第27話 記憶のメロディ
「取引――?」
思いもよらない言葉に、涙を拭ったニコラが首をかしげる。
「ええ。ニコラ様、あなたにスルタンを害そうという気がなかったことは分かりました。でも、あなたが犯したことは許しがたいこと――でも、あなたがやったことや魔女のことは私しか知りません」
「え……っ」
「スルタンにはまだ何もお話ししていません。ちゃんとニコラ様の口から真相をお聞きしてからと思っていました。あなたの話を聞いて、スルタンにはこのまま何も知らせない――それでいいと思うのです。犯人はフィンク家、解決した事件に魔女の話など持ちだして混乱させるのは本意ではありません。あなたのしたことは私の胸にしまっておきます――その代わりに、あなたからは魔女の情報を頂きたいと思います」
「魔女の情報……ですか?」
「ええ、なにも難しい事ではありません。失った記憶を取り戻す薬――そういう物が存在するかどうか、存在するのならば作り方を教えて頂きたいのです」
「失った記憶……ですか? なにやら物騒な話ですね」
ニコラ様は首を傾げて考え込む。
「事情は説明できませんが、必要な物なのです。どうかしら、取引して頂けるかしら――?」
真剣な光を宿したティアナの瞳を見つめ、ニコラは困ったように笑う。
「家族の命を助けて下さるというのなら、私にお断りする理由はありません。わかりました――毒や魔女の件を内密にしていただく代わりに、失った記憶を取り戻す薬というのを探してみましょう。少しお時間を頂きますが、よろしいですか?」
「ええ、構わないわ……ありがとう、ニコラ様」
そう言って涙でぬれたニコラの手を掴んで微笑んだティアナに、ニコラは複雑な笑みを返す。
一度はティアナの命を狙った人間――それにも関わらず自分の言葉を信じ、今もこうして優しく触れてくるティアナに、言葉では言い表せない感情が込み上げてくる。
「アデライーデ様にも……なにか事情がおありなのですね?」
ニコラの言葉に、ティアナは儚い笑みを浮かべて頷いた。
「いつか……ニコラ様にもお話できたらいいと思います」
「私に出来ることなら――アデライーデ様のお力になりますわ」
数日後、ティアナは自室にニコラを招いてサロンでティ―タイムにしていた。
二人が囲む円卓の側の窓からは、すっかり秋に色づいた中庭にそよ風が吹き、さやさやと木の葉を揺らして落としていく。温かな日差しが窓から差し込んで気持ちいいが、ひやりとした風に窓を開けておくのは少し涼しい。
カチャリとワゴンから持ちあげたティーポットを持ってフィネがティアナ、ニコラのカップにこぽこぽと香り豊かなお茶を注いでいく。
円卓の中央には、ダリオがティアナへと持ってきてくれた色とりどりのお菓子が並べられている。
お茶を注ぎ終わったポットをワゴンに置いたフィネに、ティアナは穏やかな笑みを浮かべて言う。
「ありがとう、フィネ。ニコラ様と少しお話がしたいから、あなたは隣の部屋にいてちょうだい」
席をはずしてほしいと言われ、フィネは頭を下げてからワゴンを押して女官部屋へと下がって行った。
ティーカップに手を伸ばしたティアナは、お茶を一口含んでからニコラに視線を向ける。
「私の部屋に誰かを招いたのはニコラ様が初めてですわ。ハレムの方たちには新入りのくせにスルタンを一人占めしていると嫌われ、今は怯えられてしまって」
遠巻きにされているのは以前と変わらないが怯えられるのは――正確にはティアナに怯えているのではなく、後ろにいるダリオになのだが――少し悲しくて、ティアナは苦笑する。
「ここでは、そういう人間関係しか築けないのは仕方がありませんわ」
ニコラも苦笑する。
「ええ、ですから、こうしてニコラ様をお呼びで来て、ハセキとかウクスとか関係なく親しくなれた気がして――嬉しいです」
頬を染めてカップに視線を落としたティアナを見て、ニコラは複雑な笑みを浮かべる。
