第21話 魔法使いの誘惑
「ここがロ国のハレム? はっ――つくづく悪運なのは血筋なのかい? いや――私が言える義理じゃないがね、それで君はそんな異国の衣装をまとっているというわけだ」
皮肉気な笑いを漏らし、黒髪の青年はつと翠がかった瞳を煌かせる。
ティアナは彼の言葉の所々に疑問を感じたが、青年はふっと鼻で笑っただけで疑問を解消してはくれなかった。
「で――君は何を迷っているのかね?」
いきなり核心に触れられて、ティアナはずきんと痛む頭と胸に眉根を寄せる。
「それは……」
「記憶? それってそんなに大事かい? 失くしてしまったということは、君にとってその記憶はたいして価値のある物じゃなかったのだろう? ここで人生一からやり直して愛する男と幸せに過ごす――結構じゃないか。君はそれを望んでいるのだろう?」
優しいダリオに惹かれ始めているのは確かで、ティアナの心が大きく揺さぶられる。
このまま、ここで、ダリオ様と一緒に――?
想い描いていなかったといえば嘘になる。どんなに記憶を思い出そうとしても頭痛がひどくなるばかりで、何一つ自分のことを思い出せない。いっそこのまま過去の記憶など忘れて、そんな未来もいいかと思ったこともある。
それでも、失くした記憶を必死に取り戻そうとした――なんのために?
その記憶は本当に必要なの?
記憶をとりも出す――そのことだけを考えて過ごしてきた日々が、ティアナの真実が、青年の一言で粉々に砕け散ってしまう。
私はこのまま記憶など取り戻さずにハレムでダリオ様と幸せになることを望んでいるの――
頭が混乱し、久しぶりの激しい頭痛にティアナはその場にしゃがみこんで頭を抱える。
「ちが、う……」
翠の瞳に涙をいっぱいに溜め、青年を仰ぎみて切ない声をあげる。
確かにダリオのことは好きだ。だけどそれは胸をほんわりと温かくさせる気持ちで、恋ではない――ティアナの知っている愛ではなかった。
ティアナは黒髪の青年を、意思の強い瞳でまっすぐに見つめ立ち上がる。
「私は私自身の記憶を取り戻さなければならないわ――価値のないものなんかじゃない、大事な記憶よ――」
胸元に手を合わせ、夜着の下に身につけたラピスラズリのネックレスを握りしめる。そこから見えない力が湧きおこるようにティアナは失いかけていた自信に満ちあふれ、輝く顔を上げる。
「あなたのことも――思い出してみせる」
なぜかティアナはそう言っていた。
青年は一瞬、目を見開き、それから満足したように目を細めて口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「ふふ、それでこそ私の姫君だ――私のことを思い出してくれる日を心待ちにするとしよう」
そう言って、炎のはぜる音と共に青年は姿を消していた。
ティアナは突然現れ、自分の心を揺さぶって消えていった青年を思い浮かべて、きゅっと唇を強く引き結んだ。
私の記憶を知る魔法使い――せめて名前だけでも尋ねておけばよかったかしら。
ベッドに入りながら考えていたが、そんな懸念はすぐに吹き飛ぶことになる。
※
それからというもの、黒髪の青年はティアナが一人の時間を見計らったようにどこからともなく現れるようになった。
青年はティアナの失くした記憶を持っていて、だけど教えるつもりがない事は初めて会った時に感じていた。それなのにほぼ毎日姿を現す青年に、警戒心を持つよりも、なんとか情報を引き出そうと思って話し相手になるのだが、今のところ有力な情報は何も得られなくて、青年に対する態度はぞんざいになりはじめていた。
「私の姫君、今日は何をしているのだい?」
「編み物です、女官のフィネに教えてもらったのでやっているのです」
ティアナは青年に視線を向けず、手元の糸と鉤形の編み棒を握った手元に集中して答える。
「ふむ、して何を作っているのかね?」
「テーブルクロスですよ、実用的でいいでしょう」
実用的――なんて素敵な響きかしら。
そんなことを考えた瞬間、糸をかけ間違えて模様がぐちゃぐちゃになり糸が絡まる。一瞬の油断で駄目にしてしまった模様を勢いよく解き、ティアナは落胆して肩を落とす。
ティアナは国では畑仕事ばかりを手伝い、女性らしい裁縫や編み物の経験はほとんどない。料理は得意だし、薬草の調合など細かい作業は得意なはずなのに、編み物という初めて経験するものは見ているよりも実際にやって見ると大変難しくて――難しいからこそ、今度はもっと上手にやってみせると思ってどんどん編み物にのめり込んでしまった。が、いかんせん苦手なものは苦手なのだ――
集中力が完全に切れてしまって、気分を紛らわすようにティアナは編み物の道具をテーブルに置き、黒髪の青年に視線を向ける。
「あの、ずっと気になっているのですが、その“私の姫君”という言い方はやめてもらいたいのですが……」
僅かに頬を染めて言ったティアナを、青年は嘲笑うような表情を浮かべて見る。
「なぜだい? 君は私のものだ、何も間違った呼び方はしてはいないだろう。それともアデライーデと呼ぶ方がいいかな?」
「アデライーデは……私の本当に名前じゃないと知っているのでしょう? どうして本当の名前を教えてくれないのですか?」
「私と君は名前で呼び合うほど親しい関係ではなかったからね」
青年は不敵に笑い、ティアナは青年の矛盾した言葉に眉を顰める。
「親しい仲ではなかったのに、私はあなたのものなのですか――?」
「ああ、そうだとも」
くすりと意味深な視線を投げかけられて、胸に熱い痛みが走る。
青年と初めて会った時も、こうして話す時も、時々胸ににぶい痛みが走る。何が原因なのかは分からなかったが、青年と何か関係があることだけは分かる。
「では、あなたの名前だけでも教えて下さい。いつまでもあなたと呼ぶわけにはいかないでしょう?」
嫌味のつもりで言ったのだが、一瞬、青年の瞳がふっと和らいだように見える。
「私の名はセブラン・ルードウィヒ・メレディス・ファル・ホードランド――ルードウィヒと呼んで頂きたい」
「セブラン・ルードウィヒ……素敵な名前ね、ルード」
口に馴染む名前に、ティアナは思わず笑みを漏らしていた。
その表情を見て、黒髪の青年――ルードウィヒが瞳を切なげに揺らしていたことには気づかなかった。
「ルード、あなたは本当に不思議な人ね。何もないところから突然姿を現したり消したりできる魔法使いで、そんなあなたがどうして私の所に来るのか、不思議だわ」
相変わらず、苦戦しながらも編み物に挑戦し続けているティアナは、ずっと疑問だったことの一つをルードウィヒに投げかける。
「私がここに来るのに理由が必要かね――」
「必要というか――私が知りたいだけです。だってあなたは私のことをよく知っているみたいなのに、私はあなたのことを何も知らないわ。それって不公平じゃない?」
ティアナは唇を尖らせてすねるように言う。こんな風に言っても教えてもらえないことは予想していたけれど、知りたいという気持ちを押さえられなかった。
「不公平――か。ふふっ、君は本当に面白い事を言う。いいだろう、教えて差し上げよう。私の過去を――」