第18話 銀木犀の星
あてもなく中庭をさまよい、ティアナは大きなため息をつく。
私ったら何やっているのかしら――
隠すように持ちだした銀器を見て、きゅっと奥歯をかみしめる。
銀器は毒に反応する――
触れたティーカップが黒く変色した瞬間、脳裏に浮かんだのがそのことだった。どこから得た知識かは分からないのにそれが確かなことだけは分かって、注意深く行動したつもりだった。自分の手のひらに毒がついていると判断して、それを確かめる為に水に指を浸して銀器の反応を確認した。
毒のついた銀器をそのまま放っておいて誤って誰かが触れてしまわないように、毒のついた手と一緒に銀器も洗った。水洗いで毒が落ちるかは分からないけど、そのまま放置しておく訳にはいかなくて持ちだしてしまったのだ。
マティルデに毒のことを伝えるか迷っていた。
ハレムに来てダリオが毎夜ティアナの元に通うようになって、ハレムの女性から明らかな敵視を向けられている。その理由も分かっていたし、仕方ないと思っていたのに――まさか毒を盛られるとは思わなくて、嫉妬と憎悪に胸を押しつぶされそうで苦しかった。
マティルデに伝えれば、犯人を探したり何か対処を取ってくれるだろうけれど、それで今回の様なことが全くなくなるという保証はない。知らせて、事をあらだててしまう方がティアナには恐ろしかった。
はぁー……
情けない自分に嫌気がさして――
みんなが思っているような寵愛を自分は受けてなくて、みんなが見ている虚像に押しつぶされそうで、どうしようもない恐怖心が襲ってくる。
そろそろ戻らないと、マティルデさんが心配するかしら――
部屋には帰りたくないけれど心配させるのが申し訳なくて、部屋に戻ろうかと俯いていた顔を上げた時。
ふわりと甘い香りが鼻先に漂い、ティアナは香りに誘われるように歩きだす。しばらく歩いた先――他の木から外れたところに立っている一本の木を見つける。無数の小さな白い花をつけた銀木犀に歩み寄り、その根元に生える細長い草に気づいてしゃがみ込む。
「この草は確か――」
見覚えのある草に手を伸ばした時、透き通るような声が木の裏側から聞こえてティアナは顔を上げた。
「銀輪草ですね――」
突然声をかけられて驚き、ティアナはしゃがんだ姿勢のまま顔を上げて銀木犀の裏から近づいてくる人物に視線を向けた。
シルバーグレイのゆったりとした裾の長い服を着た中性的な顔立ちの美しい女性が、儚い笑みを浮かべて言う。その背中には豊かな黒髪が流れ、紫の瞳が光彩を放ち、なんとも言えない美しさを持つ。
近くに人がいるとは思っていなかったティアナはすぐに声が出せず、女性はふわりと笑みを浮かべてティアナの側にしゃがむ。
「銀輪草は銀木犀の側に生える小さな花をつける草、だけれど――解毒作用があることはあまり知られていない」
その言葉に、ティアナはぴくりと肩を震わせて女性を凝視する。
どうしてこの人はそのことを知っているのかしら――
銀輪草が解毒作用のある草だとティアナは知っている。それがあまり一般的に知られていないことも。ではなぜこの人はそのことを知っていて――自分に教えるのかと、疑念が胸に渦巻く。
視界に霞む黒髪が、ある人を思い出して頭痛がしてくる。
「どうして、そのことを私に――?」
痛む頭を押さえながら、ティアナはそう言うのがやっとだった。
女性は人好きのする優しい笑みを浮かべると、銀輪草を摘み取ってティアナの手に握らせる。
「ここでは必要になるでしょう――」
意味深な言葉を投げかけられて、ティアナは眉根を顰めて女性をしかと見つめる。
ハレムには大勢の女性がいるし、黒髪の女性も多い。だけど、こんなに目を惹く美しい紫瞳の女性はいただろうか――
ティアナは集会で目にする女性を思い浮かべて、記憶の中に紫瞳の女性を見つけられなくて顔を歪める。
「あなたはここにいるべき人ではありません、ここに長くいることはないでしょう――」
「あの、それはどういう意味ですか――?」
ティアナが困惑して尋ねた時、遠くでマティルデとフィネの呼ぶ声が聞こえる。
女性は儚げな笑みを浮かべて、ティアナの手を握りしめる。
「さあ、呼んでいます。おいきなさい」
「でも――」
「今はここがあなたの居場所です。だけれどお気をつけなさい、守りの壁を掻い潜って悪しき者が近づいてくるでしょう――」
そう言ってきゅっとティアナの手をにぎると、紫瞳の女性はシルバーグレイの裳裾を翻して、銀木犀の向こうへ消えていってしまった。
「アデライーデ様! お探ししましたよ、いくら中庭といえど、あまり一人で歩かれては不用心です」
眉根をきつくよせたマティルデに怒られて、ティアナは素直に謝った。
「ごめんなさい……」
「今回は何事もなかったからよろしいですが、あなた様はハセキ様になられたのですよ。自分のことにはもっと責任をお持ちになられて――」
まだまだ続きそうなマティルデのお説教は、ティアナの耳を通り過ぎていく。
ティアナは紫瞳の女性が消えた向こうを見つめ、夢か幻を見たのかと首をかしげる。
「アデライーデ様、聞いていらっしゃいますか!?」
めずらしく声を荒げるマティルデに、フィネが仲裁に入ってくれる。
「マティルデさん、とにかくアデライーデ様をお部屋にお連れいたしましょう」
「……、わかりました。まずはお部屋へ」
まだ言い足りないという様に顔を顰めたマティルデは、しぶしぶ言葉を切る。
「さあ、アデライーデ様、お部屋に戻りましょう」
フィネに促されて銀木犀の方を振り返りながら歩きだしたティアナの服の裾を見たマティルデがヒステリックな声を上げる。
「まあまあ、せっかくの衣装が……っ」
だけど、ティアナはマティルデの声は耳に入らず、銀木犀から手のひらに視線を移す。そこには可憐な花をつけた銀輪草と銀色の華の形を施された飾りが一つ――