きっかけは毒を仕込むためだった――そのために声をかけたのだが、何度も話し、ティアナの優しさに触れるたび、惹かれていったのは本当だった。
アデライーデ様と親しい関係になりたい――
毒を仕込むためではなく純粋な気持ちで思い、その反面で罪悪感に囚われて友人になることはできないと諦めていた。だから、すべてを受け入れてもらえて嬉しくて泣きそうだった。
ニコラは込み上げてくる熱いものを押しとどめるように一度目を瞑り、ゆっくりと開いた瞳をティアナに向けた。
「アデライーデ様がお探ししていたもの――見つかったのでお知らせに参りました」
※
夜着に着替えたティアナは寝室の椅子に座り、足をぶらぶら揺らす。側で片づけをしているフィネに声をかける。
「ねえ、フィネは砂漠には行ったことがある? 私は行ったことがなくて、どんな所なのかしら? 乾燥地帯なのよね、街はないのかしら?」
服を畳んでいたフィネは手を止めて振り返り、柔らかい笑みを浮かべる。
「はい、アデライーデ様。砂漠は一面砂ばかりの場所で、街はありませんがオアシスがありますわ」
「オアシス?」
聞いたことのない単語にティアナは首を傾げ、フィネに側の椅子に座るように促す。フィネは躊躇いながら女官部屋を振り返り、笑顔のティアナを見て、椅子に腰かけて話し始めた。
「オアシスは砂漠の中でも水が湧き樹木が生えている場所のことです。もともとは砂漠を横断する商人達が一時的に休む場所だったのですが、今ではちょっとした観光スポットになっているんですよ」
くすりと可愛らしい笑みを漏らすフィネに、ティアナはきょとんと聞き返す。
「観光スポット……?」
「イヴァー・オアーゼといって、オアシスの周りの砂だけはなぜか星の形をしているのです。なぜそんな形をしているのか理由は分かっていないのですが、星降る丘、星砂漠と呼ばれ、イヴァー・オアーゼで流れ星を見ると願い事が叶うという言い伝えもございます。そのせいか、珍しい星型の砂を見るためかイヴァー・オアーゼに行く人は多いそうです」
イヴァー・オアーゼ――その言葉を聞いて、ティアナの背中が疼く。なぜだかそこに自分の記憶の秘密が隠されているようで、好奇心が湧いてくる。
「フィネも行ったことがあるのね? 星型の砂はさぞ綺麗なのでしょうね」
顔を輝かせて尋ねるティアナに、フィネは肩をすくめて苦笑する。
「いいえ、実は私も行ったことはないのです。星砂漠には砂賊も出ますし、イヴァー・オアーゼ行くのはとても大変だと聞きます。一度は行ってみたいとは思っているのですが……私達は後宮から出ることが許されていません、生涯行くことは出来ないでしょうね」
フィネが残念そうに眉尻を下げる。つられてティアナも切なく顔を歪める。
「そう……」
星砂漠に行くことが出来ないと知って憂いを帯びたティアナを見て、フィネは元気づけるように明るく言う。
「ですが、アデライーデ様なら大丈夫ですよ。スルタンにお願いなされば、きっとイヴァー・オアーゼに連れていっていただけますわ」
消沈している自分を慰めてくれたのが分かって、ティアナはフィネに切ない瞳で笑いかける。
「そうね、もしスルタンがお許しくださった時には、フィネにも一緒について来てもらうわ」
「本当ですか……!?」
ぱっと顔を輝かせて胸の前で両手を握りしめたフィネを見て、ティアナは頬が自然にほころんだ。
「ええ、約束するわ」
ふふっと二人で笑い合った時、マティルデが女官部屋から出てくる。ティアナの側に座っているフィネを見て眉間の皺を深くし、フィネは無言の威圧に慌てて立ち上がり姿勢を正す。ティアナは苦笑して、フィネに座るように言ったのだと弁護する。
コホンっとわざとらしい咳払いをしたマティルデは、フィネが座っていたことについては何も言わずに、来客が来たことを告げる。
「アデライーデ様、ダリオ様がおいでになりました」