを見て、ティアナは頬に当てられた手に自分の手を重ねる。
「ダリオ様……」
うるっと瞳に涙を溜め見上げるティアナの表情に、ダリオはきゅっと胸が締め付けられて動揺する。だが。
ダリオの手を握ったティアナは、きっと瞳を鋭く咎める口調になる。
「いけませんっ! お食事と睡眠はしっかりとらなければ――体が資本なのですから! お仕事が大切なのはわかります、ですが倒れては仕事すら出来ないのですよ、そんな事になって困るのはダリオ様だけではなく、臣下達です。上に立つ者として、自分の体調管理もお仕事の一つですよっ!」
いつも穏やかなティアナが声を荒げ、ダリオだけでなく側に控えるエマもマティルデもフィネも瞳を見開き唖然とする。
「マティルデさん」
「はっ、はい」
毅然とした声音で声をかけたティアナに、声をかけられるとは思っていなかったマティルデはどもってしまう。
「ダリオ様の夜着の用意はありますか?」
「はい、ございますが……」
「では、用意を」
「はい、畏まりました」
ダリオを見つめたまま言ったティアナを、マティルデは一瞬濃い視線で見つめ、深々と頭を下げて女官部屋へと行った。
「ダリオ様、今日はもうここでお休みください。部屋まで戻るのも疲れてしまいますわ。さあ――マティルデさん、お願いします」
夜着を持って出てきたマティルデとフィネにダリオを託し、寝室に入っていく後ろ姿を見送る。
パタン――と扉の閉まる音に、背中に感じる視線にティアナははっと振り返る。
苦笑いを浮かべて、無表情でこっちを見ているエマを見つめる。
「あの……すみませんっ」
言うと同時に勢いよく頭を下げたティアナを見て、エマは瞳を細め眉根に深い皺を刻む。
「私ったら勝手にダリオ様にこちらでお休みになるように言ってしまって……あの……勝手な事をして、本当に申し訳ありませんっ」
恐縮して体を小さくするティアナを見て、エマは涼しい顔にふわりと薄い笑みを浮かべる。
「いえ、誤ることはありません。むしろお礼を言わせて下さい、ありがとうございます」
そう言ったエマは姿勢よく立ち、深々と頭を下げるから、ティアナの動揺はさらに激しくなる。
「えっ……あのっ」
「私も、今日はなにがなんでもダリオ様には睡眠をとって頂くつもりでした。まあ、もちろんここではなくダリオ様のお部屋でと思っておりましたが――私が言っても素直に聞いて下さったかどうか……ですからアデライーデ様、ダリオ様を心配して下さりありがとうございます」
エマの言葉に、ティアナはなぜだか胸がちくりと痛む。複雑な表情でエマを見つめるティアナに微笑んだエマは外に続く扉に近づく。
「私は一度王宮に戻りますが、明日の朝お迎えにあがりますとダリオ様にお伝え下さい。ではアデライーデ様、ダリオ様のことをよろしくお願い致します」
深々と頭を下げて出ていったエマを見送り、ティアナはふっと細いため息をついて寝室に向かった。
※
大勢の民を抱え、臣下の上に立つスルタン――見下されないようにいつでも気を張って過ごしている。臣下に不安を与えないように、つけ入るすきを与えないように、自分の弱みを他人には見せないように幼い頃から教育されてきたダリオをずっと側で見守ってきたエマ――エマニエル・ライヒ、二十一歳は、半分だけ輝く夜月に照らされたハレムの通路を一人歩いていた。
すれ違う衛兵はエマを見て会釈し通り過ぎていく。
冴え凍る瞳のスルタンの若き側近のエマは、スルタンに負けず劣らず常に涼しい表情を崩すことがない。どこかとっつきにくい雰囲気に敬遠されていた。
すれ違った衛兵を涼しげな瞳で見送ったエマは、その口元に薄い笑みを浮かべる。
冷酷非情、常に弱みを見せない威圧的なダリオがアデライーデに見せた弱さ――
はじめは身元も分からず、ハレムに入れることもハセキにすることも反対していた。何事にも執着することのなかったダリオが唯一執着心を見せたアデライーデに対して、ダリオの政権の邪魔になるのなら排除するべきだとすら考えていたが。
倒れたダリオを気遣い、心から心配するアデライーデの表情を思い出して、エマはくすりと笑みを深くする。
孤高のスルタンを心配するハセキ――
癒しの場になるハレム――
そうであればいいと思った。
ダリオを心配する人が、自分の他にもう一人くらいいてもいいと思った。
今まででてきませんでしたが、エマさんの本名はエマニエル・ライヒといいます。
ダリオの側近としてティアナをあまり快く思っていなかったエマが、ティアナをハセキとして認めまてくれました。
ダリオの恋はどうなるでしょうか。
次話、あまめの予定です!